多田武彦の最初の合唱組曲。事実上のデビュー作でもある。作曲は、彼が当時在籍していた京都大学の学生集会所内の食堂で行なわれたという(京大合唱団第50回定期演奏会パンフ)。作曲の指導を受けていた清水脩から作品を書くことを薦められて持って行ったのが、この組曲の原型である。ところで多田は大学卒業後映画監督になり、ミュージカル映画を手がけようという夢を持っていたが、事情によりそれは叶わなくなった。そこで清水に音楽をやめる旨を伝えたところ、彼から日曜作曲家として音楽を続けることを提案されたという。これを機に多田は、これまでに作っていたいくつかの曲を組曲として構成する。「柳河風俗詩」はこうした経緯で誕生した。
清水はこの組曲について、「歌い手の声域を気にしすぎている。男声合唱曲はもっとスケールの大きい、ダイナミックなものにしなければいけない」と多田に忠告している。これに応えて作曲したのが合唱組曲第2作となる「
富士山」であった。また、合唱団の友人たちからは「関西育ちの多田だから致し方ないが、もう少し標準語(現在の共通語)のアクセントに従って、主旋律を書いたらどうだ」という意見を受けたという(多田武彦「組曲『柳河風俗詩』のエピソードなど」)。初演の数ヶ月後、彼は中田喜直に会う機会があり、「共通語アクセントの遵守基準」について問うたところ、自作「夏の思い出」や早稲田大学校歌「都の西北」を例に出し、アクセントに必ずしも拘泥する必要がないと教えられたという。
第1曲『柳河』は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作として、先に世に出た。全曲初演は多田が23歳の時、すなわち社会人になってしばらく経った頃に行われた。昭和60年度には、NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲Cに選ばれている。
『紺屋のおろく』を初恋の相手への屈折した愛を表現との解釈が一般的であるが、北原白秋研究家の最近の調査では、初恋の相手のいる紺屋の女中に“おろく”という女性を確認できるとの事である。文字の額面通りの“にくいあん畜生”であったのだ。
『梅雨の晴れ間』はタイトル通りの風景をコミカルに書いた詩であるが、今から演じようとしている田舎芝居の演目は登場人物の名前から“
義経千本桜”と考えられる。その四段目・吉野山の最後を飾るのが“狐六法”である。
時折現在の行政区分(
柳川市)と照らし合わせての、『
柳川風俗詩』という表記が稀に見受けられるが、詩集が上梓された1911年時点では「柳河町」となっているので『
柳河風俗詩』が正しい。
1993年、「
富士山」とともに、
全日本合唱センターが選定した「
日本の合唱作品100選」に選ばれた。タイトルと歌詞が英訳され、世界合唱センター(ベルギーのナミュール市)に寄贈されている。(
Landscape of Yanagawa for men's chorus a cappella, 3.Kakitsubata, 4.Bright times in Rainy Period)
アイスランドの男声合唱団Karlakórinn Fóstbræðurによるアルバム『Fóstbræðralag (úr söngvasafni Fóstbræðra) 1916-2006』に「柳河」が収録されている。