銅金裕司の作品、活動、プロジェクト、考えていることについて(Garden of Cyrus、サイラスの庭、アート、芸術、庭、ガーデン、植物、花、虫、鳥、緑、グリーン、バイオ、バイオアート、bio art、バイオロジー、環境、環境問題、二酸化炭素、co2、オフセット、生態、生態系、エコ、エコロジー、環境芸術、ecology,植物の音楽、植物の声、植物の音、花の声、花の音楽、花の音、音楽、声、リズム、plant、music、voice、植物生体電位,植物とのコミュニケーション,世界、世界の声、ルグィン、世界劇場、存在の大いなる連鎖、イエーツ、ワールブルグ、マニエリスム、魔術、伊藤若冲、石峰寺、動植綵絵、海洋学、海洋、機械、ネットワーク、コンピューター、植物、花、トロン、マック、マッキントッシュ、SE、SE30、脳波、ロボット、ロボットとは何か、電位、FFT、スペクトル、midi、プラントロン、plantron、心、感情、精神、知恵、マインド、認知心理、アフォーダンス、カオス、複雑系、非線形、振動、振動子、内部観測、オートポイエーシス、植物の心、植物の精神、植物の知恵、記憶、徴候、庭、ガーデン、シアター、園芸、園芸文化、花文化、花、箱庭、ラン、orchid、ランの進化、ランの戦略、リゾーム、プルースト、バタイユ、文学、マラルメ、リラダン、ポー、ボルヘス、ナボコフ、アーダ、ユリイカ、メルヴィル、稲垣足穂、中井英夫、椿実、澁澤龍彦、yuji dogane(銅金裕司/メディアアーティスト))

プラントロン  




     天野一夫               
巷にはエコロジーと言いつつも、ほとんどが人間中心の視覚専制性の範疇を一歩も出ることのない、自足した「美術」は枚挙にいとまがない。そのようななか、海洋工学を学んだ後、ランを中心とした植物の研究・指導にたずさわっている銅金裕司はいずれの場から見ても特異な立場から、注目すべき試行を重ねているようにおもわれる。銅金は植物の葉等の表面に流れる微弱な電位変化を測定し音に変換する「エコロジカル・プラントロン」というシステムを開発し、`94年頃から画廊を始めとしたさまざまの場で展示を試みてきている。作家によれば、その変化は人間と同様、植物の生理・生態と関連したもので、脳波のように、秒・分単位でリアルタイムで変化するものであり、種によれば、高度な情報処理さえ見せることがわかったという。人が近づくなど、周囲の環境に対し微細に変化しつつ、またその種類や場でそれぞれ個性的な振る舞いを見せる植物。そこではこれまでの我々の単なる視覚のみによる、一方的かつ専制的な享受の仕方へ再考を迫るだろう。植物という生態を分析する事のみでは判明しない本質を、ある関連の下で明らかにしていくことで、我々は生きるということ、通常は意識し得ない複雑な生への場へと立ち至らせる。本来アートとは我々の日常をずらし、ある覚醒の場へと導くものであるとするならば、このような試行とは、優れてアーティスティックな営為であるだろう。



上記写真の展示は
http://www.cwo.zaq.ne.jp/caso/lib/040313osaka04.ht...

図解入り説明は 植物、声、音楽、プラントロンとは?

プラントロンとオートポイエシス

プラントロンはオートポイエシス的様相─世界観を顕在化し動機つける。ただ、この生命の世界はオートポイエシス的理論究明ではいまだ掬いきれず、何を取りこぼしているのかも判断がつきにくい、いったいぜんたい予断をが許されない思想的状況ではある。いや、たぶん、きっと「環境世界」という考え方はアフォーダンスなどで理論的究明が始まったにしても、環境と呼ばれる世界の曖昧さのために、ベイトソンや熊楠らの精神の環境、生命世界への没入的、内部観測的切り口については、結局、新しい価値観や定義を見出してゆくしかないようにも思えてくる。ただ、生きることを考察することは難しい。生命のシステムは自律性を備え、生命が自己組織化する能力によって、それぞれの系において個体性が維持され、保証されるだろう。オートポイエシスではこれらの系は自己の境界を産出のネットワークの中から自分自身で決定しつつ、流動的でありながら、その境界は空間に見えるような形で表象されない。そう、ここに居ることはもはやここには居ない。接続する世界の内部に降り立つのである。このように生命システムが生命の場との境界をどのようにして自分自身で画定し、創出するのか、生命の場である世界との関係をどうやって自分自身でつくりだせるのか。システムの在り方をシステム自身との関係で明らかにしてゆくのがオートポイエーシスならばプラントロンは生命の場に異なる次元の穴を内部から穿つ。生命が、自然の内部に入り込んでその一部となり、生命世界の個別性が空間的外部に仮に、表象されたとしても、その個体の延長上の位相空間に生命の場が存在する。このように植物とか自然の内部的世界は、生命の場の位相空間に注ぎこまれ、生命どうしのコミュニケーションのクラインの壷をめぐり、生命の場を連鎖して行くみちしるべなるかもしれない。プラントロンは自然への参加性をもってその延長上に生命の場や世界を把握し、人の自然への新しい感性や判断も生みだすことを期待している。


植物の声はどこからくるのでしょうか?

これは比喩ですが、そのような声はどこにもない、子供のときには聞こえたかもしれないけれど、もはや聞こえなくなった、いや、そういえば、田舎のおばあちゃんが最近そんなことを言い出した、とかおっしゃる方もおられるでしょう。こう言われて始めて、かつての体験をいまここで思い巡らせて、「そのとき疑いなく花の声を聞いた」と言いだす人もいます。それは、自然の声とか、天の声とか、あるいは死んだ両親のつぶやきなのかもしれません。植物の声が聞こえてくることが「ない」とは言えないでしょう。
ところで、ここの空気の変化を感じていただけましたか?澄んだ感じはしませんか?
確かに、花や緑はある充足した体験を促してくれます。聞こえない声を聞かせてくれるような、それは、少しなつかしくて、もともとそこにいたおおもとの自分に出会えるような、何かしら心を満たしてくれるようで、それはまるで植物になったような悦びでしょうか?その体験そのものが植物の声、あるいは音楽と呼べるような気もします。
ここでは植物から採取した電気情報を声に変換したわけですが、ねらいの1つは、皆さんの心の中で、この体験を思い、回想したときに、独自に鳴り出す音楽があることを想像してもらえたら、そこに「美」みたいなものが生まれるのではないかと、ご提案するものです。植物はヤシ科のアレカヤシです。葉から蒸散と言ってたくさんの水蒸気をだしています。同時に空気を浄化してくれるでしょう。一鉢でも効果は大きいのに、これだけいると空気はかなり綺麗になると思います。その活動がこの展示により「声」でわかる、とも言えるでしょう。このように、この場を澄み切らせてみたいと思いました。だから、この植物というわけです。1つの鉢植えの葉あるいは茎の脳波レベルの微弱な生体電位をとって、いくつかの声に変換しています。声の主は坂井れいしうさんという歌手と飛び入りの方々です。ただ、本当の歌手は違うところにいるようにも思えます。



作曲家 藤枝守氏 と考えたこと
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