銅金裕司の作品、活動、プロジェクト、考えていることについて(Garden of Cyrus、サイラスの庭、アート、芸術、庭、ガーデン、植物、花、虫、鳥、緑、グリーン、バイオ、バイオアート、bio art、バイオロジー、環境、環境問題、二酸化炭素、co2、オフセット、生態、生態系、エコ、エコロジー、環境芸術、ecology,植物の音楽、植物の声、植物の音、花の声、花の音楽、花の音、音楽、声、リズム、plant、music、voice、植物生体電位,植物とのコミュニケーション,世界、世界の声、ルグィン、世界劇場、存在の大いなる連鎖、イエーツ、ワールブルグ、マニエリスム、魔術、伊藤若冲、石峰寺、動植綵絵、海洋学、海洋、機械、ネットワーク、コンピューター、植物、花、トロン、マック、マッキントッシュ、SE、SE30、脳波、ロボット、ロボットとは何か、電位、FFT、スペクトル、midi、プラントロン、plantron、心、感情、精神、知恵、マインド、認知心理、アフォーダンス、カオス、複雑系、非線形、振動、振動子、内部観測、オートポイエーシス、植物の心、植物の精神、植物の知恵、記憶、徴候、庭、ガーデン、シアター、園芸、園芸文化、花文化、花、箱庭、ラン、orchid、ランの進化、ランの戦略、リゾーム、プルースト、バタイユ、文学、マラルメ、リラダン、ポー、ボルヘス、ナボコフ、アーダ、ユリイカ、メルヴィル、稲垣足穂、中井英夫、椿実、澁澤龍彦、yuji dogane(銅金裕司/メディアアーティスト))

ガーデンシアター・・・箱庭園芸と心の世界


http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/trdproj/workshop/do...

若冲は綺麗な奇抜な絵が描きたかっただけではない。彼の創作には単に美術家が作品を制作する、を越えて、そこにはある根本的な精神性、創造に関する思索、精進がある。それは最晩年の石峰寺で考えぬいたことでもあろう。あるいは、釈迦の来迎を願い、仏の教えへの帰依だけを志したわけではないとも言える。結局、五百羅漢の石仏のぞんざいさに当惑しつつ、動植綵絵の完成度とのギャップが美術的、技術的に指摘されるにすぎないが、果たしてそうか?たぶん、若冲の未踏への挑戦という意味ではそう大差はないだろうと私は思う。そう、見た目、ファッションはどうでもいいのである。ここに「具眼の士を千年待つ」があるのかもしれない。


ひとつの箱庭物語から

あるとき「温泉」と「旅」を主題とし、サツキなどの植物や小さな岩石などを実際の温泉場ように配置しつつ、粘土で作られた富士山からは蚊取り線香の煙がゆったりと棚引き、はるばる見渡せば夕暮れ迫る清水港が一望できるそんな状況に帰路を急ぐ次郎長人形を置いてみる、という言わば「次郎長ワールド」とも言うべき箱庭を苦心して作った方がおられた。・・・・・・・・そのことが起こったのは私がその方の記録をまとめ、ビデオを編集していたときである。箱庭園芸のワークショップでは作ってからしばらく何日かおいて一人一人その箱庭にまつわるお話を語っていただくのであるが、ビデオにはその様子が記録されたていた。その方は「次郎長ワールド」を前にして「物語とかお話をするのは、すごく苦手なんですけど・・・」とはじめに断られた。それでどうなさるのだろうかと、そのとき私も心配したのだが、それもつかの間、つぎの瞬間、間髪を入れず大きなよく通る声で「しみいいず港の名物はあ〜」と歌唱されたことには本当にびっくりしたものである。そのとき見ていた観衆は一同に「おお!」と歓声をあげたが、お話の代わりに歌を唄われるとは不意をつかれた感じがしたのだ。しかし、ここでの問題はそのようなビデオの内容ではない。私はその見事な歌いっぷりのビデオがとても好きで印象的だから編集中もついTVをうっとり見とれていたのだが、そこで、なぜかふと思い付いてTVのチャンネルをビデオから他局へ変えて見たのだが、回した先の神戸のサンTVというローカル局でそのとき放映されていた内容に驚愕した。お昼の名画劇場の枠だったが、昔の東映映画の「次郎長意外伝」なるモノクロの古色蒼然としたコメディがその日に限って放映されていたのである。まず放送される作品ではないだろうと思う。昨今こんな作品を見るような人は滅多にいないことを考えると私はその偶然に心底びっくりした。そのときは驚いただけであったが、どうも箱庭園芸をやっているとこういう状況に頻繁に出会うので、ついにはこのような偶然の一致、大げさだが考えもしない現実が生起するこの世界の連鎖こそが箱庭園芸すなわちガーデンシアターの真骨頂、効果として望むべき最良のものと考えるようになった。語り手の箱庭と物語への精神的パワーが時空を越えてその時の私の現実に共振し、創出されたように感じられ、世界がかくも不思議に満ちていることが体験できたのではあるまいか。
ガーデンシアターを語る上で重要なことは箱庭療法におけるヘルスケアでも、癒しでも、ましてや芸術・アートでもなく、そんなことはどうでもよくて、この事実と未来への生成への気運となるものこそが真に重要であろう、と考えている。ガーデンシアターにかかわる作業には大なり小なりこのようなユングの言うところのシンクロニシティのような現実が生起する傾向があるのかもしれない。まさに、単に偶然の一致にすぎない、と言われそうだが、それがどうも意味がありそうな予感がする。いったいこの感触と気分はどう説明すればいいのだろうか。




はじめに

最近の園芸、ガーデニングが流行しているが、どうしていま、園芸なのかについて考えて見たい。この問題は一般的な芸術にも通じるところがあると考えられる。どうして、いまアートなのか?それは、人はどうして花をあるいは芸術を愛するのだろうか、という問題である。最近これらが積極的に癒しやヘルスケアとして求められているのである。これらは作業や鑑賞を伴なうものの基本的には私たちの心にかかわる問題であり、いかにしても物質に還元できないところが、科学的な省察を困難にしていると言えるだろう。しかも精神的な疾病ではないので精神医学や心理学でも該当する分野は限られている。これらは、あたりまえだが要素に分割して量的には計測できない。だからこんなことは科学では対象としないのでこれらを論文とするもの難しい。とはいえ、こんな基本的なことが答えられないなんてことも信じられないことだろう。お花が好きなのは幼稚園以前から理解できうることだから。しかもネンデルタール人も弔いには花を手向けていたらしいのだから。この心の運動は起源がそうとう古そうだ。そこで、このような根本的な基本問題に答えてくれるのはいかなる学問なのだろうか?園芸学?心理学?それとも芸術学だろうか?しかし、どれもきちんと答えてくれそうにもないような気がする。しかしながら、このことは人間存在の意義の考察においてきわめて重要なテーマになるとも考えられる。というのはこれは人間独自の問題であり、他の生物はこのような意味合いで花を珍重することは有り得ない。このような美学的、哲学的問題とそれからの人の欲望についての議論は範疇外とするのであろうか?少なくとも現在では、この問いは自明のようであり、この発問自体がタブーのようでもある。しかし、他の園芸学とは一線を画すものであることは説明をまたない。つまり、蔬菜や果樹にかかわる園芸学の存在理由は比較的自明である。なぜならこれらは食物であるから。人の食欲という生理、生命維持には欠かせない営為と密接している。しかし、花は人の精神性にかかわり、そこにその必要性がある。さらに、蔬菜や果樹を対象としても今度はガーデニングなどの趣味的な園芸作業とはいかなる人の行為なのかについては園芸学では答えることができない。花とは何か?営利生産だけが園芸ではないし、人は食うためにのみ生きるのではない。

箱庭園芸

箱庭園芸は、神戸市しあわせの村にあるシルバーカレッジのワークショップで平成9年から「植物と人のかかわり」という講義で考案した創作的な実験・実践のことである。はじめにあきらかにしておきたいことは、園芸療法のように癒しを直接の目的とはしていない。あくまでも、個人が自分自身を表現できるような作品作り、すなわち自己実現の術として位置づけたい。学生たちと一緒にネーミングの発案からはじめ、作業内容も模索しつつ実践した。基本的には、少々大きめのプランターにガーデニングして、それを背景にしてドラマを創作した。つまり植物を植えたり動物を飼育した箱庭を劇場とみなして、その季節変化と植物/動物の生長・変化につれて、物語も新たに展開した。したがって、従来のガーデニングのように花壇苗や小さな樹木を植えるだけでなく、必要な舞台美術を自分で工作したり、主人公や脇役も考えないといけないこともあった。想像上の言わば「夢のガーデン」と「物語」の創作、つまりガーデンシアターと呼べるものである。さらに、環境を試行錯誤し、個々の生命が小さな箱庭でどう生存できるかを模索する試みは、規模は小さいが、生きる世界の創造とも言え、ユングの顰みに習えば、個人がこの宇宙とどう接続して行くかというテーマに接近する試みである。




材料及び方法

材料/60×40cmプランター、ガーデニング資材一式、各自の好みの植物、動物、置物、工作物(音響装置、噴水など)
方法/基本的にはプランターだけを指定し(しない場合もあった)、資材・植物・動物を選択し、箱庭の作成した。作業は、全てにわたって基本的に自由とした。できれば、個人の好みに従うように呼びかけた。作業者の思うままにやってもらい、自主性を尊重した。だから、箱庭作成後の管理・メンテナンスも各自で担当し、維持管理の責任は各自にあるとした。しかし週に一度は観察して、栽培状況などの箱庭の変化やそれに対する作業者自身の気持ちを記録するようにした。また、潅水などはグループで担当した。作業の一部始終を写真とビデオで記録した。さらにビデオでは作者が作品を語るドキュメンタリーを撮ったり、箱庭を利用して創作映画を創るようなこともあった。
作業プログラム/作業者には、はじめに1冊のノートをご用意させた。これに、作業者の自主性に任せつつもすべてを記録してもらうようにした。春〜夏〜秋〜冬などの時間推移やさまざまな場所を想定して風景を構想し、デッサンしてもらった。そこに主人公や脇役を想定して簡単な物語あるいはシナリオを創ってもらった。ノートにはイメージ写真などでコラージュしてもらった。使用材料の詳細なリストを作成させた。さらに、使われる植物の種類や性状を調べさせた。箱庭に置物や小物などは、入手経路や購入時の動機など思い付くままを記述させた。物語の創作は詩でも短歌、俳句も可とした。ただし、風景(植物+装飾道具)の変遷で話も変化することが予想された。したがって、植物を変更したり、痛んだりしたときは、植物の状態を記録しつつ、物語もそれに応じて変更してもらった。
作業者/シルバーカレッジ生徒、平均年齢70歳男女16名/しあわせの村 明友、重度障害者、40歳女1名/兵庫県立農業大学校1年生、平均年齢19歳男女18名/美術作家2名

箱庭療法

箱庭療法という心理療法がかなり有効な癒しの技術として、ひろく評価され、実用されている。それは心身になんらかのダメージを受けている人々に適用される術だが、園芸に取り込めば、これはそのような場合に限らず、一般的に好ましい効果・影響が期待されるものと考えられる。ただし、箱庭療法では生物を取り扱うことはない。それに対して箱庭園芸では長期にわたり植物に限らず生物を扱うことで生きる世界を創造しつつ、それをどう生かし続けられるかを模索し、自分を含めた環境について思索するところに独自性があると考える。




ユング、個性化、世界劇場

箱庭療法、別名、世界技法とも呼ばれるこの療法を支えるのがC.G.ユングの心理学である。かれの業績は偉大で膨大だが、個人の自己実現と世界との調和の議論が箱庭園芸にも通じるだろう。心の発展を錬金術のイメージとそのスキームで説明可能とするが、特に舞台+物語におけるファンタジーの生成にも適用される。ユングによれば個人がこの世界についての体験と精神性を深め、ひいては癒しに繋がる「個性化」という心理的変容世界がある。箱庭園芸でも心が反映した生きた世界を劇場と考え、舞台に人形などの置物を置くだけでファンタジーが紡がれ、しかも植物や動物の時間推移が人の精神的推移と類比的であり、そこには物語性やコスモロジーが生まれるものと考えられる。これはフランシス・イエイツの言う世界劇場にも通じるだろう。この世界劇場というアイデアは西洋ルネサンス思想に源泉があり、人間と宇宙、自然との間に区別を設けないという西洋合理主義とは異なる知性と言える。世界は「存在の大いなる連鎖」であり、天上に生じることは人体にも人の生活や社会にも生じ、人も植物と照応しているからこそ、薬草として人の疾病にも効を奏する。このような世界観が箱庭園芸で作られた作品群の意義とも通底しているように思われる。さらに、イエイツの記憶術という一種奇妙な思考方法も有効であろう。これは変わり行くメモリースケープ(記憶風景)のことであり、様々な概念がその光景や劇的な場面で時間ともに映り行くことをいかに記憶するか、思考するかという方法である。アイデアがスケープ(風景・光景)に変換されて行く。ここが箱庭園芸的と言えるだろう。

石峰寺五百羅漢像

伊藤若冲は江戸時代中期の画家である。若冲は1716年京都高倉錦小路の青物問屋「桝源」の主人三代目伊藤源左衛門の長男として生まれ、光琳派より宋・元の古画を学び、写生を基礎として専ら花鳥図を描き、動植綵絵30幅を相国寺に寄進し、晩年隠棲者として石峯寺の古庵に住み、1800年に没した。この若冲が晩年、石峯寺裏山の竹林に五百羅漢を心血を注いで製作した。釈尊一代記の諸場面を再現しようとしたが、これが壮大なガーデンシアターつまり箱庭園芸的試みではないか、と考えられる。一般に若冲の画業については日本美術史では近年よく研究されているが、この石峰寺五百羅漢像については若冲にとって一世一代の芸術な営為であるにもかかわらず、その意義はせいぜい「無垢な童心」の現われ(辻惟雄氏)という評価でしかなく、一般にはその一見素朴な表現が誤解を招き、動植綵絵30幅の壮麗さと美的完成度の高さとの落差にはどの論者も当惑するばかりのようである。しかしながら、若冲が最終的にめざしたものは、生きた世界を創造するサイコドラマであり、朴訥な石仏を自然林の中に埋もれるように配した世界劇場であると考えられる。彼もまた、さまざまな生命とともに生きながら、存在の大いなる連鎖を現実に描き、表現しようとした我が邦の稀有な作家であるといえないだろうか。




結果および考察

個人が製作する箱庭園芸の世界は多様である。作家であれ、だれであれ作品の優劣はないと言っていいだろう。置物、人形、植物、生きものに対する嗜好、思いもさまざまでしかも深いいわれがある。その人が置かれている環境にとどまらず、内的世界が箱庭に反映される。また、用いる植物への感性はそのままその人の自然へのかかわり方やとまどい、憧れ、ときには反省が促されていることもある。さらに、それらによって紡がれる物語はその人が見る夢が顕在化したものとも考えられ、どれも興味深い。生きものを育て、ともに生きることを想定したこのような箱庭が次第に実際の園芸的実践に裏付けされてゆくと、それを踏まえた独自の環境への感受性や生きものと環境がどうあるべきかというビジョンや信念が生まれるようになる。ここでは一般に言われる漠然とした環境保護や自然破壊の議論が色褪せて見える。なぜなら、ここで語られる自然観は真なるリアリティが伴った現実の環境世界と連続し、独自の判断が伴うから。このような展開にこそ園芸のまったく新しい可能性を見ることができ、園芸がかくも個人の術であることがわかるであろう。しかしながら個々の物語を発表する際には、聴衆は誰一人として聞き飽きることはなく、身を乗り出して語り手の世界へと誘われる。どんなにかこのような個人の世界を多数の人々が必要としているのだろうか。共同作業と話し合うことで互いに思いやる心が共有され、個々が束ねられて連帯が生まれ、次第に調和する。鑑賞することはあっても批判することはない。物語の主人公は人物であったり、動物、人形、さらには不在の場合もある。おもしろいのは語り手が箱庭の入り口を通ると縮小され、その主人公になる、という設定の多さである。ここでは茶の湯に見られるにじり口が連想される。変身が人形に限らず、さまざまな像への変身譚があった。園芸の作業や造形を他/客体として押しやらず、このように内的な世界に連続することで、まったく新しい世界観や自然への感性を自覚化できる。また、この試みは先述した記憶術のようにアイデアがスケープ(風景・光景)に変換されて行く、すなわち個人がみずからの心に湧き起こる内容を形として起し、表すことで現実に起こることを感じ(たとえば気分がすっきりしたという感想多数)、さらに次に起きてくるかもしれない可能性を見出すきっかけとなる美術的な表現・創作の行為である。園芸には「芸」という芸術的な意味合いがあるが、このような作品にこそその芸術性を評価しうるのではないだろうか。

園芸療法と福祉への応用

高齢者を対象にした場合を含めて示したが、まだ、1例にすぎないが、重度の障害者に同様にやってもらったところ、創造的な作品が生まれ、寮母やわれわれ実験者との交流も豊かなものであった。具体的な疾病に適用した事例はないが、何らかの効果が期待できるだろう。このように箱庭園芸を通じて生きた世界を創造することで、だれもが自己実現を模索できることが示唆され、さらには、これまで実現しにくかった障害者と健常者の交流も可能になるのではないかと考えられる。

参考文献

箱庭療法の実際 東山絋久 誠信書房 1994
心理療法序説 河合隼雄 岩波書店 1992 
世界劇場 F.イエイツ 晶文社 1978
記憶術 F.イエイツ 水声社 1993
存在の大いなる連鎖 アーサ O.ラヴジョイ 晶文社 1975 
黒に染める 高山宏 ありな書房 1997
心理学と錬金術 1,2 C.G.ユング 人文書院 1988
個人化と曼荼羅 C.G.ユング みすず書房 1988
心の病理を考える 木村敏 岩波新書  1994
伊藤若冲 狩野博幸 紫紅社 1994
若冲 辻惟雄 美術出版社 1974
Gardens and Picturesque Hunt J.D. MIT Press 1992
The Garden of Eden Prest.John Yale U.Press 1988
The Meaning of Garden Francis.Mark et al MIT Press 1990
The Poetics of Gardens Charles W.Moore et al MIT Press 1997 


















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