あるとき「温泉」と「旅」を主題とし、サツキなどの植物や小さな岩石などを実際の温泉場ように配置しつつ、粘土で作られた富士山からは蚊取り線香の煙がゆったりと棚引き、はるばる見渡せば夕暮れ迫る清水港が一望できるそんな状況に帰路を急ぐ次郎長人形を置いてみる、という言わば「次郎長ワールド」とも言うべき箱庭を苦心して作った方がおられた。・・・・・・・・そのことが起こったのは私がその方の記録をまとめ、ビデオを編集していたときである。箱庭園芸のワークショップでは作ってからしばらく何日かおいて一人一人その箱庭にまつわるお話を語っていただくのであるが、ビデオにはその様子が記録されたていた。その方は「次郎長ワールド」を前にして「物語とかお話をするのは、すごく苦手なんですけど・・・」とはじめに断られた。それでどうなさるのだろうかと、そのとき私も心配したのだが、それもつかの間、つぎの瞬間、間髪を入れず大きなよく通る声で「しみいいず港の名物はあ〜」と歌唱されたことには本当にびっくりしたものである。そのとき見ていた観衆は一同に「おお!」と歓声をあげたが、お話の代わりに歌を唄われるとは不意をつかれた感じがしたのだ。しかし、ここでの問題はそのようなビデオの内容ではない。私はその見事な歌いっぷりのビデオがとても好きで印象的だから編集中もついTVをうっとり見とれていたのだが、そこで、なぜかふと思い付いてTVのチャンネルをビデオから他局へ変えて見たのだが、回した先の神戸のサンTVというローカル局でそのとき放映されていた内容に驚愕した。お昼の名画劇場の枠だったが、昔の東映映画の「次郎長意外伝」なるモノクロの古色蒼然としたコメディがその日に限って放映されていたのである。まず放送される作品ではないだろうと思う。昨今こんな作品を見るような人は滅多にいないことを考えると私はその偶然に心底びっくりした。そのときは驚いただけであったが、どうも箱庭園芸をやっているとこういう状況に頻繁に出会うので、ついにはこのような偶然の一致、大げさだが考えもしない現実が生起するこの世界の連鎖こそが箱庭園芸すなわちガーデンシアターの真骨頂、効果として望むべき最良のものと考えるようになった。語り手の箱庭と物語への精神的パワーが時空を越えてその時の私の現実に共振し、創出されたように感じられ、世界がかくも不思議に満ちていることが体験できたのではあるまいか。
ガーデンシアターを語る上で重要なことは箱庭療法におけるヘルスケアでも、癒しでも、ましてや芸術・アートでもなく、そんなことはどうでもよくて、この事実と未来への生成への気運となるものこそが真に重要であろう、と考えている。ガーデンシアターにかかわる作業には大なり小なりこのようなユングの言うところのシンクロニシティのような現実が生起する傾向があるのかもしれない。まさに、単に偶然の一致にすぎない、と言われそうだが、それがどうも意味がありそうな予感がする。いったいこの感触と気分はどう説明すればいいのだろうか。