銅金裕司の作品、活動、プロジェクト、考えていることについて(Garden of Cyrus、サイラスの庭、アート、芸術、庭、ガーデン、植物、花、虫、鳥、緑、グリーン、バイオ、バイオアート、bio art、バイオロジー、環境、環境問題、二酸化炭素、co2、オフセット、生態、生態系、エコ、エコロジー、環境芸術、ecology,植物の音楽、植物の声、植物の音、花の声、花の音楽、花の音、音楽、声、リズム、plant、music、voice、植物生体電位,植物とのコミュニケーション,世界、世界の声、ルグィン、世界劇場、存在の大いなる連鎖、イエーツ、ワールブルグ、マニエリスム、魔術、伊藤若冲、石峰寺、動植綵絵、海洋学、海洋、機械、ネットワーク、コンピューター、植物、花、トロン、マック、マッキントッシュ、SE、SE30、脳波、ロボット、ロボットとは何か、電位、FFT、スペクトル、midi、プラントロン、plantron、心、感情、精神、知恵、マインド、認知心理、アフォーダンス、カオス、複雑系、非線形、振動、振動子、内部観測、オートポイエーシス、植物の心、植物の精神、植物の知恵、記憶、徴候、庭、ガーデン、シアター、園芸、園芸文化、花文化、花、箱庭、ラン、orchid、ランの進化、ランの戦略、リゾーム、プルースト、バタイユ、文学、マラルメ、リラダン、ポー、ボルヘス、ナボコフ、アーダ、ユリイカ、メルヴィル、稲垣足穂、中井英夫、椿実、澁澤龍彦、yuji dogane(銅金裕司/メディアアーティスト))




地球上の固有な環境やその変容はそれに見合った生命世界や生物を生みだす。たとえば湿地帯への適応におけるタヌキモやウツボカズラなどの食虫植物、ゴンドワナ由来のカモノハシあるいは有袋類、魚の陸進における魚サイドから展開したネオセラトゥダスなどの肺魚から両生類へと連動するマッドパピーやサイレン、あるいはまた、ついには陸上生活に見切りをつけ充足生活の天国的展開とも思える鯨たちの海進と海洋世界での鯨類心理における休息問題と夢想空間。重力と大気という現実的アフォーダンスに「着生」という奇襲戦略をもってアンビエントで希薄な炭酸ガス気相空間を疑似海洋に見立て、太古はそうであったに違いない海草のような体質と体型を再現し、さらに樹上に陸上化してようやく機能回復に成功したランの仲間など。さらには、ちょっと変わったところでは人の審美観の発生(どうして花を愛するか?)とか世界の欲望を人間が代わって実現するという歴史をここにトピックとして加えてもいいかもしれない。生命は有限だが、やがて悠久の時間を刻みつつ時間を展開して、唯一無二の形式を環境世界に皺や襞のように折り畳んでゆく。このような皺や襞がつまった環境世界を生命曼荼羅と呼ぶことにしよう。つまり、生命曼荼羅という環境世界の皺か襞をつまんで裏返す過程で固有な生命世界と生物を析出することになるだろうし、いっぽうで固有な生命を裏返すことが生命曼荼羅界に分離作用を及ぼすことで、ある種のクライシスを引き起こし、たとえば土に還ることや魂が抜け出すことになって、やがて、生命曼荼羅はユングの云うような無意識の力動性やシンクロニシティをともないつつ、そのベクトル場に生物の自律性や固有性を浮かべることになりやしないか。これらの生命曼荼羅の皺と襞が生命の次元に流れ込み無機物を越えた有形・無形な析出過程や時間展開がオートポイエーシスというシステム的思考でつながり合うだろうとは最近予測されているところだ。一方、この現実に即して地球上でのさまざまな在り方がその次元のアフォーダンスという物理的支柱で定義付けされるが、というわけで、プラントロンが植物を介在させたこれらの生命の多次元多様体と生命曼荼羅にさまざまに互いに横断するインターフェイスであることについてを私は考えてみたいのである。いっぱんに「環境」と漠然と呼ばれるこの現実世界とそれへの想起の曖昧さのために、ベイトソンや熊楠らの精神(マインド)から生まれる生命曼荼羅という環境への連鎖や生命世界への没入的内部観測的切り口については、結局、今後、新しい価値観や定義を見出してゆくしかない。そう、ただ、生きることを「考察する」ことは難しいということだ。だから考えないほうがいい?そうもいかないのが人間の美徳であると私は思う。生命のシステムは自律性を備えて、生命が自己組織化する能力によって生命曼荼羅界のそれぞれの系で固有性が維持され、次元を越えた表象化作用が保証されるだろう。だから、生物は物質に還元されそうに思えるし一見「生命」というような特性を帯びるかのような印象を受ける。オートポイエーシスではこれらの系は自己の境界を産出のネットワークの中から自らで決定しつつ流動的でその境界はここの空間にもともとあったような形では表象されない。接続する生命曼荼羅界の内部に降り立ち、生命システムが生命の場との境界をどのようにして自分自身で画定し創出するのか。生命の場であるこの現実の世界との関係をどうやって自分自身でつくりだせるのか。世界がアフォード(提供)する存在の在り方をシステム自身との関係で明らかにしてゆく固有性の議論がオートポイエーシスならばプラントロンは生命の場に異なる次元の穴を内部である生命曼荼羅界から直接、唐突に穿つだろう。生命曼荼羅という世界の欲望、それが「あなた」である他者の欲望となり、別の他者に働く。人は世界あるいはだれかに代わってその欲求を実現するのである。ときには精神・マインドやバーチャル世界においても力動性を与えるかもしれない。だから現実的アフォーダンスの有り様もそこでは無効になるということか。これはすごく現代的な意味での自然と生命への不意打ちになり得る。ただ、こういう仮想な手練手管もその生物の現実的な思わぬ能力を引き出すこともあると私は考える。一方、私たちのここで共有したり共感したりすることが、たとえばプラントロンを経由しつつ生命曼荼羅に影響を与え、自然の内部に入り込んでその一部となり、生命世界の個別性が空間的外部に仮に表象され、その個体の延長上の位相空間に生命曼荼羅が存在する可能性。心がやがて現実世界を生み出すことになる。今回の展示ではアルミ板を十時においた。これは(植物の重要なアフォーダンスである方位)東西南北を示す。十字架ではない。そこで誰かと私がガーデンニングを試みたというわけだ。アルミ板の伝導性でプラントロンの電気的効果は全面で共有することになるであろう。すべての植物が繋がっている。一方、誰かの行為の結果のように見えるが、これを「私」の作品でないと言えるであろうか?ならば、いったいこれは誰の表現であるのか?みなさんにお聞きしたいところである。プラントロンは私たちの自然への参加性をもってその延長上に現実の生命の場とそれへ互いに連動する生命曼荼羅界を通底して、今度こそ人の自然への新しい感性や判断も生みだすことになりやしないかと日々考えている。


















*****
×

この広告は60日間更新がないwikiに表示されております。

メニューバーA

ご連絡は

dougane@gmail.com
銅金裕司


全部:
昨日:
今日:

・・・

管理人/副管理人のみ編集できます