多田武彦〔タダタケ〕データベース

	父のいる庭	チチノイルニワ	指示	速度	調性	拍子	備考
1	驛前旅館	エキマエリョカン	ゆっくりと沈んだ気持で	4分音符=約69	ニ短調	4/4
2	太郎	タロウ	希望に満ちて	2分音符=約92	ト長調	2/2
3	早春	ソウシュン	ややおそく、しんみりと	4分音符=約80	変ホ長調	3/4
4	紀の国	キノクニ	早く、力強く	4分音符=約138	ト短調	4/4	Bass Solo, Bariton Solo, Tenor Solo

作品番号：T15:M14n
作曲年月日：19??年？月？日

初演団体：京都大学男声合唱団
初演指揮者：村井真一
初演年月日：1961年12月3日
30周年記念第32回京大合唱団定期演奏会（於京都会館第一ホール）

津村信夫の詩をテキストにした唯一の組曲。初演では第1曲は『駅前旅館』であったが、他の曲が父と子というテーマなのに対し、本曲は「青春の旅立ち」といった趣の組曲のテーマと異なるものであったため差し替えられた。なお2003年の出版にあたり組曲全体に再改訂が行われた。

第4曲『紀の国』は多くの団で愛唱されている。ちなみに初演時のベースソロは当時団員であったジャーナリストの鳥越俊太郎である。

「父のゐる庭」という旧字体の表現もまま見受けられるが、音楽之友社からの出版譜では全て新仮名遣いに修正されているため、ここでは「父のいる庭」の表記にしている。

ちなみに詩人・津村信夫の父は、神戸高商（現神戸大）で経済学教授・大阪鉄工所（現日立造船）で社長などを務めた津村秀松、兄は朝日新聞紙上に“Q”の名前で映画評論を執筆していた津村秀夫。1936年に妻・昌子（旧姓：小山）と恋愛結婚し、妊娠したときの詩が「太郎」であるが、生まれた子は女児（初枝）であったために『早春』では“女の赤児”となっている。

「駅前旅館」は長きにわたって演奏されてこなかったが、2011年にアルマ・マータ・クワイアによって再演された。また、初演版の全曲再演は2023年、ANCORの会による「四つの男声合唱の集い」の合同演奏により行われた。

『父のゐる庭』（臼井書房、1942）

『紀の国』において、楽譜では「かたみに呼びかけ」となっているが、原典では「かたみに呼びかひ」となっている。

みすぼらしい
小さな枕の上に
私の若さは眠つてゐた
ちりばふ薄命のいろに
枕の上に
梳らないまゝの私の髮の毛
直江津に向ふ汽笛がなる
紙をはつたこの白々しいガラス窓を
ひとときはふるはせて
何物の嗚咽でもない
あゝ
この汚ならしい私の若さは
髮の毛を枕にしいたまゝ
また
昧爽をむかへたではないか

妻のお腹の中に
太郎と呼ぶ子供がゐる――
そいつが　近頃では
夜になると
手をのばし　足をひろげたりする
妻は
とき折　寢床の上に坐り直す
ぼんやり考へてゐる
すると　俺も思案を初める
日本の美しい子供の傳説には
腹掛をした裸の少年がゐる
俺は肥りすぎて　人に笑はれたが
裸の子供は　いくら肥つてゐても
誰かが可愛がつてくれるだらう

太郎　太郎　腹の中の太郎
お前の生れるのは　五月にほど近い日だ
青葉になった梅の木のもとで
お前の肥つたおやぢが
夢を一杯みたした
産湯をつかはしてやらう

淺い春が
好きだつた──
死んだ父の
口癖の
そんな季節の
訪れが
私に
近頃では
早く來る
ひと月ばかり
早く來る

藪蔭から
椿の蕾が
さし覗く

私の膝に
女の赤兒
爐の火が
とろとろ燃えてゐる
山には
雪がまだ消えない

椿を剪つて
花瓶にさす

生暖かな――
あゝこれが「生」といふものか
ふつと
私の頬に觸れる

夕べの庭に
ゆふ煙
私の性の
拙なさが
今日も
しきりと
思はれる

「紀の國ぞ
はや　湊につきたり」
舟のをぢ
かたみに呼びかひ
うつとりと
眸疲れて
父に手をひかれし心地

犬の先曳く車もあれば
海の邊に
柑子の實光りて
その枝のたわゝなる下
かいくゞり
かいくゞりてゆく

「紀の國ぞ
あらぶる海の國ぞ
汝が父の生まれし處ぞ」

父逝いて
今日の日も想ふ
幼児の吾兒を抱きて
そが小さき者の
夢にも通へ
あらぶる海の國は
我がためには父の國
汝がためには祖父の國
そが人の御墓かざる
ゆづり葉のみどりの國ぞと

父のいる庭［改訂版］

福岡大学メール・ハーモニー第27回定期演奏会（PDF）
第41回四つの男声合唱の集いプログラム（PDF）

音取りデータ集：「駅前旅館」
音取りデータ集：「駅前旅館」以外