信長公記 現代語訳 - 首巻
「これは信長御上洛より以前の話なり。」
                                                    太田和泉これを綴る
一、尾張国上下分かちの事
さるほどに尾張国には八つの郡があり、上方の四郡すなわち丹羽、羽栗、中島、春日井と下方の四郡、海東、海西、愛知、知多の計八郡からなり、上四郡を織田伊勢守が岩倉城を拠点に領し。五条川を隔てて下四郡を織田大和守が守護代として清州城に武衛様を守り奉っていた。
因みに武衛様とは尾張守護、斯波義統様にて御座候。
大和守の配下には三人の奉行がおり。
織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠。
この三人諸沙汰奉行人なり。
弾正忠と申すは尾張国の端にある勝幡という所に居城なり。
家臣には、西巌、月巌、嫡男・織田信秀殿、次男・織田信康殿、三男・織田信光殿、四男・織田信実殿、五男・織田信次殿などがいた。代々武門の家柄なり。
織田信秀殿は取分け器量の仁にて、諸家中の有能な者と御昵懇になされて、味方に引き入れていった。

天文七年(1538)
織田信秀、尾張国の中ほどにある那古野へ丈夫な城を作るよう命じられ、そこへ引っ越された。
織田信秀の嫡男である吉法師殿に、四人のおとな衆を任命遊ばされた。
一おとな林秀貞、二おとな平手政秀、三おとな青山信昌、四おとな内藤勝介
吉法師殿養育の担当は平手政秀だが、手を焼く事限りなく天王坊と申す寺へ吉法師殿をご修学に出された。

天文八年(1539)
織田信秀殿、那古野の城は吉法師殿へ御譲りになり、那古野と熱田の間にある古渡という所に新城をこしらえ、御居城なり申した。
御台所賄い人は山田弥右衛門なり。

二、小豆坂合戦の事

天文十一年(1542)八月十日
駿河衆三河国の正田原へ出陣し、七段に軍勢を備え候。その折、三河内の安城という城、織田信秀が支配され候。駿河衆の由原が先陣にて、小豆坂へ軍勢を出し候。織田信秀すぐに安城より矢作へ軍を出し、小豆坂にて、織田信秀殿御舎弟衆織田信康殿・織田信光殿・織田信実殿をはじめとしてやがて一戦に取り結び相戦う。
その時よき働きの衆、
 織田信秀
 織田信康
 織田信光
 織田信実
 織田信房(これは槍傷を被った)
 下方左近
 佐々政次
 佐々成経
 中野一安
 山口教継
 内藤勝介(これはよき武者討ちとり功名) ※吉法師、おとな衆の一人
 那古屋弥五郎(清州衆にて候、討死候なり)
 赤川彦右衛門
 神戸市左衛門
 永田次郎右衛門
三度・四度懸り合い懸り合い戦が終わり、各々手柄を上げた者限りなし。前後不覚の容体これなり。ここにて那古屋弥五郎首は由原討取るなり。これにより駿河衆軍勢を撤退し候なり。

三、吉法師殿御元服の事

天文十五年(1546)
吉法師殿十三の御歳。林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介、御共し古渡の御城にて御元服。織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀が厳粛に行われた。
天文十六年(1547)
織田三郎信長御武者始として、平手政秀がその時の仕立てをした。紅筋の頭巾・羽織・馬鎧の出で立ちにて、駿河より軍勢を入れ置いている三河国内の吉良大浜へ手勢を率い、所々放火しその日は野営をし、次の日那古野に至って御帰陣。

四、美濃の国へ乱入し五千人討死の事

天文十六年(1547)九月三日
織田信秀殿は国中に頼み勢をなされて、一カ月間、美濃国へ御出陣。又翌月は三河国へ御出陣。天文十六年(1547)九月三日、尾張国中の軍勢を御頼みされて美濃国へ御乱入。在々所々放火候て、九月二十二日、斎藤山城道三居城稲葉山の山下村々へ軍勢を押し出し焼き払い。町出入口まで取りついた。しばらくして夕暮れ申刻(15時〜17時)に及び撤退を始め、半分ばかり引きっとった所へ、斎藤道三どっと南へ向けて切りかかり「相支え候」と言えども多数崩れ織田信秀かなわず、
織田信康 ※小豆坂合戦で活躍
織田因幡守 ※織田大和守、三奉行の一人
織田主水正
青山信昌 ※織田信長、おとな衆の一人
千秋紀伊守
毛利十郎
おとなの寺沢又八舎弟
毛利藤九郎
岩越喜三郎
はじめとして歴々五千ばかり討死なり。

五、景清あざ丸刀の事

先年尾張国より濃州大垣の城へ織田播磨守を入れ置かれ候。
去る九月二十二日、山城道三大合戦に打ち勝って申すには「尾張の者は足も腰も立つまじく候間、大垣を取囲みこの際、攻め干すべきの由」候て、近江の国より加勢を頼み、霜月上旬、大垣の城近々と取りつき候。
ここに奇異の事あり。去る九月二十二日大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持の『あざ丸』を最期に差されたり。この刀、陰山掃部助求め、差し候て、成敗に参陣候て、西美濃大垣の並びに、牛屋の寺内に居陣。床几に腰をかけ候所、さんさんの悪しき弓にて、木鋒をもって城中より虚空に軍勢の備えの中へ射かけ候へば、陰山掃部助が左の眼に当たる。その矢を抜き候へば、又二の矢に右の眼を射潰す。その後、この『あざ丸』惟住五左衛門の所へ廻り来て、五郎左衛門眼病頻に相煩う。「この刀所持の人は必ず目を煩うの由」の風聞を聞き候。「熱田へ参られるべし」と、皆々意見し候。これによって熱田大明神へ新納奉ったら即時に目もよくまかりなり候なり。

六、大垣の城へ援軍の事

十一月上旬。「大垣の城近々と取囲み、斎藤山城道三攻め寄せるの由」注進しきりなり。「その儀においては打ち立つべきの由」候て、
十一月十七日、織田備後守援軍として、また頼み勢をなされて、木曽川・飛騨川の大河を舟渡しにて越えられ、美濃国へ御乱入。
竹ヶ鼻を放火して、かなべ口へ攻め寄せて所々に煙を上げられている間に、道三この動きに仰天を致し大垣の陣を引き払い稲葉山城へ籠った。
その動きを見て備後守は軽々と尾張へ帰陣。御手柄申すばかりなき次第なり。
十一月二十日、この留守に尾張国内の清州衆、備後殿の古渡城へ軍勢を出し、町出入口を放火し、御敵の色を立てられ候。そうこうしている間に備後殿が帰陣。これより敵対に及び候。
清州のおとな衆には坂井大膳・坂井甚介・河尻与一がおり。平手中務丞は、この衆へ和睦の意見を数通送ったが、なかなか折り合いがつかなった。翌年の秋の末になり互いに譲歩して和睦が無事成立になり。その時平手は、大膳・甚介・河尻の方々へ「和睦珍重の由」という旨の礼状を遣わす。その端書きに古歌一首これあり。

『袖ひちて 結びし水の こほれるを 春立つけふの 風や解くらん』

と書いていたのを覚えており候。か様に平手中務丞はささいな物事にも風雅な仁にて候。

七、上総介殿行儀の事

さて平手中務の才覚により、織田三郎信長と斎藤山城道三が息女との婚儀が成立。尾張へ腰入れと相成り申した。然るにこれにていずれも平穏になり候。
信長十六・七・八までは道三が息女以外の御遊びは御座なく、馬を朝夕御稽古、また三月より九月までは川に入り水練に御達者なり。その折、竹槍にて叩き合いを御覧じられ、「とにかく槍は短くては悪しき候」と仰せられて、三間槍・三間間中柄(5.5〜6mぐらい)等にさせられた。この日の格好は、浴衣の袖を外し、袴、火打袋、色々あまた付けさせられ、髪は茶筅に紅糸、萌黄糸にて巻き立て結わせられ、大刀朱鞘を差させられ、悉く朱武者に仰せつけられ候。
市川大介を召し寄せて御弓稽古、橋本一巴師匠として鉄砲御稽古、平田三位を普段から召し寄せられ兵法御稽古、それと御鷹野なり。
ここに醜き事あり。町をお通りの時、人目も御憚りなく栗・柿は申すに及ばず、瓜をかぶり食いなされて、町中にて立ちながら餅を食べ、人に寄りかかり、人の肩にぶら下がりながら以外は歩かなく候。その頃の世間は儀礼が重んじられている時代に候、「大うつけよ」と他に申す者無きにて候。

八、犬山謀反企てられるの事

一、さるほどに備後殿、古渡の城破却なされ、末盛という所に山城をこしらえ御居城なり。
一、正月十七日、上郡の犬山・楽田より軍勢を出し、春日井原を駆け通り、竜泉寺の下にある柏井口へ軍勢を出し、所々に煙を上げ候。即時に末盛より備後殿が軍勢駆けつけ、取り合い、一戦に及び切り崩し、数十人討取り、春日井原より犬山・楽田衆逃げ崩れ候。
何者の仕業か落書所々に立て置き候。

曰く「遣縄(やりなわ)を引きずりながら広き野を遠吠えしてぞ逃ぐる犬山」(遣縄、今で言う首輪チェーン、リードの類か)

備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段と武辺者なり。これは守山という所に御居城候なり。

九、備後守病死の事

備後守殿疫病御悩みなされ、様々御祈祷・御治療候といえども御平癒なく、ついに三月三日御歳四十二と申すに御他界。生死無常の世の習い、悲しい哉

颯々たる風来ては万草の露を散らし漫々たる雲色は満月の光を陰す

以て一院を御建立、万松寺と号す。当時の東堂桃巌とと名付けて、銭施行を行い国中の僧衆集いておびただしき御弔いなり。その折関東上下向中の修行僧達あまたこれあり。僧衆三百人ばかりこれあり。
三郎信長公、林・平手・青山・内藤、家老の衆御供なり。
御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下御供なり。
信長御焼香に御出でになられ、その時の信長公の御仕立て、長柄の大刀・脇差を三五縄で巻き、髪は茶筅に巻き立て、袴もお召し候はず仏前へ御出であって、抹香をくわっと御掴み候て、仏前へ投げかけ御帰り。
御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべき如くの御作法なり。
三郎信長公を「例の大うつけよ」とそれぞれ評判候なり。その中に筑紫国の客僧一人「あれこそ国は持つ人よ」と申したる由なり。
一、末盛の城は勘十郎公が入り、柴田権六・佐久間次右衛門、この他歴々相添え御譲りなり。
一、平手中務丞子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。総領の平手五郎右衛門良き駿馬を所持候。三郎信長公御所望のところ、皮肉を申し「それがしは武者を仕り候、御免候え」と申し候て進上申さず候。信長公御遺恨浅からず。度々思し召しになり、主従不和となるなり。
三郎信長公は上総介信長と自称し候なり。
一、さるほどに平手中務丞、上総介信長公真面目に御座なき容態を悔やみ「守り立て候えども成果なく候えば、存命候ても詮なき事」と申し候て、腹を切り相果て候。

十、山城道三と信長御参会の事

一、天文二十二年(1553年)四月下旬の事に候。
斎藤山城道三、富田にある正徳寺まで罷り出るべく候に「織田上総介殿もこれまで御出で候はば祝着に候、対面ありたき」の趣旨申し越し候。この子細は、この頃上総介を嫉妬し候て「婿殿は大たわけにて候」と、道三前にて口々に申し候「左様に人々申し候時は、たわけでは無く候よ」と山城つねづね申し候。見参し候て善し悪しを見定め候わん為と聞こえ候。
上総介公御遠慮なく御受けをなされ、木曽川・飛騨川の大河を舟渡しにて越えられ御出で候。富田と申す所は家々七百間(1.2km程か)これあり。富貴の所なり。大坂より来た代坊主が治め、美濃・尾張の判形を取り候て免許の地なり(兵役年貢免除の地)。斎藤山城道三の考えでは、もし真面目ではない人にて候はば、仰天させ候て嘲笑候はんとの企てにて、古老の者七・八百、折目高なる肩衣・袴、衣装を正装なる仕立てにして、正徳寺の御堂の縁に並び座らせ、その前を上総介お通り候ように構えて、まず山城道三は町外れの小家に忍びて、信長公の御出での容態を見申し候。その時信長の御仕立て、髪は茶筅に遊ばし、萌黄の平打ちにて茶筅の髪を巻き立て、浴衣の袖を外し、のし付けの大刀、脇差し二つながら、長柄を三五縄で巻き、御腰の周りには猿使いの様に火打袋・ひょうたん七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つ変わりの袴を召して、御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ、寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、
一、髪を折曲にいっせのせに結わせられ
一、いつ染め置かれ候を知る人無き褐色の長袴を召し
一、小刀、これも人に知らせず拵え置かせられ候を差させられ、御出で立ちを御家中の衆見申し候て「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と、肝を消し、各々次第次第に斟酌仕り候なり。御堂へするすると御出であって、縁に御上り候所に、春日丹後・堀田道空差し向いに控え「早く御出でなされ候」と申し候えども、知らぬ顔にて、諸侍居並びたる前をするすると御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫く候て、屏風を押しのけて道三い出られ候。又これも知らぬ顔にて御座候を、堀田道空差し向いより「これぞ山城殿にて御座候」と申す時「であるか」と仰せられて候て、敷居より内へ御入りて候て、道三に御礼ありて、そのまま御座敷に御直り候なり。さて道空御湯漬けを御振舞い申し候。互いに御盃を酌み交わし、道三に御対面、残る所なき御仕合せなり。苦虫を噛み潰した風情にて「又やがて参会すべし」と申し罷り立ち候なり。二十町(約2km)ばかり御見送り候。その時、美濃衆の槍は短く、こなたの槍は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候。途中あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申すには「何と見申し候ても上総介はたわけにて候」と申し候時、道三申すには「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」とばかり申し候。自今以後道三が前にてたわけと言う事申す人これなし。

十一、三の山赤塚合戦の事

天文二十二年(1553年)四月十七日
織田上総介信長公十九の御年の事に候。
鳴海の城主山口左馬助・子息九郎二郎が二十歳の時、父子、織田備後守殿御目をかけられ候所、御他界候えば程なく謀反を企て、駿河衆を引きいれ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置き、
一、笠寺へ砦、要塞を構え葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。
一、中村に在所を拵え、父・山口左馬助立て籠もる。
か様に候所、四月十七日。
一、織田上総介信長公十九の御年、軍勢八百ばかりにて御出陣、中根村を駆け通り、古鳴海へ移られ、三の山へ御上がり候の処、
一、御敵山口九郎二郎二十歳の時、三の山の十五町(約1.5km)東、鳴海より北赤塚の郷へは鳴海より十五・六町(約1.5〜1.6km)あり。九郎二郎軍勢千五百ばかりにて赤塚へ駆け出し候。
先手の足軽、
清水又十郎
柘植宗十郎
中村与八郎
荻原助十郎
成田弥六
成田助四郎
芝山甚太郎
中嶋又二郎
祖父江久介
横江孫八
荒川又蔵
これ等を先として赤塚へ移り候。
一、上総介信長、三の山よりその由を御覧じ、即、赤塚へ陣を寄せられ候。
御先手足軽衆
荒川与十郎
荒川喜右衛門
蜂屋般若介(はんにゃのすけ)
長谷川橋介
内藤勝介 ※信長、おとな衆の一人。小豆坂合戦で活躍
青山藤六
戸田宗二郎
賀藤助丞
敵との間合い五間・六間(9〜10.8m)隔て候時、屈強の射手共互いに矢を放つ処、荒川与十郎、兜のひさしの下を深く射られて落馬したる処を、懸り来て敵方へ脛を取って引く者あり、のし付きの柄の方を引く者もあり。又こなたより頭と胴体を引き合う。その時与十郎差したるのし付き、長さ一間(180cm)、鞘幅は五・六寸(15〜18cm)候つる由なり。鞘の方をこなたへ引き、ついにのし付き・首・胴体共に引き勝つなり。巳刻(午前10時)より牛刻(正午)まで乱れ合いて、叩き合いては退き、又負けじ劣らじと懸っては叩き合い叩き合い、槍下にて敵方討死、
荻原助十郎
中嶋又二郎
祖父江久介
横江孫八
水越助十郎
余りに近い筋が多く、首は互いに取り候はず。
一、上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。
一、荒川又蔵こなたへ生け捕り。
一、赤川平七敵方へ生け捕り候なり。
入り乱れて火花散らし相戦い、四間・五間(7.2〜9m)を隔て折敷の構えで、数刻の戦に、九郎二郎は上槍なり。その頃、上槍下槍という言葉あり。いずれも見知り顔の事なれども、互いにたるみは無かりけり。降り立っての事にて、馬共は皆敵陣へ駆け入るなり。これ又、少しも間違い無く返し進上候なり。生け捕りも替え替えなり。さてその日の御帰陣なり。

十二、深田松葉両城手変わりの事

天文二十一年(1552)八月十五日
清州より坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位申し語らい、松葉の城へ駆け入り、織田伊賀守を人質に取り、同松葉の並びに
一、深田と言う所に織田右衛門尉居城。これ又、松葉同様に人質を取り堅め、御敵の色を立てられ候。
一、織田上総介信長、御年十九の暮八月、この由聞かせられ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲葉地の川端まで御出馬。守山より織田孫三郎殿(※信長の叔父。守山城主。小豆坂合戦で活躍)駆けつけさせられ、松葉口・三本木口・清州口三方へ手分けを仰せ付けられ、稲葉地の川を越し、上総介殿・孫三郎殿一手になり、海津口へ御攻めかかり候。
一、清州より三十町(約3km)ばかり軍勢を進め、海津と申す村へ移り候。
信長、八月十六日辰刻(午前8時)東へ出陣し一戦に及び、数刻火花散らし相戦う。孫三郎殿配下にて小姓上がりの赤瀬清六とて数度武功を致す覚えの腕前、先を争い坂井甚介に渡り合い。散々に暫く相戦い討死。だがついに清州衆が切り負け、おとな衆、坂井甚介討死。首は中条小一郎・柴田権六が相討ち取りなり。
この他討死、
坂井彦左衛門
黒部源介
野村
海老半兵衛
乾丹後守
山口勘兵衛
堤伊予
始めとして、歴々五十騎ばかり枕をならべて討死。
一、松葉口、二十町(約2km)ばかり軍勢を進め、砦を取囲み、追詰め、馬島の大門崎の端にて相支え、辰刻(午前8時)より牛刻(正午)まで一戦に及び、数刻の矢軍に手負いあまた出来、無人になり撤退の所にて、
赤林孫七
土蔵弥介
足立清六
討ち死に本城へ入るなり。
一、深田口の事、三十町(約3km)ばかり踏み出し、三本木の町を取り囲まれ候。要害これ無き所に候により、即時に追い崩し、
伊藤弥三郎
小坂井久蔵
始めとして屈強の侍三十余人討死。これによって深田の城・松葉の城両城へ軍勢を進められ候。降参を申し城を明け渡し、清州へ一手に撤収し候。
上総介信長、これより清州に軍勢を進め、田畑薙ぎをさせられ、御敵対始まるなり。

十三、簗田弥次右衛門御忠節の事

一、さるほどに、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門という小禄の者が居り申した。
面白い謀略にて知行過分に取り、大名になられ候。仔細は清州に那古野五郎という、十六・七になる若年の三百人ばかりを召抱えている者がいた。色々色目を使い、男色の関係を仕り、清州の流言を吹き込み、「上総介殿の御味方候て御知行御取り候へ」と、時々なだめ申し弥五郎が家老の者共にも申し聞かせ、欲にくらみ「もっとも」と皆賛同候。然るに弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣旨内々に申し上ぐるについて、御満足斜めならず。
ある時、上総介殿軍勢を清州へ出し、町を焼き払い、裸城に仕り候。
信長も御馬を寄せられ候へども、城中堅固に候により、撤退した。
武衛様も城中におわせば迂闊に攻める事相叶わず、隙を見て乗っ取られるべき御謀略の由申すについて、清州城の外廓より城中を監視、苦慮せられ候。

十四、武衛様御切腹の事

天文二十三年(1554)七月十二日
若武衛様に御供申し、屈強の若侍ことごとく川狩りに罷り出られる。
清州城内には老者が極わずかに相残る。誰々これありと指折り見申すは、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位。これらは談合を極め「今こそ(武衛様を討つ)良き時期なり」と、どっと四方より押し寄せ御殿を取り巻く。表広間の入り口にて、何あみと申す同朋、これは謡をよく仕る仁にて候。切って出て働く事比類なし。又、警護役の森刑部丞兄弟切って周り、数多に手傷を負わせ討死。首は柴田角内が二つ共取るなり。裏口にては柘植宗花と申す仁、切って出て比類なき働きなり。四方の屋上より弓衆さし取り引きつめ散々に射立てられ相叶わず、御殿に火を懸け、武衛様はじめ御一門数十人歴々御腹召され、御上臈衆は堀へ飛び入り、渡り越し助かる人もあり。水に溺れ死ぬるもあり。哀れなる有様なり。若武衛様は川狩りよりすぐに浴衣の仕立てにて、信長を御頼み候て那古野へ御出で、すなわち二百人扶持(を食わせていけるだけの禄)仰せつけられ、天王坊に置き申され候。主君と申しながら、筋目無き御謀反を思召し立ち、仏天の加護なく、か様に浅ましくむざむざ相果て候。
(※事の経緯は守護大名である武衛様が守護代織田大和守の傀儡として据えられている事に不満を持ち出し両者の対立が深まりつつある時に織田大和守が信長暗殺計画を企て、それを武衛様が信長へ密告した。それを知った大和守の怒りは頂点に達し事に至る)
武衛様の息子一人を毛利十郎がかくまい候て、那古野へ送り進上候なり。御自滅と申しながら天道恐ろしき次第なり。
清州城中にて日夜武衛様へ用心気遣い仕り、粉骨の族共も、一旦憤りを紛わせても、誰も彼も小屋小屋焼かれ候て、兵糧、普段着等に事を欠き、難儀の仕立てにて候なり。

十五、柴田権六中市場合戦の事

天文二十三年(1554)七月十八日
柴田権六清州へ出陣 ※柴田権六、末盛城主織田勘十郎の家臣。深田松葉の戦いで活躍
足軽衆
安孫子(あびこ)右京亮
藤江九蔵
太田又助
木村源五
柴崎孫三
山田七郎五郎
これ等を率いて、山王口にて取り合い追い入れられ、安食村にて敵方相支え候えども叶わず。
成願寺前にて再度応戦候へども、遂に町口大堀の内へ追い入れられる。
河尻左馬丞、織田三位、原殿、雑賀殿切ってかかり、二・三間叩き合い候えども、那古野方の槍は長く清州方の槍は短く、突き立てられ、しかしと言えども一歩も去らずに討死の衆、
河尻左馬丞 ※武衛様暗殺の首謀者の一人
織田三位 ※松葉城の織田伊賀守を人質にした一人。武衛様暗殺の首謀者の一人
雑賀修理
原殿
八坂
高北(こうきた)
古沢七郎左衛門
浅野久蔵
歴々三十騎ばかり討死。武衛様の家臣・由宇喜一、未だ若年十七、八浴衣の仕立てにて乱れ入り、織田三位殿首を取る。上総介信長御感激斜めならず。
武衛様逆心思召したつといえども、譜代相伝の主君を殺し奉り、その因果たちまち歴然にて、七日目と申すに、各々討死、天道恐ろしき事なり。

十六、村木ノ砦攻めらるるの事

一、さるほどに、駿河衆岡崎に在陣候て、重原の山岡砦攻め干し乗っ取り、岡崎よりに続き、これを根城にして緒川の水野金吾砦へ軍勢を出し、村木という所、駿河より丈夫に砦を作り、駿河衆立て籠もり候。ならびに寺本の城も人質を出し、駿河へ加担仕り、御敵にまかりなり、緒川への通路切り取り候。御援軍として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。しかしながら、御敵清州より定めて御留守に那古野へ軍勢を出し、町を放火させ候ては如何と思召し、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、留守居の軍勢を一軍乞いに遣わされ候。
道三かたより、天文二十三年(1554)正月十八日、那古野留守居として、安藤伊賀守大将にて、人数千ばかり、
田宮
甲山
安斎
熊沢
物取新五
これ等を相加え「見及ぶ戦況、日々注進候え」と申し付け、援軍に正月二十日尾州へ着陣候。居城那古野近所である志賀、田幡両郷に陣を置かれ、二十日に、陣中御見舞として信長御出でになり、安藤伊賀に一礼仰せ付けられ、翌日御出陣候はんの所、一おとなの林新五郎、その弟美作守兄弟不満を申し立て、林が与力荒子の前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆「いかが御座候はん?」と申し候えども、さきの様に申し候「苦しからず」の由、上総介仰せつけられ候て御出陣。その日はものかわと言う所に馬を休め、正月二十一日熱田に御泊り。二十二日もっての外に強風候。「御渡海なるまじき」と主水、舵取りの者申し上げ候。「昔の渡辺、福島にて逆櫓争う時の風もこれ程こそ候らめ。是非に御渡海あるべきの間、舟を出し候え」と、無理に二十里(80km)ばかりの所、只半時(1時間)ばかりに御着岸。その日は野陣を掛けられ、すぐに緒川へ御出て、水野下野守に御参会候て、ここもと様子よくよく聞かせられ緒川に御泊り。

一、天文二十三年(1554)正月二十四日
夕方に御出陣し、駿河衆立て籠もり候村木の城へ取り懸け攻められ、北は難所手空きなり。東は大手(正面口)、西は搦手(裏口)なり。南は大堀霞むばかり茶碗形に堀り上げ、丈夫に構え候。上総介信長、南の方攻め難き所を受けもち候て、軍勢出されて、若武者共我劣らじと登り、突き落とされては又這い上がり、手負い、死人その数を知らず。信長堀端に御座候て「鉄砲にて狭間三つ攻めよ」の由仰せられ、鉄砲替え替え放させられ、上総介殿御下知なさるるの間、我も我もと攻め登り、塀へ取り付き、突き崩し突き崩し、西搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口。これまた攻め寄るなり。外丸への一番槍は六鹿と言う者乗り入るなり。東大手の方は水野金吾攻め口なり。
城中の者働く事比類無き働きなり。しかりと言えども、隙を見せず攻め立てられ、城内も手負・死人、次第次第に無人になり、様々降参申し候。もっとも攻め滅ぼすべき事に候えども手負・死人塚を築き、その上、既に薄暮に及び候の間、降参の旨に任せ、水野金吾に仰せ付けらる。信長御小姓衆歴々その数を知らず手負・死人、目も当てられぬ有様なり。
辰刻(午前8時)に取り寄せ、申の下刻(午後5時)まで攻めさせられ、御存分に落着候。
御本陣へ御座候て「その者もその者も」と仰せられ、感涙を流させられ候なり。翌日は寺本の城へ御手遣。麓を放火し、これより那古野に至って御帰陣。

一、天文二十三年(1554)正月二十六日
安藤伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、二十七日美濃衆帰陣。安藤伊賀守、今度の御礼の趣、難風渡海の様子、村木攻められたる次第、懇ろに道三に一々物語申し候所に、道三申すに「凄まじき男、隣には嫌なる人にて候よ」と申したる由なり。

※文中に「無理に二十里ばかりの所、只半時ばかりに御着岸」とあり、角川ソフィア文庫「信長公記」では、『熱田から知多郡の西岸へ渡るのだが、二十里という里程には誤写があろうか』と脚注がある。二十里という距離が事実であると考えると可能性としては熱田から知多半島を周り境川から緒川近くまで舟で行ったとしたら。二十里程になる。只1時間という時間を強風であったという事を踏まえて考えてもあまり現実味はない。他の可能性としては筆者による誤字。

十七、織田喜六郎殿事御生害(付織田彦五郎生害)

一、清州の城、守護代織田彦五郎殿とてこれあり。領在の坂井大膳は小守護代なり。
坂井甚介・河尻佐馬丞・織田三位、歴々討死候て、大膳一人では抱え難きと考え、この上は織田孫三郎殿を頼み入るようと考えた「力を御添え候て、彦五郎殿と孫三郎殿両守護代に御成り候へ」と懇望申され候処、坂井大膳好みの如くに従うが、表裏あるまじき事の旨、七枚起請文を大膳方へ遣わし、相調い候。

一、弘治元年(1555)四月十九日
守山の織田孫三郎殿、清州の城南櫓へ御移り、表向きはかくの如くにて、内心は信長と談合され、清州乗っ取られるべしと考え、尾州下四郡の内に於多井川とて、大方はこの川を境にての事なり。孫三郎殿へ渡されると内密の御約諾なり。この孫三郎殿と申すは信長の叔父にて候。川西、川東と言うは尾張半国の内下二郡二郡づつ割譲との約束に候なり。

一、弘冶元年(1555)四月二十日
坂井大膳御礼に南櫓へ御礼に参り候えば「御生害をなさるべし」と、人数を伏せ置き相待たれるの所、城中まで参り、凄まじき気配をみて、風を切り逃げ去り候て、すぐに駿河へまかり越し、今川義元を頼り在国なり。守護代織田彦五郎殿へ押し寄せ腹を切らせ、清州の城乗っ取り、上総介信長へ渡し進ませられ、孫三郎殿は那古野の城へ御移り。
その年の十一月二十六日、不慮の事故にて孫三郎殿御他界。たちまち誓紙の御罰、天道恐ろしきかなと申し習いし候。しかしながら、上総介殿御果報の故なり。

一、弘冶元年(1555)六月二十六日
守山の城主織田孫十郎殿、竜泉寺の下、松川渡しにて若侍共と川狩りに打ち入りておる所を、勘十郎殿御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り候の所を「馬鹿者が乗打を仕り候」と申し候て、州賀才蔵と申す者弓を取り、矢を射かけ候えば、時刻到来してその矢当たり、馬上より落ちさせ給う。孫十郎殿を始めとして、川よりあがりてこれを御覧ずれば、上総介殿御舎弟喜六郎殿なり。御歳十五、六にして、お肌は白粉の如く、丹花の唇柔和の姿、容顔美麗人に優れて、美しきども中々例えにも及び難き御方様なり。各々これを見て「あっ」と肝を消し、孫十郎殿は取る物も取り敢えず、居城守山の城へは御出でなく、すぐに鞭を打っていずれともなく逃げ去り、数ヶ年御浪人、難儀せられ候なり。すなわち、舎兄勘十郎殿この事を聞き及び末盛の城より守山へ駆け付け、町に火をかけ、裸城になさた。

一、上総介信長も、清州より三里(9km)、一騎かけに一時(1時間)に駆けさせられ、守山入口矢田川にて御馬の口を洗わせられ候所、犬飼内臓参り候て言上。「孫十郎はすぐにいずれとも知らず駆け落ち候て、城には誰も御座なく候、町はことごとく勘十郎殿放火なされ候」と申し上げ候。ここにて信長仰せになるには「我々の弟などと言う者が、人も召し連れ候はず一僕の者の如く馬一騎にて駆けまわり候事、沙汰の限り卑しきなる仕立てなり。例え存命に候えども、今後御許容なされまじき」と仰せられ、これより清州へ御帰り。

十八、勘十郎殿、林、柴田御敵の事

さるほどに、信長は朝夕御馬を乗りまわされ候、今度も上り下り荒く乗りまわし候えども、こたえ候て苦しからず候。他の者の馬共は飼いつめ候て、常に乗る事稀なるによって、屈強の名馬とも三里の片道さへ運びかね、息を切らし候て、途中にて山田治部左衛門馬を始めとして損死候て、迷惑せられ候。

一、守山の城孫十郎殿が年寄衆をして籠城候。立て籠もる人数、
角田新五
高橋与四郎
喜多野下野守
坂井七郎左衛門
坂井喜左衛門
その子、坂井孫平次
岩崎
丹羽源六
者ども、
これ等として籠城候。
勘十郎より
柴田権六
津々木蔵人
大将として、木ヶ崎口から攻め入るなり。
上総介殿より
飯尾近江守
子息、讃岐守
その他諸勢丈夫に取囲ませ、閉じ込め置かれ候。
一、織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹違いの御舎兄なり。
その弟に安房守殿と申し候て、利口なる人あり。
上総介殿へ佐久間右衛門、説きに申し上げ「守山の城安房殿へ御譲られ候」角田新五、坂井喜左衛門おおよそ守山の両おとななり。二人謀反にて安房殿を引き入れ、守山城主に据え申し候。今度の忠節によって、下飯田村屋斎軒分と申す知行百石、安房殿より佐久間右衛門に下し置かるるなり。

一、さるほどに、信長公の一おとな林佐渡守、その弟林美作守、柴田権六申し合わせ、三人をして勘十郎殿を守り立て候はんと候て、既に逆心に及ぶの由風説持ち切りなり。
信長公何と思し召したる事か。
弘治二年(1556)五月二十六日に、信長と安房殿と唯二人、清州より那古野の城林佐渡所へ御出で候。「良い時機にて候、御腹召させ候はん」と弟の林美作守申し候を、林佐渡守あまりに恥ずかしく存じ候。「三代相恩の主君を、おめおめとここで手にかけ討ち申すべき事、天道恐ろしく候」とても判断に迷い候「今は御腹召させまじき」と申し候て、御命を助け、信長を帰し申し候。一両日過ぎて候てより御敵の色を立て、林与力の荒子の城、熱田と清州の間を分断し、御敵になる。米野の城、清州と那古野の間にあり。これも林与力にて候、一味同心に御敵仕り候。

一、弘治二年(1556)六月
これは守山城中の事、坂井喜左衛門子息孫平次を安房殿若衆にさせられ、孫平次並びなき出世にて候。これにて、角田新五、忠節を仕り候えども、程なく角田を蔑み候事無念に存じ、守山城塀柵を壊し候「建て直し候」と申し候て、普請半ばに土居の崩れたる所より人数を引き入れ、安房殿に御腹召させ候て、岩崎、丹羽源六者共を引き込み、城を堅固に備え候。か様に移り変わり候。

一、織田孫十郎殿長らく浪人なされ候を不憫に思し召し、御赦免候て、守山の城孫十郎殿へ下され候。後に伊勢長島にて討死候なり。

一、林兄弟が才覚にて、信長兄弟の御中不和となるなり。
信長御台所の化粧領である篠木三郷横領。定めて川際に砦を構え、川東の篠木三郷相抑え候べきの間、その巳前(10時前)にこちらより御砦備え付けるべしの由候て、
弘治二年(1556)八月二十二日
於多井川を越し、名塚という所に御砦備え付けられ佐久間大学入れ置かれ候。翌日二十三日雨降り、川の水かさ充分に増し候。その上御砦御普請はかどり首尾なしと存じ候。柴田権六郎軍勢千ばかり、林美作守軍勢七百ばかり引率して罷り出て候。
弘治二年(1556)八月二十四日
織田信長も清州より人数を出され、川を越し先手足軽が取り合い候。
柴田権六、千ばかりにて、稲生の村外れの街道を西向きに懸り来る。林美作守は南向き田の方より人数七百ばかりにて北向きに、信長へ向って懸り来る。上総介殿は村外れより六、七段(12〜14m)切り拓き御人数備えられ、信長の御人数は七百には達せざりと申し候。東の藪際に御居陣なり。
弘治二年(1556)八月二十四日牛刻(正午)
辰巳(東南)へ向って、まず柴田権六方へ向って過半攻め懸る。散々に叩き合い、山田治左衛門討死。首は柴田権六取ったが、負傷し逃れ候なり。佐々孫介その他屈強の者共討たれ、信長の御前へ逃れかかり、その時上総介殿御手前には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御槍持ちの御中間衆四十ばかりこれあり。
造酒丞、三左衛門両人は、清州衆土田の大原を突き伏せ、もみ合いて首を奪い候所へ、総が掛かりに懸り合い戦う所に、ここにて上総介殿大声を上げ、御怒鳴りなさるを見申し、さすがに身内の者共であるから、御威光に恐れ立ち留まり、ついに逃げ崩れる。この時造酒丞の下人禅門という者、神戸平四郎を斬り倒し、造酒丞に「首をお取り候え」と申し候えば「いくらも斬り倒し置きそうらえ」と申され、先をお急ぎになられる。
信長は南へ向って、林美作陣へ攻めかかられる所に、黒田半平と林美作数刻斬り合い、半平左の手を切り落とされ、互いに息を継ぎおり申し候所へ上総介信長、美作に懸り合いになられる。その時、織田勝左衛門御小人のぐうち杉若、よき働きによって、後に杉左衛門尉になされ候。
信長、林美作を突き伏せ、首を取らせられ、御無念を晴らせられ、これにより両方共を追い崩し、さててんでに馬を引き寄せ引き寄せうち乗って、追っ付け追っ付け首を切り取り、その日清州へ御帰陣。翌日首御実検を行えば、
林美作(信長おとな衆の林佐渡守の弟)首は織田上総介信長討ち取りになられる。
鎌田助丞 津田左馬丞討ち取る
富野左京進 高畠三右衛門討ち取る
山口又次郎 木全六郎三郎討ち取る
橋本十蔵 佐久間大学討ち取る
角田新五 松浦亀介討ち取る
大脇虎蔵 神戸平四郎
初めとして歴々首数四百五十余あり。
これより後は那古野、末盛籠城なり。この両城の間へたびたび押し入り、町入口まで焼き払い、御出陣なり。
信長のおふくろ様、末盛の城に御舎弟勘十郎殿と御一緒に御座候によって村井長門、嶋田所之助両人を清州より末盛へ召し寄せられ、おふくろ様の御使いとして、色々様々詫び言にて、御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵墨衣にて、おふくろ様御同道になされて、清州において御礼これあり。
林佐渡守の事、これまた出仕叶わざる事に候えども、先年御腹めさせにようとされた経緯を、佐渡覚悟を持って申し述べられる。その仔細を吟味なさり、今度御恩情をなされ候なり。

十九、三郎五郎殿御謀反の事

一、上総介殿の別腹で御舎兄三郎五郎殿、遂に御謀反思召し立ち、美濃国と仰せ合わされ様子は、何時でも御敵罷り出られ候えば軽々と信長懸り向うであろう。左様に候時に、かの三郎五郎殿御出陣候えば、清州町通りを御通りなられて、必ず城に留守に置かれられている佐脇藤右衛門罷り出て馳走を申し出てくるであろう。定めていつもの如く罷り出て候。その時佐脇を生害させ、その隙に付け入り城を乗っ取り、合図の煙を揚げましょう。すなわち、美濃衆近々に川を越し懸り向うと仰せられた。三郎五郎も人数を出され、御味方の様にして、合戦に及び候て後、手切りなさるべしと御企て候を仰せ合わせられ候。美濃衆、何時何時よりうきうきと渡り「いたり」へ人数を詰め候と注進これあり。
ここにて信長仰せになるには「さては家中に謀反これあり」と思し召され「佐脇城を一切出るべからず。町人も構えを厳重にし木戸を閉め堅め、信長御帰陣候まで人を入れるべからず」と仰せられ候て懸け出されられて、御人数出られ候を、三郎五郎殿お聞きになり、人数を打ち奮い清州へ御出陣なり。三郎五郎殿御出ましと申し候えども入れられ候はず。謀反聞こえ候かと御不審に思し召し、急ぎ早々御帰り。美濃衆も引き取り候。信長も御帰陣候なり。
一、三郎五郎殿御敵の色を立てられ、御取合半に候。御迷惑なる時援助する者はまれなり。
か様に、見限られ攻め一人に御成り候えども、屈強の度々の覚えの侍衆七百、八百甍を並べ御座候により、御合戦に及び一度も不覚これなし。

二十、おどり御張行の事(山口左馬助父子御成敗並びに海西、知多郡の事)

七月十八日おどりを御張行
一、赤鬼 平手内膳衆
一、黒鬼 浅井備中衆
一、餓鬼 滝川左近衆
一、地蔵 織田太郎左衛門衆
   弁慶になられる衆優れて器量なる体格なり。
一、前野但馬守  弁慶
一、伊東夫兵衛  弁慶
一、市橋伝左衛門 弁慶
一、飯尾近江守  弁慶
一、祝弥三郎   鷲になられた。一段と似合い申すとなり。
一、上総介殿は天人の御仕立てに御成りになられて、小鼓を遊ばし、女踊りをなされ候。
  津島にては堀田道空庭にて一踊り遊ばし、それより清州へ御帰りなり。津島五ヶ村の年寄共踊りの返しを仕り候。これまた結構申すばかりなき容態でそのまま清州へ参り候。御前へ召し寄せられ、おどけになられた。又は似合いたりなどなど、それぞれ親しげに、一々御言葉かけられ、御団扇にて恐れ多くも仰ぎになられ「御茶を召し上がられい」と下され、忝き次第、炎天下の辛労を忘れ、有難く皆感涙を流し帰り候。
一、熱田より一里(3km)東にある鳴海の城、山口左馬助入れ置かれ候。これは武辺者才覚の仁なり。既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならびに大高の城、沓掛の城両城も左馬助調略をもって乗っ取り、押し並べ、三角形に三ヶ所、いづかたへも間は一里(3km)づつなり。鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として立て籠もり、大高の城、沓掛の城番手の人数たぷたぷと入れ置く。この後、程あって山口左馬助、子息九郎次郎父子駿州へ呼び寄せ、忠節の褒美はなくして、無情に親子共に腹を切らせ候。
一、上総介信長、尾張国半国は従えられてる事に候えども、海西一郡は荷之上の坊主、服部左京進横領して御手には属さず。知多郡は駿河より乱入し、残りて二郡の内も乱世の事に候、しっかりとは御手に従わず。たかがこれしき、万御不如意千万なり。

二十一、天沢長老物語の事

さるほどに、天沢と申される、天台宗の師僧あり。一切経を二篇読み返した人にて候。ある時関東下りの折に、甲斐国にて「武田信玄に一礼申されて参られ候え」と奉行人申すに付いて、御礼申し候の所「上方はいづくぞ」と、まづ国を御尋ねにて候。「尾張国の者」と申し上げ候。郡を御尋ね候。「上総介殿居城清州より五十町(約5.5km)東、春日原の外れ、味鋺と言う村天永寺と申す寺中に居住の由」申し候。「信長の行儀を、ありのまま残らず物語り候え」と仰せられ候、申し上げ候。「朝毎に馬を乗られ候。又鉄砲御稽古、師匠は橋本一巴にて候。市川大介を召し寄せ弓御稽古。普段は平田三位と申す者近づけ置かせられ、これも兵法にて候。しげしげ御鷹野にて候」と申し候。「その他好きは何かあるか」と御尋ね候。「舞と小唄好きにて候」と申し上げ候えば、「『幸若大夫』辺りか」と仰せられ候。「清州の町人に友閑と申す者、細々召し寄せ、舞わせられ候。敦盛を一番より他は御舞いならさらず候。人間五十年、下天の内を暮らぶれば夢幻の如くなり。これを口付きて御舞い候。また小唄を好きて歌わせられ候」と申し候えば「異な物を好かれ候」と信玄仰せられ候。「それはいか様の歌ぞ」と仰せられ候。「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定語りをこすよの、これにて御座候」と申し候えば「ちとその真似せられ候え」と信玄仰せられ候。「沙門の儀に候えば申したる事も御座なく候、まかりなり難し」と申し上げ候えば「是非是非」と仰せられ、真似を仕り候。「鷹野の時は二十人鳥見の衆と申す事申し付けられ、二里、三里御先へ参られて、あそこの村の鴈あり、鶴あり、と一人鳥に付け置き、一人は注進申す事に候。」

二十二、六人衆と言う事

また六人衆と言う事定められ
 弓三張の人数
浅野又右衛門、太田又介、堀田孫七 以上
 槍三本人数
伊藤清蔵、城戸小左衛門、堀田左内 以上
この衆は常に御手周りに控えあるなり。
一、馬乗り一人、山口太郎兵衛と申す者、藁を虻付きに仕り候て、鳥の周りをそろりそろりと乗りまわし、次第次第に近寄り、信長は御鷹据えられ、鳥に見つけられぬ様に、馬の影に引っ付いて近寄り候の時、走り出て御鷹を出される。『向こう待ち』と言う事を定め、これには鍬を持たせ農人の様に真似させ、耕してる振りをしながら近づく。御鷹取り付き候て組み合いっている所を、向こう待ちの者鳥を抑え申し候。信長は達者に候、度々抑えられ候と承り及び候。
「信長の武名を知られ候事、道理にて候よ」と候て、苦虫を噛みたる顔にて候「御暇を」と申し候えば「上りにて必ず」と仰せられ、退出したと、天沢御雑談候。

二十三、鳴海の城へ御砦の事

尾張国の内を義元率いられたく候、上総介殿一大事と御胸中が満たされ候と聞こえ申し候なり。
一、鳴海の城、南は黒末の川という入海、潮の差引き城下までこれあり。東へ谷あい打ち続き、西また深田なり。これより東へは山続きなり。城より二十町(約2km)隔て、丹下と言う古屋敷あり。これを御砦に構えられ、
水野帯刀
山口ゑびの丞
柘植玄蕃頭
真木与十郎
真木宗十郎
伴十左衛門尉
東に善照寺とて古遺跡これあり。御要害候て、
佐久間右衛門 ※元織田勘十郎配下で後に織田三郎五郎配下で三郎五郎を守山城主にした立役者。現信長直属
舎弟 左京亮
をかせられ、南中嶋とて小村あり。御砦になされ、
梶川左衛門
をかせられ、
一、黒末入海の向いに、鳴海、大高、間を切取る御砦二ヶ所仰せ付けられ、
一、丸根山には佐久間大学
一、鷲津山には織田玄蕃、飯尾近江守父子 ※飯尾父子は守山城攻めで活躍。父は盆踊りで弁慶も務めた。
入れ置かれ候。

二十四、今川義元討死の事

永禄三年(1560)壬子五月十七日
一、今川義元沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助勢なき様に、十九日朝潮の満干を考え、沓掛砦を落とすべきの旨必定と相聞こえ候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学、織田玄蕃方より御注進申し上げ候所、その夜の御話、戦の手立てはゆめゆめこれなく、色々世間の御雑談までにて、既に夜が更けるに及び「帰宅候え」と御暇下さる。家老の衆申すさまは「運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事なり」と、各々嘲弄候て帰られ候。案の定夜明け方に、佐久間大学、織田玄蕃方より『早くも鷲津山、丸根山へ人数懸り来たり候』由、追々御注進これあり。この時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内を暮らぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と候て、「法螺貝吹け、具足よこせよ」と仰せられ、御具足召され、立ちながら御飯を参り、御兜を召し候て御出陣なさる。その時の御供には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里(9km)一気に駆けさせられ、辰刻(午前8時)に源大夫御前神社の前より東を御覧じ候えば、鷲津、丸根落去と思しくて、煙上り候。この時馬上六騎、雑兵二百ばかりなり。浜てより御出で候えば、程近く候えども潮満ち入り、御馬の通い難く、熱田より上道を、もみこんで駆けさせられ、先丹下の御砦へ御出で候て、それより善照寺佐久間居陣の砦へ御出でありて、御人数立てられ、勢揃いさせられ、容態御覧じ、
御敵今川義元は四万五千引率し、桶狭間山に人馬の息を休めこれあり。

永禄三年(1560)壬子五月十九日牛刻(正午)
戌亥(北西)に向って人数を備え、鷲津、丸根攻め落とし、満足これにすぐるべからず、の由候て、謡を三番歌わせられたる由候。今度家康は朱武者にて先駆けをさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるによって、人馬の息を休め、大高に居陣なり。
信長善照寺へ御出でを見申した、佐々隼人正、千秋四郎の二頭、人数三百ばかりにて義元へ向って足軽にて出陣候えば、どっと懸り来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正はじめとして五十騎ばかり討死候。これを見て、義元が鋒先には天魔鬼神も堪るべからず。心地は良しと喜んで、ゆるゆるとして謡を歌わせ陣を据えられ候。
信長様子を御覧じて「中嶋へ御移り候はん」と候を「脇は深田にて、一騎討ちの道なり。無防備の容態敵方よりさだかに相見え候。御妥当ではなきの由」家老の衆御馬の手綱に取り付き候て、声々に申され候えども、振り切って中嶋へ御移り候。この時二千に足らざる御人数の由申し候。中嶋より又御人数出され候。今度は無理にすがり付き、止め申され候えども、ここにての御言葉は「各々よくよくたまわり候え。あの武者、宵に兵糧使いて夜通し来たり、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して疲れたる武者なり。こちらは新手なり。其上小軍ニシテ大敵ヲ怖レル、事ハバカレ、運ハ天ニアリ、この語は知らざるかな。懸らば引け、退かば引っ付くべし。是非にねり倒し、追い崩すべき事案の内なり。首の分捕りをなすべからず、打ち捨てたるべし。戦に勝てればこの場へ乗ったる者は家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」と御話の所に、
 前田又左衛門
 毛利河内
 毛利十郎
 木下雅楽助
 中川金右衛門
 佐久間弥太郎
 森小介
 安食弥太郎
 魚住隼人
上の衆てんでに首を取り持ち参られ候。先の事一々仰せ聞かさせられ、桶狭間山際まで人数寄せられ候の所、にわかに急雨が降り出し石氷を投げ打つ様に、敵のつらに打ち突くる。味方は後の方に降りかかる。沓掛の峠の松の元に、二、三抱えの楠の木、雨により東へ下り倒れる。余りの事に「熱田大明神の軍神か」と申し候なり。空晴れるを御覧になり、信長槍をおっ立て大声を上げて「さあ懸れ懸れ」と仰せられ、黒煙立てて懸るを見て、水をまくるが如く後ろへはっと崩れたり。弓、槍、鉄砲、のぼり、旗さし物、算を乱すに異ならず。
今川義元の輿も捨て崩れ逃れけり。
 
 永禄三年(1560)壬子五月十九日
「旗本はこれなり。これへ懸れ」と御下知あり。未刻(午後二時)東へ向って懸る。初めは三百騎ばかりまん丸になって、義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度返し合わせ合わせ、次第次第に無人になりて、後には五十騎ばかりなりたるなり。
信長も馬から降り立って、若武者共と先を争い、突き伏せ、突き倒し、熱心な若者共、乱れ懸ってしのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし焔を降らす。然りと言えども、敵味方の武者、入り混じらず。ここにて御馬廻、御小姓衆歴々手負い、死人数を知らず。服部小平太、義元に懸り合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介、義元を切り倒し首を取る。これひとえに先年清州の城において、武衛様をことごとく攻め殺し候の時、御舎弟を一人生け捕り、助け申され候、その冥加たちまち来て、義元の首を取り与えられたと人々風聞候なり。運の尽きたる印に候。桶狭間と言う所は、狭間入り組み、深田足入れ、高見反り茂り、要所と言う事限りなし。深田へ逃れ入る者は所を去れず這いずり回るを、若者ども追付き追付き二つ・三つづつてんでに首を取り持ち、御前へ参り候。「首はいづれも清州にて御実検」と仰せ出され、義元の首を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。
一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守累年御目を懸けられ鳴海在城。不慮に御他界候えば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節として居城鳴海へ駿河衆引き入れ、知多郡を御手に属す。その上愛知郡へ押し入り、笠寺と言う所に要害を構え、岡部五郎兵衛、葛山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎入れ置き、笠寺の並び中村の郷に砦構え、山口左馬助居陣なり。かくの如く重ね重ね忠節申す所に、駿河へ左馬助、九郎二郎両人を召し寄せ、御褒美はいささかもこれなく、情けなく無下無下と生害させられ候。

世ハ末世ニ及ブトイエドモ 日月未ダニ堕チズ

今川義元、山口左馬助が在所へ来たり、鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。
山口新右衛門と言う者、本国駿河の者なり。義元格別に御目を懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り返し討死。

誠ニ命ハ義ニ依リテ軽シ

と言う事、この事なり。
二俣の城主松井五八郎、松井一門、一党二百人枕を並べて討死なり。ここにて歴々その数討死候なり。
ここに海西荷之上の坊主、鯏浦の服部左京助、義元へ助勢として、武者舟千艘ばかり、海上は蜘蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候えども、別に働きなく乗り帰る、戻りざまに熱田の港へ舟を寄せ、遠浅の所より降り立って、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人共寄り付きてどっど懸り、数十人討ち取られ候、手柄無く川内へ引き取り候。
上総介信長は、御馬の先に今川義元の首を持たせられ、御急ぎなさるる程に、日の内に清州へ御出でありて、翌日首実検候なり。首数三千余りあり。然る処、義元の差されたる鞭、鞢(※ゆがけ 弓を射る時につかう革手袋)持ちたる同朋を下方九郎左衛門と申す者、生捕に仕り進上候。甚だ名誉仕り候由候て、御褒美、御機嫌斜めならず。
義元前後の始末申し上げ、首共一々誰々と見知り申す名字を書き付けさせられ、かの同朋のには、のし付きの太刀、脇差下され、その上十人の僧衆を御仕立て候て、義元の首を同朋に相添え、駿河へ送り遣わされ候なり。清州より二十町(約2km)南須賀口、熱田へ参り候街道に、義元塚というのを築かせられ、弔いの為として千部経を読ませ、大卒塔婆を立て置き候らいし。此度討ち捕りに、義元普段差されたる秘蔵の名誉の「宗三左文字」の名刀召し上げられ、何度も切らせられ、信長普段差させられ候なり。御手柄申すばかりなき次第なり。
さて鳴海の城に岡部五郎兵衛立て籠もり候。降参申し候に、一命助け遣わされる。大高城、沓掛城、池鯉鮒の城、鴨原の城、五ヶ所同時に退散なり。

二十五、家康公岡崎の御城へ御引取りの事(三河梅ヶ坪攻めらるる事並びに勘十郎謀反の事)

一、家康は岡崎の城へ立て籠もり御居城なり。
一、永禄四年(1561)四月上旬
三州梅ヶ坪の城へ御出陣。押詰め、麦苗薙ぎ払いにせられ、然して屈強の射手共罷り出て、厳しく相支え、足軽合戦候て、前野長兵衛討死候。ここにて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美致し、矢を送り、信長も御感じなされ、豹の皮の大えびら、葦毛御馬下され、面目の至りなり。野陣を掛けさせられ、これより高橋郡へ御働き。端々放火し、押詰め麦苗薙ぎ払いせられ、ここにても矢戦あり。鍛冶屋村焼き払い、野陣を掛けさせられ、翌日伊保の城へこれまた御出陣。麦苗薙ぎ払いせられ、すぐに八草の城へ御出陣。麦苗薙ぎ払いせられ御帰陣。
一、上総介信長公の御舎弟勘十郎殿、竜泉寺を城に御築城なされ候。上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合わせられ、信長の御台所入りの篠木三郷良き知行地にて候。これを横領候はんとの御企みにて候。勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の腕に覚えの侍共は、皆津々木に付けられ候。かつに乗って奢り、柴田権六を蔑視に持て扱い候。柴田無念に存じ、上総介殿へ「また御謀反思召し立つの由」申し上げられ候。これにより信長作り病を御構え候て、一切表へ御出でなし。「御兄弟の儀に候、勘十郎殿御見舞いしかるべし」と、御袋様並びに柴田権六意見申すに付いて、清州へ御見舞に御出で、清州北櫓天守次の間にて、
 
 弘治三年(1557)十一月二日
河尻、青貝に仰せ付けられ、御生害なされ候。この忠節仕り候に付いて、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ候。

二十六、丹羽兵蔵御忠節の事

一、永禄二年(1559)二月
上総介殿「御上洛の儀」にわかに仰せ出され、御供衆八十人にて御上京なさる。京都、奈良、堺を御見物候て、公方光源院義輝へ御礼仰せられ、御在京候。太刀にのしを付け車を懸けて、御共衆も皆のし付きにて晴れがましきなりとこしらえ候なり。
清州の那古野弥五郎配下に丹羽兵蔵とて小賢しき者あり。都へ罷り上り候所、人物と思しき衆、頭五、六人にて上下三十人ばかりで上洛候由。志那の渡りにて、かの衆が乗り候舟に同船仕り候。「いづこの者ぞ」と尋ねると、「三河の国の者にて。尾張の国をまかり通り候」とて、人目をはばかる容態にて候、「気遣い仕り候て尾張を罷り越し候」と申し候て、「上総、甲斐性の程あるまじく候」と申し候。いかにも人を忍ぶ体に相見え候。言葉の怪しき容態不審に存じ、心を付け、彼等が泊り泊り辺りに宿を借り、小賢しき童を近づけ、ねんごろにして、「湯入りの衆にて候か、誰にて候ぞ」と尋ねられ候。「三河の国の者にて候」と童申すに付いて心を許し、童申す様に「湯入りでもなく候。美濃国より大事の御使いを請け、上総介殿の討つ手に上り候」と申し候。人数は、
 小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門、
これ等なり。夜は共の衆に紛れ、近々と引き付き様子を聞くに、公方の御覚悟さへまいり候て、その宿の者に仰せ付けられ候はば、鉄砲にて打ち候はんには何の子細あるまじきと申し候。道中を急ぎ候、程なく夜に入り京着き候て、二条蛸薬師の辺りに宿を取る。夜中の事に候、その家の門柱左右に『削り懸け』を仕り候て、それより上総殿御宿を尋ね申し候えば、室町通り上京裏辻に御座候由申す。尋ね当たり、御門を叩き候えば、御番を据え置かれ候。「田舎より御使いに罷り上り候。火急の用事に候。金森か蜂屋に御目にかかり候はん」と申し候。両人罷り出て対面候て、上の様子一々懇ろに申し上げ候。即、上総介殿へ御披露の処に、丹羽兵蔵を召し寄せられ、「宿を見置きたるか」と御話候。「二条蛸薬師辺りへ一ヶ所に入り申し候。家宅門口に『削り懸け』を仕り候て置き申し候、間違い申しまじき」と言上候。それより御談合、夜も明け候。上の美濃衆金森存知の衆に候、「早朝にかの私宅へ罷り越し候え」と仰せ付けられ候。丹羽兵蔵を召し連れ、かの宿の裏屋へつつと入り、皆々に対面候て、「昨夜貴方共上洛の事、上総介殿も存知候により、参り候。信長へ御礼申され候え」と金森申し候。「存知せしむ」の由候つる。顔色を変え仰天限りなし。翌日、美濃衆小川表へ上がり候。信長も立売通りより小川表御見物として御出で候。ここにて御対面候て、御言葉をかけられ候。「汝等は上総介が討手に上りたるとな。若輩の奴等の進退にて、信長を狙う事、『蟷螂が斧』とならん。誠けしからず。さりながらここにて討手仕るべく候哉?」と仰せかけられ候えば、六人の衆難儀の仕儀なり。京童二様に批評なり。「大将の詞には似合わず」と申す者もあり。また若き人には「似合いたる」と申す者も候。五、三日過ぎ候て、上総介殿守山まで御下り、翌日雨降り候といえども、払暁に御立ち候て、相谷より八風峠打ち越し、清州まで二十七里(約81km)、日を越し寅刻(午前4時)に清州へ御参着なり。

二十七、蛇がへの事

一、ここに奇異の事あり。尾州国中の清州より五十町東、佐々内蔵助居城比良の城の東、南北に延びる大堤これあるうち、西に『あまが池』とて、恐ろしき蛇池と申し伝わる池あり。また堤より東は三十町(約30km)ばかり、へいへいとしたる葭原なり。
正月中旬、安食村福徳の郷、又左衛門と申す者、雨の降りたる暮れ方に堤を罷り通り候処、太さは一抱え程もあるべき黒き物、胴体は堤にあり候て、首は堤を越し候て遥か『あまが池』へようやく届く長さにて候。人音を聞きて首を上げ候。つらは鹿のつらの如くなり。眼は星の如く光り輝く。舌を出したる様は紅の如くにて、手を開きたる如くなり。眼と舌との光たる、これを見て身の毛よだち、恐ろしさのあまり「あっ」と逃げ去り候。
比良より大野木へ参り候て、宿へ罷り帰り、この由を人に語る程に、隠れなく上総介殿へも聞き及ばれ、正月下旬、かの又左衛門を召し寄せられ、直に御尋ねなされ、翌日『蛇狩り』と仰せ出される。
比良の郷、大野木村、高田五郷、安食村、味鏡村百姓共、水汲み桶、すき、くわ持ち寄り候へと仰せ出され、数百挺の桶を立て並べ、『あまが池』四方より立て渡り、二時(2時間)ばかり汲みさせ候えども、池の内水七分ばかりになりて、何度汲み候えども同変なり。しかる処、信長水中へ入り、蛇を御覧あるべきの由候て、御脇差を御口に咥えられ、池へ御入り候て、しばしが程候てあがり給う。
なかなか蛇と思しき物は候はず。鵜左衛門と申し候て、よく水に熟練したる者「これまた入り候て見よ」と候て、御後へ入り見申すに、なかなか御座なく候。
しかるに、これより信長清州へ帰り給うなり。
さるほどに、身の冷えたる危なき事あり。仔細は、その頃『佐々内蔵助、信長へ逆心の由』風説これあり。これによって、この時は相煩い健常なくの由候て罷り出ず。信長「恐らく小城では比良城程の良き城なしと風聞候、このついで御一覧候はん」と仰せられ候て、さてはこのついでに佐々内蔵助が腹を御切らせ候はんと存知られ候処、内蔵助の一族で家老の井口太郎左衛門と申す者これあり。その儀においては任せ置かるべく候。信長を果し申すべく候。如何にするかと言えば、城を御覧になりたいと井口にお尋ねあるべく候。その時我々が「これに舟が御座候、乗られ候て、まづ外郭を御覧じ候て然るべし」と申すべく候。「もっとも」と御言葉になられて、御舟に乗られ候時、我々腰高に端折り、脇差を投げ出し、小者に渡し、舟を漕ぎ出し候。さだめて御小姓衆ばかり召し連れ候かな。例え五人、三人御年寄衆召し連れ候えども、時を見申し候て、ふところに小脇差を隠し置き、信長様を引き寄せ、畳みかけて突き殺し、組んで川へ入るべく候、御心休まるべく候、と申し合わせたる由承り候。信長公御運の強き御人にて、あまが池よりすぐに御帰りなり。およそ大将は、万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり。

二十八、

一、尾張国海東郡大矢と言う里に、織田造酒正の家来甚兵衛と言う庄屋の者あり。並びに一色村という所に、左介と言う者これあり。両人親しい知音の間なり。ある時、大矢の甚兵衛、十二月中旬御年貢の勘定に清州へ罷り上り候留守に、一色村の左介、甚兵衛の宿へ夜討ちに入り候。女房が起き出し、左介としがみ合い、刀の鞘を取り上げ候。この事を清州へ申し上げ、双方公方へ言上なり。一色村の左介は、権力の座にある信長公の乳兄弟池田勝三郎が被官なり。火起請(※灼熱した鉄を握らせ、虚言をいうか否かを判定すること)になり候て、三王社の前にて、奉行衆、公事相手双方より検使を出される。