銅金裕司の作品、活動、プロジェクト、考えていることについて(Garden of Cyrus、サイラスの庭、アート、芸術、庭、ガーデン、植物、花、虫、鳥、緑、グリーン、バイオ、バイオアート、bio art、バイオロジー、環境、環境問題、二酸化炭素、co2、オフセット、生態、生態系、エコ、エコロジー、環境芸術、ecology,植物の音楽、植物の声、植物の音、花の声、花の音楽、花の音、音楽、声、リズム、plant、music、voice、植物生体電位,植物とのコミュニケーション,世界、世界の声、ルグィン、世界劇場、存在の大いなる連鎖、イエーツ、ワールブルグ、マニエリスム、魔術、伊藤若冲、石峰寺、動植綵絵、海洋学、海洋、機械、ネットワーク、コンピューター、植物、花、トロン、マック、マッキントッシュ、SE、SE30、脳波、ロボット、ロボットとは何か、電位、FFT、スペクトル、midi、プラントロン、plantron、心、感情、精神、知恵、マインド、認知心理、アフォーダンス、カオス、複雑系、非線形、振動、振動子、内部観測、オートポイエーシス、植物の心、植物の精神、植物の知恵、記憶、徴候、庭、ガーデン、シアター、園芸、園芸文化、花文化、花、箱庭、ラン、orchid、ランの進化、ランの戦略、リゾーム、プルースト、バタイユ、文学、マラルメ、リラダン、ポー、ボルヘス、ナボコフ、アーダ、ユリイカ、メルヴィル、稲垣足穂、中井英夫、椿実、澁澤龍彦、yuji dogane(銅金裕司/メディアアーティスト))

 「大いなる日常」 2017年2月18日(土)– 3月20日(月・祝)

 アートミーツケア学会 2014

 等質化されない世界を目指して:異質性(無関係性)と藝術


筆者は作品を通して、人と自然の関わりの新しい視点を創出していくことを目標に制作・研究を行っている。とくに藝術は、まさにアルテ;人工によって自然に為していくものであるが、本研究では、そのあり方に独自の見解を提示したい。それは「等質化されない社会学的生態学的循環」である。人類は、長らく等質化された多文化主義的なものの見方を根源に据えて思索してきた。その最も象徴的かつ残酷な行いが有史以来行われて来た「首狩り」であろう。言い換えれば、父殺し、王殺しだ。例えば、生態系の頂点に立つがために、その頂点たる他の存在を、絶滅化すること。一国を滅ぼすようなことだ。しかしこれは、日常においても深く根ざした意識である。我々は、他を認識するとき、どうしても「見るもの・見られるもの」の一方的な立場を取りがちだ。それはすなわち、人が観測者(頂点の視点)として見られるものを支配し、さまざまな他の世界を画一化することに他ならない。そのとき、様々にあった多自然な世界が、見るものを頂点とした一つの世界となってしまう。首が「見るもの」に挿げ替えられるのだ。しかし、我々は未だ「見るもの」に主体性を求めた一義的な人間像しか持ち得ていない。いかにしてこの普遍化された閉塞的な思考を打開できるか?決して等質化され得ない視点で、さまざまな自然がさまざまなままに共同する世界観を構想してみる。例えば通貨を、マルクスの顰に倣って排泄物にみてみよう。糞便は、通常、体内から不要なものとして排出され、再度合一にはいたらない異質なものである。もしもそうした徹底して異質なものが、異質なままに、接続するとすれば、それはどのような自然だろうか?筆者たちは、これまで、異質なものが切り結ぶ世界を、熊と人、アリジゴクと人など、さまざまな自然と人との関わりの中に見出してきた。そこには人も多自然な世界の一員として生きる新しい生態学的な萌芽があった。本研究では、これまでの研究と関連付けながら、糞便をバタイユの示す「聖なるもの」あるいはクロソウスキーの「生きた貨幣」として位置づけ、新たに始動している1)オオカミの尿によるマーキングと2)カワウソの溜め糞場における糞泥の遊び行動から着想した藝術制作から、異質なものが、畏怖と恍惚を引き起こしながら「無関係性」を担保しつつ交換する、社会学的生態学的なケアの視点について検討する。

 Radioactive Plantron

 radioactive PLANTRON/Simple INTERRACTIONS @CONTEMPORARY MUSEUM OF ART ROSKILDE/ DENMARK2011 9/24-12/18





http://samtidskunst.dk/simpleinteractions/projects...

ラディオアクティブ プラントロン 銅金裕司
 この展示では、植物を真ん中に配して、プラントロン(生体電位測定装置+コンピューター+音響機器)を用いた植物の声とガイガーカウンターでの線量情報を音響化しています。植物の微弱な電位変化を音に変換します。そして、展示している植物の周辺にわすかに放射能が帯びた状況を作っています。これは普通にホームセンターなどで販売されている材料を用いて実現し、安全な放射能レベルです。このわずかな放射能を帯びた環境を植物が感じている様子が音と映像で表現されています。
もちろん植物も放射能をわずかに感じているはずです。
 いっぽう、致命的と言える福島第一原子力発電所の人災事故の後も、その周辺の植物たちはじっとだまってそこに居続けています。きっと彼らも声を発しているはずでしょう。
 思うに、それはどのような叫びなのでしょうか?
 いったい、私たちに彼らの声が聞こえているのでしょうか?
 私は、もしも、もう少し前に私たち人間が、福島第一原子力発電所周辺の植物たちの声が聞こえるくらい、植物やさまざまな生命を感じる、自然への感性さえあれば、よもや、原子力発電所なぞを建設することなどもともとなかったのに、とほんとうに残念でなりません。
 今回の人類最大の厄災の本質的解決が残っているとすれば、それは、このように、私たち自身の感性を変えてゆくしかないことだと、私は思います。

To consider Fukushima nuclear accidents , this is too sick to me rather than my experience on Hanshin-Kobe earthquake. I have no power to Fukushima people now.
However , in other hands , Fukushima nuclear accidents is artificial problem and is relation to my art works of human and nature.
If art is artificial work to nature , spirits and mind of art is broken by this serious accidents.
Then this is most important , how to rescue our art and artificial spirits and mind.
I will try to this in this exhibition.


 radioactive PLANTRON /精神の経済学 @art space kimura ASK? / ASK? P 2012







 2011福島原発事故を超えて

アートからの提言、アートの責務について
私たちがもつべき緒力 “Manuality”

わたしたちが持つべき微細な「緒力」について
鳥たちはどこから
私には長く一緒に暮らしてきた愛すべき老齢なカナリア(Serinus canaria)がいる。彼は歌のマイスターで以前、私の展示作品でネット上で他の鳥たちの師匠方を勤めたことがある。K市で起こった天変地異の前だから、もう10年以上前に家にやって来たことになる。来た時は、雄雌のつがいだったのだが、あるとき、メスは卵が詰まって、カゴに頭をなんどもぶつけて死んでしまった。そして、彼は、やもめになってから、だんだんとぼくら人間たちを恐れなくなった。それから彼は、声をかけると小首を傾げたり、ランの花をしげしげ眺めたり、けっこうユーモラスな仕草をして、健やかで、おとなしく、穏やかな性格で、歳をとっても体の線はいつまでもなめらかで、夏の暑い日には水浴びをしたいと言い、冬の寒い日には早く日光浴は切り上げて暖かい室内にいれろとか、言い出したり、言ってるような気がした。もちろん、口を利くわけではないが、少なからず、彼の意図のおおよそは通じるものなのだ。いま流行の異種間コミュニケーションだ。そうこうしているうちに、なんとなく言わんとするところがわかるような気がして来て、つまりは、気心が知れたようで、およそ一緒にいるときは、互いに親しい友人といるような特別な時間が生まれて、幸福な喜ばしい気分を味わえるようになった。
これは、比喩、あるいは、ある喩えにすぎないが、こうして私が彼から遠く離れ異邦の地の別の遠い空の下にいても、なんとなく彼がすぐ傍にいるような気がして、ときに、彼の思いがむくむくと立ち起こって来る。もしかしたら、ぼくらは、死んだ後も一緒にいるかもしれない、などと思うとうれしくなるものだ。鳥に心があるとかいうと怒られそうな気がするが、断言してもいいが、歴然と彼には「心」はあるのだ。なんといわれようが。そして、その「心」は私の精神の支えにもなっている、と言ってもいいかも知れない。なぜなら、そこには確かな絆のような感覚を感じるから。そんな微妙にあるかないかの心、そのどこかでぼく自身と繋がっていることはすごく素敵なぼくの精神のおおもと、ほんとの基盤だ。家畜など動物と一緒に暮らすの方の中には同意いただけるような気もするが、こんな話を一笑に付する人もいよう。とはいえ、それで、彼に癒してもらっているなどとは私には言えない。そのうち、私は彼を殺してしまうに決まっているからだ。だが、そんなことも、我々にとっては、気にすることでもない。互いに殺し合うこともあるものだろう、くらいは思っている。
年齢を重ねるとともに、その彼の足に問題が生じてくる。老齢化して、年ごとにだんだん、足そのもの、全体が朽ちて溶けてゆくのだ。まるで、体の中に足が没入してゆくようにも見える。その足にはもう指らしきものはなく、肉の塊の突起に爪が生えているといったところだ。しかし、いっぽう爪はどんどん伸びて、止まり木を一周するようにもなってゆき、一周廻って、自分のくるぶしを突き破りそうになったり、止まり木にうまく止まれなくなって、ついには足をすべらせて、床を這いまわったりするようになることもある。
伸びすぎる爪。野生ではこうなる前に死んでしまうのだろう。野生に人がかかわるから、このようなことが起こるのだ。この鳥はもう人の一部なのかも知れない。こうなると、私が伸びた爪を切ってやらないといけない。つまり、捕まえて、押さえつけて、足を突き出させて、繊細で鋭利な刃をもつ爪切りで、長くうねった爪を根元で切り落としてやらねばならない。
爪を切る日は、あたたかく晴れた日で早めにカゴごと戸外にだしてやる。すると早々と「はやく朝飯をよこせ」とか言う。彼をなだめつつ、しばらく庭に放置しておくことにする。すると、シンビジュームの葉などを啄んで遊び始める。このあいだに、部屋の窓を閉めたり、新聞紙を敷いたり、いくつかの用具をそろえたり、ラジオを消して静かにしておかなければならない。そして、もしも飛び立ち、逃げたときのことを考えて室内で爪切りは実行しないといけない。そして彼の朝食の前に、爪切りは済ましてしまいたい。爪を切ったあと、彼が元気に食事をしてくれるだけで、私には深い安堵、安心をもたらせてくれるからだ。
そこで、まずもって、彼を取り押さえなければならない。
カゴにすこしだけ手を入れる。その瞬間、いつもと違う私の手の動きに、一瞬にして身を返してあちこちと止まり木をジャンプしたりする。「それ以上、手を入れてくるのか?」というところであろう。そして、ぼくは、さらに、カゴの中に深く手を差し伸べてゆく。彼も追いつめられ、ただならぬ状況になったことを知る。尋常ならざる状況。当惑してバタバタ暴れたりもする。このときにはぼくは、両手を使う。両手でゆっくりと彼の捕獲をめざさねばならない。暴れるのをやめるまで両手は静止する。時間をかけて、そのままじっとすると、床の隅に飛びおりて、他人行儀な態度、というより、こっちを見て、非常事態にパニックになり怯えているようでもある。半分、口をあけて、激しく呼吸を始める。興奮している。口をパクパクしつつも、ピーピー鳴いたりして、小さな身体を縮こませている。
そして、おもむろに私の方を向いて、その時、じっくりと目を合わせる。彼は言う。「本気なのか」と。私も言う。「そういつものように、ごく本気だ。おだやかに」と。
私はゆっくりと、カゴの隅にいる彼を両手で、すべての指の力を抜いて、まるで、ぼくの両手がかつて翼であったような心持ちで、彼をゆっくり空気のように包み込んで抱きかかえる。そこには、大空を抱えるような気分がみなぎる。
それは、小さくて、なにより薄いセロハンのように軽く、羽はビロウドのようになめらかで、雪のようにほっそりとしていて、そのあまりの華奢さに、私の手の感触から伝わる彼の身体を想像しうる私の感性が、彼のこの世界での存在のあり方対して、もはや、追随してゆけなくなってしまうようでもある。言葉を変えると彼と私のあまりに単位体積当たりの重量が違いすぎるので、私の小さな指の震えでさえ彼にとって圧倒的な力となってしまうであろうことを痛感してしまう。いっぽう、このような儚い存在が空を飛び、時に大陸を渡りあるくものもあるのかと思うと深い圧倒的な感慨にも包まれる。
するとどうだろう。いったん私の両手に包み込まれると、彼はすっかり力を抜いて、自分からふわっと私の掌に被いかぶさり、ついに私に身体を預けてくる。そこでも、私たちは目をそらすことはない。目の光は奥の方で輝くだけである。というところで、ようやくここからが本題である。
私は両手の力を抜くように、しかし、非常に弱い力を10本の手の指にみなぎらせて、彼を包み込むようにしている。はじめに、その状態から非常にゆっくりと手を開いてみることにする。するとなんと彼は、腹を天に向けて両足を中空に突き出して、ゴロリとしたままの状態でいる。ふいに開放されたことで、やや当惑した不安げな面持ちをしている。そして、今度は、私は、わずかに両手を閉じつつ、やさしく包むのではあるが、だんだんと少しずつ力を込めてゆくようにしてみるのである。
ほんの少しずつ、羽からシューシューごくゆっくりと空気が羽から抜けてゆくことがわかる。秩序正しく折り畳まれた少し湿った羽が小さく崩れつつあるのも感じられる。彼は、ふいに虚をつかれたようなきつい表情に変わり、爛れた足で、ぼくの両手を蹴ったりすることもある。目は合わせているが、強いて言えば、やや怒りのようなものを感じる。そして、そこでその私の両手の微細な力をゆるめず、さらに、握る力をだんだんとゆるりと強めてゆく。すると、次第に彼の枯れ枝のような翼の骨を感じることができるようになり、羽の先のほうのやわらかい脈がいくつか壊れつつあることも感じる。彼は、少し体をよじる。ぼくが本気かどうかを確かめるのに、じっとこっちを見る。「これ以上はやめろ」と彼は目でぼくに言う。ぼくははさらにほんの小さな力を両手に分散させてみるが、ついには、その先に彼の死があることが、はっきりわかる。彼の死までのはるかなる距離が容易に計れるようになって、その死が実現することが明瞭に悟ることができるようになる。かれもぼくもその死の前に陶然とうっとりとするムードに包まれる。
この両手のさまざまな向きの微細な緒力のあり方。
これこそが、この世界にとって重要な、人が持ちうる、持つべき感性であると思う。
とはいえ、人は多くの生命を殺戮する存在である。いとも簡単に自分たちの都合でさまざまな生き物を殺し、勝手に忘却している。こうすると、よく言われるような人の「心の癒し」などを世界に求めるべくもなく、精神の安寧なぞありようもないように思えてくる。
いったい誰が癒されるべきなのか、とはよく考えたいところだ。いっぽう、人同士のコミュケーション不全も新聞などで夙に聞くが、ここ最近の人の無軌道、破廉恥ぶりからすれば、もともと人間のコミュニケーション能力などないようにも、私には思えてくる。
これほどに殺戮や自然の破壊、自滅的な戦争を繰り返す生き物もないのに、うわべだけの自然保護だの、自然との共生だの、絶滅危惧種のリスト作りだとか言っても、もはやどうしようもあるまい。環境、世界の破壊など日常茶飯なのに。
このように、私を含めて人は世界に死をもたらす存在である。この宿業をどう解消してゆけるか?はたして、これはあらゆる文化と宗教が人類発祥以降、自問自答してきた問題ではあるのだが。
そうは言っても、私は、一縷の望みはもってゆきたいと思う。かすかに私とカナリアとの間柄のような、卑近であまりに規模は小さいものの、生命が緊密に交感するといっていい瞬間、場合も存在する。
私はこのような人の能力、感性を信じたい。
このようなわけで、マニュアリティの意義が存在する。
人間以外のいろんな生命、彼ら自身らがともに生きる上でも、非常な緊張感や人間からみると理不尽な戦いの顛末や異様な死の不安に包まれることも多い。私自身が生きるときに、細胞レベルでさえ、日一日と生まれては、もう死んでいるはずから、どんどんある部分は死んで行くのは仕方ないことだ。人はこのことを知って、生きて食べるだけさえも、結局、いろいろな生命を殺してしまうわけだが、それが世界のルールでもあるのだけれど、まずは、このルールをしっかり自覚しないといけないように思う。
スーパーやコンビニのパックの豚肉はいったい何なのか?
焼肉屋に群がる人々への獏たる胸騒ぎはどこから来るのか?
そのための効率と経済性を追求したビジネスモデルと精巧な殺戮機械。
ちょっとした快感と欲求が、一方、大衆的な無自覚な殺戮と過剰な死を招き、もうそのような、人にとって取るに足らない生き物が生きて死んでゆく世界への感性も萎えてしまっているような気がする。その感性の欠落は、人が何ごとを行っても、世界は何も答えてくれないし、ましてや、何かしらの示唆さえ与えられても、それを感じることさえできなさそうだ。
自然にアクセスし利用し尽くすための機械やロボットやメディアはどうあればいいのだろう。この問いも、もはやこの世界を人間が支配するときにだけ、機械が人の手足であれば良いという論調が現状だ。
はたしてそれでいいのだろうか?
そんな人の延長としての道具の議論も、もうそろそろ年貢の納め時のような気が私にはしているのだが。  
私が感じる、愛する鳥を両手で包みうる感性は、人が海や山を包みうる感性と等価であろう。
この感性とその自覚こそが、本質的な人間と世界の救済に繋がる可能性を秘めているような気がする。

Beyond Accident in Atomic Powered Generation @Mar. 12 2011 on the Fukushima nuclear plants.
The Importance of New Concept “Manuality” DOGANE Yuji
I used to live for many years with a lovable old canary. He was a masterly singer, and in one of my works he even functioned as an online-teacher for other birds. He came to my house more than ten years ago, before the Kobe earthquake. They were actually a pair, but his partner died as a result of egg laying problems. Once a widower, my canary gradually lost his fear of humans.
He began to bend his head a little to the side when I talked to him, fixed his eye on the orchids in the garden, or did other funny things. He was a healthy, rather calm and quiet little fellow, and even when he got older his body was still amazingly flexible. In summer he always asked for a shower, and in winter he requested that I interrupt his sunbath and take him inside. Of course he
couldn’t speak, but I could basically understand at least what he wanted to tell me. It was that kind of communication between different species that people are talking about a lot these days. I came to feel that we somehow managed to understand each other – we familiarized and eventually felt like good friends as we spent some very special moments together. It was a highly blissful time that I
enjoyed a lot.
That’s of course just a metaphor or similitude, but even now that I’m in Tokyo and far away from my friend, I do sometimes think of him and feel as if he was sitting right here next to me. It makes me happy when I imagine that, maybe, we’ll be together even after death. You’ll probably call me crazy when I tell you that birds have feelings, but I swear that mine has a ”heart,” and I guess I can say that this ”heart” provides me with mental support. That’s because I have the certain feeling that there exist some kind of emotional ties between us. They are there, even though delicate and almost not noticeable. While people who live with domestic and other animals will supposedly agree, I’m sure that there are others who just laugh this matter away. Well, I wouldn’t necessarily say that I feel comforted by his presence. That’s because it is quite clear that, sooner or later, I’m going to kill him. But that’s again something that we don’t really care about. He’s getting problems with his feet. They gradually decay and dissolve as he gets older. There’s nothing one could call toes on his feet anymore, but his claws are sticking out directly from the lumps of meat that are his feet. The claws, on the other hand, don’t seem to stop growing, and are already long enough to run completely around his roost. It happens that he tries to land but slips and falls onto the floor when wrapping his claws around the roost and eventually piercing his own ankles.
His claws are definitely growing too long. Things like this probably don’t happen in the wild, because I guess that wild birds die before their claws get this long. But then comes man and interferes, and this is how it ends. This bird is perhaps already part of the human race. Now I’ll have to cut those claws for him, which means that I have to catch him, bring him under control, make him stick out his feet, and cut his long and winding claws at the root with nail clippers.
The day I chose for the nail clipping is warm and sunny, so I put his cage outside earlier than usual. The first thing he does is ask for breakfast. I soothe him and decide to leave him in the garden for a while. While he picks at the Cymbidiums’ leaves, I go inside to shut the windows, lay out my instruments ready, and switch off the radio so that everything’s quiet in the house. I have
to consider the possibility that tries to escape, so I decide to cut the claws inside, and if possible before breakfast, because he’ll feel fine and can enjoy his breakfast better with freshly clipped nails. OK, the first thing I have to do is overpower him.
I carefully put my hand into his cage, but as he notices the unusual movement of my hand he instantly dodges and jumps from one roost to the next. ”You won’t come any closer will you!?” he seems to be asking. I stretch my hand out and reach deeper into the cage. He realizes that I’m not joking,
and begins to run wild. I try and use both hands to capture him. When I stop and don’t move for a moment, he jumps down to the bottom of the cage and tries to hide in a corner in a reserved fashion, or better, in a panic fear of the extraordinary situation. He begins to breathe heavily with half-opened mouth. He is madly excited. He gasps while his little body cowers. When he eventually looks my way, our eyes meet, and for a few seconds we inspect each other carefully. ”Are you serious?” ”You bet I am. Calmly serious, as always.” I relax every single finger of my hands and reach for the bird in the corner of the cage. Carefully, as if my hands had once been fragile wings, I slowly wrap my hands around his body as if cupping a slice of air. I feel like capturing the boundless sky. What I’m holding is tiny and light as cellophane, with plumage as soft as velvet and slight as snow. I feel as if my sensibility to imagine his body from the touch of my hands is no longer able to follow the incredible daintiness of his existence. In other words, our specific weights are so different that I become keenly aware that even the slightest trembling of my fingers must be for him an overwhelming power. On the other hand, the idea that there exist creatures as ephemeral as this, that fly in the air or wander on the ground, fills me with deep emotion.
What happens next? Once he finds himself surrounded by my fingers, he
gives in and clothes his body softly in the palms of my hands. During this whole process of his surrender we constantly maintain eye contact and exchange the dim glints in the backs of our eyes. Now let’s get down to business. I loosen the grip of my hands, but let all ten fingers still enclose his body
with a minimal amount of pressure. Then I try and see what happens when, very slowly, I open my hands. Now look at this! He rolls over onto his back and sticks his feet in the air! Obviously baffled by his sudden freedom, he makes a rather troubled face. I respond by closing both hands again – just a little bit at first – to enwrap him gently, but then gradually tighten my grip.
I feel how his feathers deflate bit by bit, and how the orderly folded, slightly moist feathers begin to suffer tiny cracks. His expression takes on the serious look of someone who is taken advantage of his unpreparedness, and several times he tries to kick away my hands with his feet. Our eyes meet again, and if I were to analyze the atmosphere, I’d say I feel something like anger in the air.
I don’t loosen the slight grip of my hands, but gradually grasp him even tighter instead. I come to feel the bones of his wings, like dead branches of a tree, and realize that some of the fragile veins at the tips are breaking. His body wrenches slightly, and he stares at me to make sure whether I’m serious. ”That’s enough, stop it!” I can read in his eyes. I disperse a tiny amount of extra pressure into
the fingers of both hands, and get perfectly aware that his death isn’t far. I can easily calculate how much further I can go, while awaking to the truth that his death irrevocably lies immediately beyond that point. The ”manuality,” the dexterity and coordination ability of these hands, is in my view one of the essential sensibilities man can develop in life. But man is also a creature that slaughters countless other living beings. We continue to kill for our own convenience like taking candy from a baby, and just sweep it all under the carpet. Considering this attitude, it appears to me that we have no right to demand a ”healing of the mind,” and that mental peace is but an illusion anyway. Shouldn’t we rather give a thought to the question who are the ones that actually deserve recovery and comfort? Newspapers and other media have been writing about humans’ inability to communicate with each other for years, but looking at the looseness and unscrupulousness of today’s society, I tend to believe that there is no such thing as human communication skills in the first place. We promote environmental protection and harmony with nature, and set up lists of endangered species, but there is in fact no creature on the planet that kills, destroys, and engages in so many self-defeating wars as humans do, so that’s all just hypocritical talk that don’t change anything. Damaging our environment is part of our daily routine. I am part of a species that causes death all around the world. How, I ask myself, are we supposed to deal with this fate? In the end, this is a question that the various cultures and religions have been pursuing since the emergence of
humankind. Nevertheless, I do want to retain a gleam of hope. There do exist moments and situations in which it would be fair to say that living beings communicate intimately on a small, familiar scale, vaguely comparable to the thing with me and my canary.
I believe in this kind of human ability and sensibility.
For such reasons, I’m seeing a meaning in munuality.
While sharing the same living environment, life forms other than humans are often shaken by an extraordinary feeling of tension, and a great fear of death and fights that are quite outrageous from a human point of view. On a cellular level, certain parts of my own body are supposedly dying with each succeeding day, as cells virtually die as soon as they come into being. That’s just the way it goes. Well aware of this, we keep extinguishing life just by eating in order to stay alive. That’s the law of the world, and I believe that the first thing we need to do is to become keenly aware of this rule. What’s that sliced pork I’m buying at the supermarket?
And where does my vague sense of panic when seeing people flock to barbecue restaurants come from?
Humans invent business models and elaborate killing machines with an eye to economic efficiency.
The slightest feeling of appetite and pleasure triggers irresponsible mass- killing and superfluous deaths, and it appears as if all sensitivity to a world in which creatures that are insignificant in our eyes live and die is on the decline. Whatever we do, the world won’t provide us with answers, and with our lack of sensibility we even seem to be unable to notice eventual hints that come along. How do machines, robots and media designed to access and make use of nature have to be? This is another question that has been reduced to the idea that everything’s fine as long as machines function as tools that help us rule the world. But is it really fine this way?
At least in my opinion it’s about time to trash that old idea of the tool as an extension of the human body.
The sensibility that I can employ to grasp my beloved little bird with my hands is equivalent to the sensibility that any human can use to embrace the seas and mountains of the earth. To me it seems as if this sensibility and our awareness of it are exactly where to look for essential hints for the rescue of the world and mankind.

 NTT ICC「サイレント・ダイアローグ」展

アーティスト・トークを公開
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/2008...

 六甲ミーツアートへの出展


http://www.rokkomeetsart.com/news/

2作品だします。


 京都造形芸術大学美術工芸学科現代美術コースリコメンドへの書き込み


http://bixko.net/category/recommend/recommend-cont...

長ったらしく書いているのがぼくの記事です。

 シルトの岸辺

 あるいは 動く絵 Hagenomyia pictorica




毎日、お皿に描かれる絵が変わります。その日その日の環境で変わっています。
お皿には日本画で使われる岩絵具の粉末とアリジゴク(Hagenomyia)が入っています。
アリジゴクはせっせと毎日、絵を描いてくれます。あなたのいないときに素晴らしい絵を描いてくれるものなのです。 絵の具の粒子、器の形状、をうまく構成して臼を作るより、図案を描くように誘導します。
アリジゴクはとても丈夫な昆虫です。ウスバカゲロウの幼虫で、生まれて3年 くらいで飛び立ちますが、成虫になると10日ほどの命です。アリジゴクという幼生のあいだをゆっくりと暮らしてもらう、と、も し考えるならば、ひと 月に一度、アリかダンゴムシをあげてください。かわいそうに思うかもしれませんが、それが自然の摂理です。あとは、ほぼ、何もしないでいいです。 
この造形にあなたがいろいろかかわることはアリですが、アリジゴクが作る臼は「完璧な造形」です。 有無を言わせぬ完璧なデザインです。あらゆる人間がこれまで創造してきたデザインからしても究極でしょ う。なぜなら、彼らの創造物のデザインにおいて、浅いとアリは逃げ出すし、深いと砂が落ちてくるからです。 いかなる素 材と状況においても、完璧な造形を毎日せっせと見せてくれるのです。 これは、素晴らしいことではないでしょうか?自然へのかかわりにおいて、このように完璧であること。 このことこそ、われわれ人間が一刻も早く習得しなければ ならないことだと思います。




 コスマあるいはルーセルの制作

ルーセルをフーコー流に読む、というのが主流らしいが、ぼくには興味はない。ルーセルは死後までも、こだわって見せたが、ぼくにはどうでもいい。しかし、その著作の制作物の構成はおもしろい。が、ルーセル自身、 そうは 思っていないだろう。それは、彼の制作物には違和感を感じるからだ。まったく苛立たしい。思うに、クエイ兄弟やカサーレスは、ぼくの興味のあり方に似るだろう。ボルヘスも好きだと思う。ポーやカフカもそうだと 信じる。 こういう路線にぼくは死ぬまでいたいと祈る。

 金魚とエルゴート仮説 あるいは量子金魚

 知覚の扉

金魚とエルゴート仮説                    銅金裕司




信じがたいと思われようが、わたしはガライ街のアレフは贋物であり、もっとほかにアレフがある(あるいはあった)と信じているのである。                           ボルヘス 「エル アレフ」

 じっさい、ミクロな素粒子の時間とマクロな宇宙論的時間では、あらゆる時への回帰が可能であり、それが、もしも、この身の丈の現実レベルで生起するとどのようであるだろうか?
 このことをアナログとデジタルの2つの場合で、過去への回帰と現前とを並置した。1つはろうそくの灯火で可能であるほどにアナログで、もう一つはパソコンを利用したバーチャルなデジタル空間である。
 それぞれで、過去の生きた時間が巻き戻され、リアルタイムを併置し、平行世界が継続している。
 アインシュタインのよれば、いま、ここに、過去、現在、未来さえ並行的に存在する、という。
 しかし、過去と現在は同時に見せることができたが、未来はどうにもできない。そして、そこでは、空間さえも分離するというが、幸運にも、この展示では壁側面に映した影絵が水分子ともに分裂し、量子化する様が表現できている。
 このように、かつて、もうひとつの未来があった。いま、別の自分があるかも知れない。このような可能世界と呼ばれる議論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであるとされる。世界について異なるあり方ごとに異なる可能な世界がある。そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」と考えられる。ボレヘスのアレフでは、その一点、一刻に全宇宙が現出するということになる。いっぽう、これを統計力学、量子力学あるいは流体力学など、粒子状、モル状世界においてはエルゴート仮説と呼ぶ。
 そして、ここでは、金魚である。あるいは「量子金魚(クオンタム ゴールドフィッシュ)」。
 金魚は、室町時代末期に我が国にもたらされ、もともと、人がフナから育種したとされているが、明らかに、両眼は側面から前面へとその配置が移行され、体高は低く扁平化され、幾つかのヒレが移動させられて、胸ビレが発達すれば、足化して、ある種の両生類として陸上化の準備に向けられた可能性を感じる。
 すなわち、生命において、時間が未来に一足飛びに加速化された姿が、いま、ここにあると思えてくる。
 「量子金魚」としてありえた現在と未来。とすれば、これは、いま金魚が首をもたげて水面に頭を出してひと息さえすれば、陸上化できる時刻がもうすぐ到来する、と思うのはぼくだけだろうか。


豊田市美術館学芸、能勢さんの展評
http://artscape.jp/report/curator/1212317_1991.htm...



掌に載るほどの小さな作品、また私たちの体ごと包み込んでしまう大きな作品は、この日常に作り出された小宇宙です。そうして作り上げられたそれぞれの宇宙は、この世界の成り立ちの不思議、またその手触りを伝えます。
本展では、欄間、床の間などの細部に装飾が施された大正時代の料亭・喜楽亭を舞台に、それぞれの作品が各部屋に呼応するように展示されます。また、豊田市美術館の一部でも、コレクション展と連動した展示を行います。気付かぬほどささやかに、また驚くほど大胆に展開されるそれらの作品は、小さなものから大きなものへ、また大きなものから小さなものへと誘い、収縮・拡大しながら私たちの想像力を大きく広げてくれるでしょう。

会期: 2010年2月20日[土]−3月14日[日]
休館日: 月曜日
開館時間: 喜楽亭/10:00−17:00    
豊田市美術館/10:00−17:30(入場は17:00まで)
会場: 喜楽亭/〒471-0034 豊田市小阪本町1-25
豊田産業文化センター内[map]
豊田市美術館/〒471-0034 豊田市小阪本町8-5-1




http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2010/...

六本目のゆび@ask2010 1.12(Tue)〜 1.23(Sat)

京都に続いてASKでもトライアルします。

これは、ある問題提起です。


÷÷÷÷÷ 感想です。
先日、「ASK?」にて、「6本目のゆび」を体験させていただきました。
こんなに簡単に人間の脳は騙されるのかと思いました。
ボクの場合は、自分の指の映像を見ていたときの方がリアリティがありました。義指が感じるのです。
実験後も、小一時間なんか指があるような気がしました。幻肢痛の疑似体験といったところでしょうか。
あのBGMもぴったりの歌詞で、場を盛り上げていましたね。
みずからをプロトタイプ・サイボーグと称する、イギリス・レディング大学の研究者ケビン・ウォリックは、自分の腕の神経をPCに接続して、自分を蝙蝠にする実験、つまり五感を閉ざして、第6感によって対象の接近と遠ざかりを認知する実験をしたとき、自分の脳は、この新しい認知方法にすぐに慣れたと言っていましたが、ヒトの脳の可塑性というのはすごいもので、義指にもすぐに慣れてくれるようです。
義指と本物の指、ノンリアルな世界とリアルな世界、これらを往復することがこれからますます頻繁になっていくのでしょう。こうして、ノンリアルの世界がリアルの世界に進出してくるのでありましょう。バイオテクノロジーは、生命の再デザインを通じて、ヴァーチャルなデザイン構想が物質において具現されることについて強く考えさせられます。その点では、ボクは物質であり、自然の一部でもある。とはいえ、テクノロジー的存在でもある。

早稲田大学文化構想学部教授
高橋透

÷÷÷÷÷

アバターという映画がヒットしている。
ヴァーチャルな世界に自分が生きる、という話らしい。
そこで、私が生き生きと生きること。夢のように。
身体の不自由もそこではなく、空も飛べたりもできて天衣無縫な振る舞いである。
しかし、ほんとにそうなのだろうか?
ぼくが思うに、そんな夢との蜜月は長くは続かないのでは、と。
そのような擬の不安定な装置やCGは、ここにいる私が操縦しているに過ぎないのでは?
正太郎にとっての鉄人は非常につらいものがあるに違いないのだ。
おもしろいことに、鉄腕アトムでは、既にして、第一話でこの問題が提出されている。
すなわち、天満博士は、リアルな生身の「トビオ」でないアトムにいらだって、
サーカスに売っぱらってしまう。アトム大使の誕生だ。
アトムの永遠かつ深刻な悩みはこんなにも早く露呈してしまうのだ。
とはいえ、いま、まだ、アバターという映画において、あらゆるロボットの開発において、
このことは、そう問題視されてはいないようではある。
とはいえ、やはり、
アバターを生身の身体にいかにリアルに接続できるか、だ。
たとえ障害があったとしても、脳のリアルは確保したいだろう。
身体に過不足があって、そこに何かを継ぎ足した時、脳がどうクオリアをもつか、だ。
CGでもロボティクスでもネットでも、そこにあるフェイクな自分を実際に感じることなのだ。
この問題は、近い将来、解決しようとするであろう問題に違いない。




6本目のゆび
2010 1.12(Tue)〜 1.23(Sat)
11:30〜19:00(最終日17:00まで) 日祝休み
〒104-0031  東京都中央区京橋3-6-5 木邑ビル2F
Tel:03-5524-0771/ Fax:03-5524-0772
営団地下鉄銀座線「京橋駅」2番出口より徒歩1分。都営浅草線「宝町駅」4番出口より徒歩2分。 JR「東京駅」八重洲南口より徒歩10分。(1階に南天子画廊あり)


「細胞を創る」研究会2.0(2009.10.1-3)

http://jscsr.org/sympo2009/
お問い合わせ:info (at) jscsr.org
「バイオメディア・アートの新展開:
 交錯する美と知の迷宮へようこそ」

日時: 2009年10月2日(金)18:30-20:30
入場無料(登録不要,定員280名)
場所: 東京大学鉄門講堂
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_02_09_j.h...

パネリスト:
銅金裕司(メディアアーティスト,京都造形芸術大学教授)
久保田晃弘(メディアアーティスト,多摩美術大学教授)
竹内昌治(マイクロデバイス工学,東京大学准教授)
岩崎秀雄(造形作家・微生物学,早稲田大学准教授:コーディ
ネーター)






さらに 文化庁メディア芸術プラザ

文化庁メディア芸術プラザにて

ウェブ企画展<日本メディア芸術>vol.3
「音と装置」〜メディアとともに変貌する音アート
http://plaza.bunka.go.jp/museum/webmuseum/vol3/bas...
(ZONE4にて)
メディアやテクノロジーの進化によって、変化しつづける文化や表現の中で、日本の表現の原動力やおもしろさの根底にある、繊細さや軽やかさ、遊び心やものづくりの精神、独特な物語性やあふれる夢など、日本独自の文化や日本人ならではの感性を探って行くべく企画。
vol.3では、四季と自然のなかで暮らしてきた日本人ならではの音の感覚、音をことばに変換する「音揄」の感性など、日本独特の文化を浮き彫りにしながら「聞くこと」「耳を澄ますこと」「奏でること」のおもしろさと、音から始まる「五感の連鎖」というテーマの一環として紹介されています。



パフィオ イン マイライフ@三菱地所アルティアム

Mind in Sound
生態系を聴取する - 環境にむかうサウンド・アート
Paphio in My Life
http://artium.jp/exhi/




会期09/2/21(土)→3/10(火)
開館10:00→20:00
会期中休館日はなし

http://tenjin.keizai.biz/headline/1929/
http://artium.exblog.jp/
http://artium.jp/exhi/next.html

◆オープニング・トーク 2/21(土)18:00〜
◆ホーメイとエオリアン・ハープの共演 2/22(日)16:00〜
◆珪藻土を聴く3/7(土)16:00〜

810-0001
福岡県福岡市中央区天神1-7-11 イムズ8F

プラントロン@沖縄海洋博ドリームセンター

椿昇の展示にて

椿昇 2004–2009: GOLD/WHITE/BLACK にて
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/...
ラディカルトーク
http://www.momak.go.jp/Japanese/news/2008/20090228...
郡司ペギオ幸夫 とセッションします!
http://www.research.kobe-u.ac.jp/fsci-nonlinear/gu...

椿昇 2004–2009: GOLD/WHITE/BLACK」展 関連企画
講演会「ラディカル・ダイアローグ」(聞き手:椿昇)

京都国立近代美術館 1F 講演室・ロビー
聴講無料、先着100名
※3月28日(土)以外の日は、開始時刻の1時間前より受付にて整理券を配布します

3月7日(土)
14:00–15:30 講演室 郡司ペギオ幸夫(神戸大学大学院 理学研究科地球惑星科専攻
教授)+銅金裕司(メディア・アーティスト、京都造形芸術大学教授)

京都国立近代美術館
〒606-8344
京都市左京区岡崎円勝寺町



 コムジン(NTTの雑誌)

プラントロン2009




六本目のゆび











あなたの六本目のゆび。
六本目の指を感じることは、
たとえば、
ヴァーチャルな世界であなたの手におかれた石の重さを実感するとき、
アムロが傷ついたガンダムの体勢を立て直すとき、
あるいは、
女性が男性のペニスを空想し、男性が女性の妊娠を想起する、
そして、
サクラの木がモモの木に接ぎ木されたときの疼痛感
などの場面に連動するでしょう。

会期:2009年7月6日(月)-17日(金)、土日、休廊
時間:16:30-19:30
場所:京都造形芸術大学望天館ANNEX3階 gallery B37
お問い合わせ:galleryb37@hotmail.co.jp

京都造形芸術大学で実験を兼ねた展示をします。
これは、バッハの六声のリチェルカーレに思いを馳せ、
http://www.youtube.com/watch?v=ViCLYbtJ1bQ
あるいは
http://www.youtube.com/watch?v=Gv94m_S3QDo&feature...

ステートメント
六本目のゆび   
ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ」ではバッハの「音楽の捧げもの」の話題で始まる。
プロイセンのフリードリッヒ大王をふらりと表敬訪問したバッハに、王は自分の主題に基づいて六声のリチェルカーレを所望する。六声のリチェルカーレでは、五本の指が次々に主題を輪唱し、さらに続いて、六本目のもう一本の指が追従するという、ある意味、機械的に極めて困難な技法が要求される。これには六本目のゆびがあれば可能なのだろうか?バッハが六本の指を持っていたかどうかは不明であるが、ピアニストはさらに指を一本、植物では可能な、接ぎ木をしたいと思うかもしれない。
 さて、このことを現在において考えてみると、実際の生身の身体の延長、つまり、「六本目のゆび」として仮想バーチャル空間がある。つまり、CG、ネットワークあるいは機械、ロボットが、どのように実際の我々の身体に接続可能になるかにという重要な問題をこれから解決しなければならない。
 そこで、くれぐれも、わたしが、思うことには、この「六本目のゆび」としての仮想を、人間の植物的部分に機械や仮想を挿し木するという技法を開発するとしても、それは、自然と人の精神を結ぶためのゆび、リアルな世界に過不足無く接続可能なゆび、森羅万象をアートとして自家薬籠中のものとしてさまざまな表現ができるゆび、いわば、グリーンフィンガー、にしてゆくことが肝要である。

エロ、エゴあるいはエコ・サピエンス展@ASK?2008


2008 10.21(Tue)〜 11.8(Sat)
11:30〜19:00(最終日17:00まで) 日祝休み
〒104-0031  東京都中央区京橋3-6-5 木邑ビル2F
Tel:03-5524-0771/ Fax:03-5524-0772
営団地下鉄銀座線「京橋駅」2番出口より徒歩1分。都営浅草線「宝町駅」4番出口より徒歩2分。 JR「東京駅」八重洲南口より徒歩10分。(1階に南天子画廊あり)
エロ、エゴあるいはエコ?



草木は太陽の方に起き上がり、つづいて大地の方に倒れ伏す
     ジョルジュ・バタイユ  太陽肛門  
地球最後の日を想起する

いま、ここにある「空気」を考える展示です。
当たり前にある世界にケアされ続けることについて。
気球用バルーンの入口と出口のCO2濃度を測定します。
バルーンに植物がはいると植物の光合成(CO2吸収)によって
出口のCO2濃度が入口より小さくなります。
バルーンに人がはいると人の呼吸(CO2放出)によって、
出口のCO2濃度が入口より大きくなります。
人と植物がはいると、あるバランスが生まれます。
そう、それは地球のように。
人だけがはいって、送風を止め、酸素の供給を断つと何分かで窒息します。
太陽の光や熱、空気、水は無償で提供され続けています。
そして「死」もきわめて平等、均一に生き物には訪れます。
バタイユはこれに心底、驚嘆し、彼の思考を構築しました。
このようなバタイユの思索を追いかけつつ、さらなる展開を試みようと思います

展示をご覧くださった方はご感想をお待ちしております。
dougane@gmail.com











地球からせしめた化石エネルギーの過剰な浪費。
いまもそれは加速しつつ、生産調整をすることなく、CO2の放出量の節減を声高に
叫び、ついには拝金主義の 利権がはびこる。
とはいえ、真なる課題は地球への負債、借金の返済であることを確認したい。
このような問題意識でこの6月に大森、ギャラリーO2では、地球からの借金を本気で
返そうというあまりにも微量であるが、植物に依存した炭素の固定化の試みを行った。
そして、おもしろいことに、そこで発見した人々がいた。
気球用バルーンの中に複数の女性をはべらし呼吸しようとする、エロ・サピエンス。
気球用バルーンで酸素を独り占めしようとする、エゴ・サピエンス。
そして、他のだれよりCO2の放出量が少なかったエコ・サピエンス。
今回はこのような人々に着目した展示を試みたいと思う。
エロ?エゴ?エコ?
バタイユが生きていたらどう感じてくれるだろうか?



CO2 キャッチャープロジェクト展(ご来場ありがとうございました)


ギャラリーO2(オーツー)
東京都大田区中央3-2-16 TEL 03-5709-4270
2008年7月8日(火)〜18日(金)
11:00−19:00 日休 最終日17時







草木は太陽の方に起き上がり、つづいて大地の方に倒れ伏す
         ジョルジュ・バタイユ  太陽肛門  

地球からせしめたガソリンなどの化石エネルギーの過剰な浪費。
そして、いま、浪費はいっそう続けるくせに、CO2放出の節減を
偽善的に声高に叫び、さらには拝金主義の 利権がはびこる。
こうして、とりまく状況は最悪の一途をたどる。

しかし、真なる課題は地球への負債、借金の返済なのだ。

そこで、本展では地球からの借金を本気で返すことを考えたい。
人類の浪費からすれば、あまりにも微量であるが、
植物はその返済を手伝ってくれる。

みんなできちんと地球からの借りを本気で返すという感性。

浪費を続け、それを減する、のではなく。


オープニングパーティ:初日7月8日 16時〜20時

ついに、糀谷の株式会社気球製作所に伺うことができ、ご協力願います。




プレスリリース

いま、地球温暖化のためCO2の削減そしてエコが叫ばれています。
電気を消したり、ゴミを分別したり、その活動はみんなに我慢を強いるもので窮屈な気分です。
とはいえ、私には、それらは、どうも本質からずれているような気がします。
なぜなら、問題は、地球からせしめたガソリンなどの化石エネルギーの過剰な浪費にあるからです。
そうなのに、その浪費は続ける一方で、CO2放出の節減を声高に叫んでいるわけです。
この地球の資源を節約しつつも使う、というあくなき欲望。
これへの、真なる問題解決はこの地球への負債への返済ではないか、と思われます。
この展示では、このことを本気で考えたいと思います。
それは、人類の浪費からすれば、あまりにも微量ですが、植物の光合成はその返済を手伝ってくれることです。いっぽう、光合成の酸素の放出がなければ、すべての動物は酸素不足で窒息して死んでしまうでしょう。
 CO2キャッチャープロジェクトでは、このような植物の存在の重要性に気づき、きちんと地球からの借りを本気で返すことを、みんなで楽しく、美しく、実行してゆくことだと思います。
このような自然への感性を回復してゆくことが、私のアートへの活動だと思っています。




銅金裕司展 DOGANE Yuji

生と死の半分あるいは「manuality」@ASK?2008
3.11(Tue)〜 3.22(Sat)11:30〜19:00(最終日17:00まで) 日祝休み


一昨年の展覧会では、人の頬から発する微弱な生体電位を採取し、個々の生体電位の変化の波形、スペクトル、
さらに、音に変換し音楽として体感するインタラクティブな作品を展示いたしました。
会場では十人十色の生成された音楽が流れ、 たくさんの来場者に感動を与えました。
氏は現在までランの花をはじめ、多種にわたる植物などの生物の生体電位を研究しておりますが、
今回はミクロの世界の粘菌を使い、展示いたします。

------------------------ 今回の展示では、粘菌の生きた様子を生体電位で示して、それを音に変換した空間を作ります。
そこでは、とても危うい生と死のバランスを構成することになります。
このように、みたこともない自然に関与すること。
そこで創発しうる人の潜在能力をサイレント・ダイアローグ展(ICC、07 11-08 02)で「manuality(マニュアリティ)」
という造語で 提案しました。「manuality」とは生と死を予見するごく普通に人がもつ潜在的な感性です。
そして、ここでは粘菌。Physarum polycephalum、モジホコリ属モジホコリ。
よく観察してみてください。粘菌の尾の部分はもうすでに死んでいます。死にながら生き続けています。
とはいえ、人の手を入れて(manualityの発動)、圧倒的に殺しながらも、最適な工夫(manualityの定着)を
見つけないと、 あっという間に粘菌は全部死んでしまいます。
でも、その危機的状況でも私たちの手の感性(manual)は思いもかけない創発をするのです。

このような繊細なレベルで私たちが自然に関与すること。
生と死が交差する人の行為の現場。
いま見た粘菌を想起するとき、その粘菌は、もう死んでいます。

そして manuality





・・・・・
・・・・・

アロマロードと名付けました。





nagi



梛、薙、凪 についてはプロジェクトを結成して、
今後も続行します。

ナギはどこから来たか                    

 この夏、熊野速玉大社に上野宮司を訪ねた。
 ナギという植物についてお聞きするためで、今回の展示作品の重要なモチーフにすることにしたのである。
 ナギは梛と書き、まずは、裸子植物である。Podocarpus nagi。葉はナイフのように鋭く、その新芽は和歌山のミカンを思わせるいい香りがする。すばらしい植物だ。これは、はるか古代の植物といっていい。また、ナギは、はじめに、伊邪那岐(イザナギ)がその名を示すように速玉大社はじめ多くの神社で御神木であり、それは草薙(くさなぎ)でもあり、あるいは、安寧を祈る夕凪(ゆうなぎ)でもある、という具合に非常に広範にその名が由縁となっている。とはいえ、ナギの野生の北限は鹿児島あたりとされるので、明らかにナギは人の手で熊野に持ち込まれたものであるが、それはどのような意味があるからだろうか?しかし、この事実にくらべて神話はいっそうロマンに満ちており、熊野速玉大社の上野宮司に聴くところでは、三本足のカラス(すなわち八咫烏)がナギをくわえて飛ぶという日本神話では、神武東征の際、タカミムスビ神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされるらしい。この話は和歌山の方々には周知であろう。
 ナギはこのように神秘に満ちているが、そう多くの人に知られているわけではないので、これは、もっと広くその存在を知られるべきではないか、とも思うものである。
 そこで、今回の展示では、そのナギが、和歌山城方向から近代美術館に向かって飛来して着地したとして、ナギがもともとやってきた北西に向け、そこでのナギに耳を傾けてみよう、という趣向であり、その体表上の微細な生態電位を鳥の声に変換し、城山の鳥たちを呼び寄せられないか、と目論むものである。

熊野、世界遺産、ナギの新たなる展開、プロジェクトにご興味ある方は、
dougane@gmail.com
詳細お送りします。

・・・・・

NTT ICC で「サイレントダイアローグ」という展示をしました。


http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2007/SilentDial...





藤幡正樹さんとは、植物が歩く、とはいったいどのようなことなのか?
藤枝守さんとは、古代の音律学から身体〜生きた世界の交感はどのような
音の世界なのか?を模索する2作品を展示します。

これは、自然界の見えざる会話(交感、交換、ことば)につい
ての考察の現場です(あえてコミュニケーションとはいいます
まい)。以下はICCの学芸、畠中実さんが書いた半年前のぼくらの
問題意識ですが、ぼくは、さらに進めて、自然、環境、生態系
、保護、アート、デザイン、癒し、ロボットなどのいかにも人
間中心主義的な概念を捨てて、いかに新しい地平に浮かび上が
れるか、人がどのように別次元の世界に展開できるか模索して
います。なかなかに困難です。

・・・・・

plantron 植物文様@ICC サイレントダイアローグコンサートにて
鈴木さんの試奏
後方にplantronの映像


展示に行かれた方はご感想をお待ちしております。
dougane@gmail.com

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プラントロン実験風景



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森のなかで
12月9日まででした。
ご来場のみなさん、ありがとうございました。




和歌山県立近代美術館
粘菌に加えて、nagiの作品を展示しました。
以下の田辺の作品も再制作しました。

nagi


梛、薙、凪 については今後も続行します。


http://www.bijyutu.wakayama-c.ed.jp/exhibition/mor...




粘菌の生体電位を心音で表し、壁に粘菌の変形体が動く様を小さなスピーカーで表現しました。
さあ、南方熊楠はどう言ってくれるでしょうか?
高校のときからの彼のファンで、ぼくの経歴こそ彼の影響そのものです。
なので、田辺行きは緊張しました。


「森のなかで」 展
田辺市立美術館
粘菌プラントロン
粘菌がある展示会場という空間が描く音の軌跡、見学者との生態系の構成線

7/28(土)〜10/8(月・祝)
http://www.city.tanabe.lg.jp/bijutsukan/schedule.h...

熊野古道なかへち美術館
7/28(土)〜10/8(月・祝)
http://www.city.tanabe.lg.jp/nakahechibijutsukan/i...
先日の台風でワークショップが延期したため、いまだ展示できてません。
7月中は、田辺市立美術館だけでの展示です。

和歌山県立美術館
10/20〜12/9
http://www.bijyutu.wakayama-c.ed.jp/



・・・・・・

生と死の半分 2007年6月11日〜23日(土)

642-0074
大阪市中央区千日前1-2-6
ぎゃらりーかのこ
06-6214-2595
http://www.ami-kanoko.com











生と死の半分                                 


まず、ちゃぶ台の上には宝石箱に入った粘菌。その隣には三階建ての粘菌アパート。
どちらも粘菌の尾の部分はもうすでに死んでいます。
死にながら生き続けています。
というように、手を入れて少し工夫をしないと、あっという間に死んでしまうでしょう。
ここではとても危うい生と死のバランスを構成しています。
そして、本来、どんどん汚猥に溢れてゆき、眼を背けたくなる状態になりますが、
そんなデリケートな生きた生態系を、比較的すっきりと展覧することに成功しました。
思うに、このような非常に繊細なレベルで自然に関与すること、をここでは考えたいのです。
それも、生と死が交差する現場を。
話は飛びますが、伊藤若冲の絵画にもこれが描かれているように思います。
熊楠はこのかそけき世界を南方曼荼羅としました。
奥の床の間には粘菌タワーがあります。粘菌たちはタワーの上までのぼって来れるでしょうか?
壁に投影された映像は粘菌が網目の様に広がった様子です。
その粘菌たちは、もう死んでいます。




               (撮影 木村友紀)

cop( carbon offset plants )というコンセプチュアルな新しい植物形態を考案しました。





銅金博士の研究室 植物共生のススメ開講@シブヤ大学

[毎月第三土曜日はシブヤ大学の日。]

今後、毎月第3土曜日で継続します。
詳しくは↓
とりあえず、スーパーのいわくありげな嗜好品(多くは植物)について調査してみましょう。
あるいは、渋谷区のケーキ屋さんでのランの活躍とは?

ところで、シブヤ大学とは
http://shibuya-univ.net/about/





植物が土に根をはる、とき、そこには穏やかな電気層が生まれ、
それは、徐々に地質を金属を腐食してゆく。

・・・






いくつかの新聞にガーデンシアターが

人の心に拮抗するいくつかの力、それが物語になりました


魚の影 2006 ご来場ありがとうございました。

@ artinary on 住みコミュニケーションプロジェクト

暗闇にノベリティな魚の影を映し出しました。
暗黒に映える光と水の静謐な空間を創出しました。
受胎振動から連想した新作でした。
金魚にも体温があって、それが水に奪われる。それを、光の屈折で壁に投影する。
写真撮影は困難です。
ぼんやりして、金魚の体から温度の球がふわふわと。
そんな感じです。
[[]]

・・・・・

ところで「住みコミュニケーションプロジェクト」
ぼくも、休みの日だけでも住みこんで、
五月蝿い貸し本(膨大)、薀蓄CDレンタル(そこそこ)、
with 斬新なインスタレーション、たまに、藤枝守と音楽会
=「銅金本舗」
を提案してますが、今のところまったく本気にされてません。
住みコミ見学のもよりは神戸駅ですが、ここは新開地から南下でしょう。
神戸アートヴィレッジもあります。
でも、菓子sパトリーが地元の創作力という意味ではおすすめです。
本気なら、湊川市場を巡ってから旧湊川を南下を勧めます。
3時までにべニスに滑り込めると、ちょっと神戸の本質に触れえるかもしれません。


すごい車内会議

緑の電車があちこち駆け抜けるのが気にいっています。そのまま東京まできたらいいのに。







若冲は綺麗で奇抜な絵が描きたかっただけではないと思う。彼の創作には単に美術家が作品を制作することを越えて、そこにはある根本的な精神性、尽きない生命への感受性、生命とその創造に関する思索、それへの精進、鍛錬がある。それは最晩年の石峰寺で考えぬいたことでもあろう。あるいは、釈迦の来迎を願い、仏の教えへの帰依だけを志したわけではない、とも言えるだろう。いや、もしかしたら彼の自覚はそこにあったのかもしれないが、動植綵絵は大乗的な世界創造の物語である。そこには予感が実現する生命世界がある。徴候・記憶・外傷。結局、現状の美術界では、五百羅漢の石仏のぞんざいさに当惑しつつ、それと動植綵絵の完成度とのギャップが指摘されるにすぎないが、彼の精神は学際的にアプローチする必要があるように思う。素朴な石仏も、たぶん、若冲の生命創造と物語の未踏への挑戦という意味ではそう大差はないだろう、と私は思う。そこには、時を越えてだれかが作ったガーデンシアターもある、ということだ。そう、五百羅漢の石仏であれ、動植綵絵であれ、見た目、ファッションはどうでもよく、あえて言うと技巧さえどうでもいい、と若冲は言う。昨今のDNA至上主義、還元主義を批判しているようにさえ感じる。ここに「具眼の士を千年待つ」があるのかもしれない。







The Garden of CYRUS





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京都造形芸術大学に移りました

植物や自然、生命にかかわるさまざまなことをアートとして取り組みます。
上記のキーワードにかかわることごとも。
もし、いっしょに制作、実験、プロジェクトなどやってみよう、とかあれば
京都造形芸術大学
空間演出デザイン学科
銅金裕司
〒606-8271
京都市左京区北白川瓜生山2-116
TEL:075-791-9359
dougane@gmail.com
までご連絡お待ちします。



dougane@gmail.com
銅金裕司











































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