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岩成主税助友通の出自に付いては、備後國深津郡岩成郷*6*7と云う地名が在る事から、備後國に本貫地を持つ土豪との関係を推察されるが、詳細が不明とされている。
他に、室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和国石上神社の摂社に『石成神社(山辺郡石成郷)』が在る事から、大和國出身だと云う見解がある*8。
『史略名称訓義』には『岩成古(原文ママ)通』に註して『主税助と号し、種成と名く、備後國岩成荘住人岩成蔵人正辰の男』と記されている。
また、京都郊外の西九條の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされていて*9、『東寺百合文書』所収の三好元長の家臣の塩田胤光が発給した(享禄年間の物だと推定される)文書に『岩成』と云う苗字が見える他に、同文書のうち永正13年(1516年)付の書状には、下司の『岩成』が西九條の荘園を押領したとする記述がある*10。今谷明は『阿波國出身で無い事が確実』と断言しており*11、いずれにしても、松永弾正久秀と同様に畿内地方で登用された者と思われる*12。
歴史資料における初見に付いては、天文19年(1550年)であり*13、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めている事が確認されている*14。
天文20年(西暦1551年)11月に、攝津國大鳥郡堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。其の後に付いては、三好長慶の下で奉行衆として仕えている。同年に、寺町通以や米村治清や北瓦長盛と共に、三島江・柱本の堤に関して連署状を発給している*15。
天文22年(西暦1553年)9月に、岩成主税助友通に付いては、松永弾正久秀・松永甚介長頼らが波多野秀親が籠る丹波國桑田郡数掛山城を囲んだ時に、参陣している。しかし、香西元成や三好宗渭の背後からの奇襲に由り惨敗して、一時は、池田長正や松山重治と共に討死したとの噂が流れた*16。
永禄元年(西暦1558年)に、愛宕郡北白川の戦いで、将軍山城の占領に軍勢を率いて参陣しており、この従軍が軍事行動における岩成主税助友通の初見とされている*17。6月には将軍地蔵山に陣取った、此の戦いで、9月には細川晴元から三好長慶に寝返った三好宗渭と共に軍事行動を行なった*18。
永禄2年(西暦1559年)6月に、松山重治と共に2万の兵を率いて、大和の筒井順慶を攻めている。其の後、松永弾正久秀の率いる軍勢が到着すると、共に侵攻を行なった*19。
永禄5年(西暦1562年)に、泉南郡久米田の戦いに乗じて六角義賢が京都に侵入した時には、石清水八幡宮に避難した室町幕府第13代将軍・足利義輝の警護を行なった*20。
永禄7年(西暦1564年)に、三好長慶が死去すると、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸と三好宗渭)として、甥の三好義繼の後見役を務めている*21。
永禄8年(西暦1565年)5月19日に、永禄の変で、足利義輝を暗殺をしたのを始めとして、他の三人衆と行動を共にして、松永弾正久秀や畠山高政としばしば戦っている。
永禄8年(西暦1565年)11月15日に、岩成友通に付いては、三好長逸や三好宗渭と共に、三好康長と打ち合わせた上で軍勢を率いて、三好義継の居城の河内國讃良郡飯盛城に入城した。奉行衆の長松軒淳世を切り捨てて、三好氏政権から松永久秀を追放するように迫っている。三好義継を傀儡にして、松永弾正久秀を失脚させる事に成功して、三好氏政権を三好三人衆が主導する体制を成立させている*22。
永禄9年(西暦1566年)7月17日に、三好三人衆に付いては、松永方の今村氏の拠点の一つで、土豪の中沢満房や革嶋一宣や、援軍の竹内季治や、幕府奉公衆の一色孝秀らが立て籠もった山城國乙訓郡勝龍寺城を攻め落としている*23*24。
永禄10年(西暦1567年)に、岩成主税助友通が乙訓郡勝龍寺城に城主として入城して、山城西部の西岡を支配した。敵対した土豪達を厳しく追及して、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出して、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えている。此れは、乙訓郡勝龍寺城を拠点にして西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される*25。また、乙訓郡勝龍寺城も、合戦の時には、土豪が立て籠もる施設程度であった城が、岩成主税助友通が整備して拠点とする事に由り、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった*26。岩成主税助友通はそうした点から、乙訓郡勝竜寺城の『最初の城主』とも評されている*27。
永禄10年(西暦1567年)5月に、三好三人衆と池田勝正に付いては、大和國に侵攻して、奈良付近に布陣している。そして、岩成主税助友通と池田勝正に付いては、添上郡多聞山城の松永弾正久秀と戦っている。
永禄10年(西暦1567年)8月に、松永弾正久秀の調略に由り、松浦氏や松山氏が裏切り、讃良郡飯盛城が占領されている。松永軍に対して岩成主税助友通が大和國から軍勢2000を率いて河内國に向かい、対処している。其の後に、三好三人衆に付いては、10000の軍勢を率いて、大和國東大寺で松永弾正久秀と対陣したが、松永弾正久秀の奇襲を受けて敗北している(東大寺大仏殿の戦い)*28。
永禄11年(西暦1568年)に、織田弾正忠信長が上洛してくると、三好長逸や三好宗渭や篠原長房らと連携して、いままで敵対していた六角義賢と手を組んで*29強く抵抗したが、岩成主税助友通の拠点の乙訓郡勝龍寺城を攻撃されたので退去している(乙訓郡勝龍寺城の戦い)。
しかし、この時に、他の畿内地方の城が抵抗らしい抵抗も無い状態で降伏して行く中でも、岩成主税助友通の籠る乙訓郡勝龍寺城や、池田勝正が籠る攝津國豊島郡池田城だけは強硬に抵抗している。此れは、岩成主税助友通による支配が一定の奏功をして、土豪達が彼の下に結束していた証とされている*30。
岩成主税助友通の敗退の推移に付いて、『多聞院日記』や『言継卿記』に拠れば、永禄11年(西暦1568年)9月27日に、織田信長に抵抗して、乙訓郡勝龍寺城で籠城したとある*31が、9月29日には落城している*32。言継卿記の永禄12年(西暦1569年)の1月8日の記述に拠れば、乙訓郡勝龍寺城には細川藤孝が入城している*33。岩成主税助友通が乙訓郡勝龍寺城主であった時期には、光源院から乙訓郡勝龍寺城主である岩成主税助友通に礼物が送られていた事が『光源院文書』から判明しているが、9月21日とあるだけで年月が未詳となっている*34。
永禄12年(西暦1569年)1月に、織田信長の庇護下にあった足利義輝の弟の足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退されている(本圀寺の変)*35。
天文20年(西暦1551年)11月に、攝津國大鳥郡堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。其の後に付いては、三好長慶の下で奉行衆として仕えている。同年に、寺町通以や米村治清や北瓦長盛と共に、三島江・柱本の堤に関して連署状を発給している*15。
天文22年(西暦1553年)9月に、岩成主税助友通に付いては、松永弾正久秀・松永甚介長頼らが波多野秀親が籠る丹波國桑田郡数掛山城を囲んだ時に、参陣している。しかし、香西元成や三好宗渭の背後からの奇襲に由り惨敗して、一時は、池田長正や松山重治と共に討死したとの噂が流れた*16。
永禄元年(西暦1558年)に、愛宕郡北白川の戦いで、将軍山城の占領に軍勢を率いて参陣しており、この従軍が軍事行動における岩成主税助友通の初見とされている*17。6月には将軍地蔵山に陣取った、此の戦いで、9月には細川晴元から三好長慶に寝返った三好宗渭と共に軍事行動を行なった*18。
永禄2年(西暦1559年)6月に、松山重治と共に2万の兵を率いて、大和の筒井順慶を攻めている。其の後、松永弾正久秀の率いる軍勢が到着すると、共に侵攻を行なった*19。
永禄5年(西暦1562年)に、泉南郡久米田の戦いに乗じて六角義賢が京都に侵入した時には、石清水八幡宮に避難した室町幕府第13代将軍・足利義輝の警護を行なった*20。
永禄7年(西暦1564年)に、三好長慶が死去すると、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸と三好宗渭)として、甥の三好義繼の後見役を務めている*21。
永禄8年(西暦1565年)5月19日に、永禄の変で、足利義輝を暗殺をしたのを始めとして、他の三人衆と行動を共にして、松永弾正久秀や畠山高政としばしば戦っている。
永禄8年(西暦1565年)11月15日に、岩成友通に付いては、三好長逸や三好宗渭と共に、三好康長と打ち合わせた上で軍勢を率いて、三好義継の居城の河内國讃良郡飯盛城に入城した。奉行衆の長松軒淳世を切り捨てて、三好氏政権から松永久秀を追放するように迫っている。三好義継を傀儡にして、松永弾正久秀を失脚させる事に成功して、三好氏政権を三好三人衆が主導する体制を成立させている*22。
永禄9年(西暦1566年)7月17日に、三好三人衆に付いては、松永方の今村氏の拠点の一つで、土豪の中沢満房や革嶋一宣や、援軍の竹内季治や、幕府奉公衆の一色孝秀らが立て籠もった山城國乙訓郡勝龍寺城を攻め落としている*23*24。
永禄10年(西暦1567年)に、岩成主税助友通が乙訓郡勝龍寺城に城主として入城して、山城西部の西岡を支配した。敵対した土豪達を厳しく追及して、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出して、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えている。此れは、乙訓郡勝龍寺城を拠点にして西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される*25。また、乙訓郡勝龍寺城も、合戦の時には、土豪が立て籠もる施設程度であった城が、岩成主税助友通が整備して拠点とする事に由り、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった*26。岩成主税助友通はそうした点から、乙訓郡勝竜寺城の『最初の城主』とも評されている*27。
永禄10年(西暦1567年)5月に、三好三人衆と池田勝正に付いては、大和國に侵攻して、奈良付近に布陣している。そして、岩成主税助友通と池田勝正に付いては、添上郡多聞山城の松永弾正久秀と戦っている。
永禄10年(西暦1567年)8月に、松永弾正久秀の調略に由り、松浦氏や松山氏が裏切り、讃良郡飯盛城が占領されている。松永軍に対して岩成主税助友通が大和國から軍勢2000を率いて河内國に向かい、対処している。其の後に、三好三人衆に付いては、10000の軍勢を率いて、大和國東大寺で松永弾正久秀と対陣したが、松永弾正久秀の奇襲を受けて敗北している(東大寺大仏殿の戦い)*28。
永禄11年(西暦1568年)に、織田弾正忠信長が上洛してくると、三好長逸や三好宗渭や篠原長房らと連携して、いままで敵対していた六角義賢と手を組んで*29強く抵抗したが、岩成主税助友通の拠点の乙訓郡勝龍寺城を攻撃されたので退去している(乙訓郡勝龍寺城の戦い)。
しかし、この時に、他の畿内地方の城が抵抗らしい抵抗も無い状態で降伏して行く中でも、岩成主税助友通の籠る乙訓郡勝龍寺城や、池田勝正が籠る攝津國豊島郡池田城だけは強硬に抵抗している。此れは、岩成主税助友通による支配が一定の奏功をして、土豪達が彼の下に結束していた証とされている*30。
岩成主税助友通の敗退の推移に付いて、『多聞院日記』や『言継卿記』に拠れば、永禄11年(西暦1568年)9月27日に、織田信長に抵抗して、乙訓郡勝龍寺城で籠城したとある*31が、9月29日には落城している*32。言継卿記の永禄12年(西暦1569年)の1月8日の記述に拠れば、乙訓郡勝龍寺城には細川藤孝が入城している*33。岩成主税助友通が乙訓郡勝龍寺城主であった時期には、光源院から乙訓郡勝龍寺城主である岩成主税助友通に礼物が送られていた事が『光源院文書』から判明しているが、9月21日とあるだけで年月が未詳となっている*34。
永禄12年(西暦1569年)1月に、織田信長の庇護下にあった足利義輝の弟の足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退されている(本圀寺の変)*35。
元亀3年(西暦1572年)に、岩成主税助友通に付いては、三好家から寝返って織田信長に臣従して、山城国の6か所の所領を与えらえれて、山城郡代に任じられている*36。織田信長から細川藤孝宛ての書状で『表裏なき仁』などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・足利義昭が各地の大名に指令を送り織田信長に敵対すると(信長包囲網)、此れに呼応して再び織田信長への敵対姿勢を打ち出している。
天正元年(西暦1573年)に、織田信長の命を受けた三淵藤英や細川藤孝や羽柴秀吉らの軍勢に山城國紀伊郡淀古城を攻められて奮戦したが、羽柴秀吉の調略により、援軍として派遣されていた三好義継の直臣の番頭大炊頭義元(坂東季秀)と三好長逸の家臣諏訪飛騨守三將(諏訪行成)が裏切りに由って敵中に孤立して*37、細川藤孝の家臣の下津権内(オリツ・ゴンナイ)*38と組み合いと成り、堀に落下して、水中で討ち取られている*39。
享年に付いては、『細川家記』に43歳だと記載されている。また、岩成主税助友通と併せて、軍勢340名が討死した*40。
三好長逸は行方不明となっており、三好宗渭は既に死去している*41。岩成主税助友通が討死した事に由り、三好三人衆は完全に崩壊している*42。
天正元年(西暦1573年)に、織田信長の命を受けた三淵藤英や細川藤孝や羽柴秀吉らの軍勢に山城國紀伊郡淀古城を攻められて奮戦したが、羽柴秀吉の調略により、援軍として派遣されていた三好義継の直臣の番頭大炊頭義元(坂東季秀)と三好長逸の家臣諏訪飛騨守三將(諏訪行成)が裏切りに由って敵中に孤立して*37、細川藤孝の家臣の下津権内(オリツ・ゴンナイ)*38と組み合いと成り、堀に落下して、水中で討ち取られている*39。
享年に付いては、『細川家記』に43歳だと記載されている。また、岩成主税助友通と併せて、軍勢340名が討死した*40。
三好長逸は行方不明となっており、三好宗渭は既に死去している*41。岩成主税助友通が討死した事に由り、三好三人衆は完全に崩壊している*42。
慶応3年(西暦1867年)に、落合芳幾によって描かれた揃物の浮世絵の『太平記英雄伝』に岩成主税助友通の姿がある*43。『太平記英雄伝』に付いては、戦国時代に活躍した武将達を題材にした作品で、そこに付けられた岩成友通の紹介文には、三好政康や松永久秀と共に、将軍・足利義輝を殺害し、織田信長に降伏した後で、再度蜂起して細川藤孝の家臣に討たれたなどの事が書かれている*44。しかし、居城が『青龍寺城』になっていたり、討ち取った武者が『津川権平』という名前になっていたりと誤謬が多く、名前も『岩成主税助左道(すけみち)』と表記されている*45。
しかしながら、三好三人衆を題材とした絵画は非常に貴重である*46。この浮世絵における岩成主税助友通に付いては、荒々しい髭を蓄えて、敵を組み伏せている武者として描かれており、此れは作者の想像に過ぎないものの、江戸時代末期における岩成主税助友通に対する世間のイメージが反映されていると評されている*47。
しかしながら、三好三人衆を題材とした絵画は非常に貴重である*46。この浮世絵における岩成主税助友通に付いては、荒々しい髭を蓄えて、敵を組み伏せている武者として描かれており、此れは作者の想像に過ぎないものの、江戸時代末期における岩成主税助友通に対する世間のイメージが反映されていると評されている*47。
ルイス・フロイスの『日本史』において、岩成友通に付いては、三好釣閑斎宗渭と共に『神の掟の敵』と呼ばれている*48。『教会の友人』とフロイスから呼ばれ、キリスト教に対して理解を示した三好長逸とは異なり、岩成友通に付いては、あまりキリスト教に寛容では無かった。
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』山川出版社、2004年。ISBN 978-4-634-54260-0。
今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年。
谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社、2007年。
福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。
天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年。
『三好長慶』今谷明・天野忠幸監修、宮帯出版社、2013年。ISBN 978-4-86366-902-4。
若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』戒光祥出版〈中世武士選書シリーズ17〉、2013年。ISBN 978-4-86403-086-1。
天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5。
今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年。
谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社、2007年。
福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。
天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年。
『三好長慶』今谷明・天野忠幸監修、宮帯出版社、2013年。ISBN 978-4-86366-902-4。
若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』戒光祥出版〈中世武士選書シリーズ17〉、2013年。ISBN 978-4-86403-086-1。
天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5。
戦国・小和田チャンネル - 三好三人衆の名前←ユーチューブの投稿動画では、歴史資料の多くには、岩成(イワナリ)だと記載されているので、三好三人衆に付いて書く時には、岩成(イワナリ)だと記載している事を発言している。
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古樹紀之房間 - 三好一族関連・三好三人衆についての雑考←備後国深津郡岩成郷に付いては、備後国品治郡に石成郷だと間違えられて記載されている。
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