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合勢川合戦

『合勢川合戦(アワセガワカッセン)』とは、
『永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月』に、
『赤星道雲親家殿』が『相続した木野氏遺領』に付いて、
『隈部刑部允親永殿』が『欲しがった事』に由り、
『肥後國菊池郡』の、
『道場原や木山原や大林原(いずれも隈本縣山鹿市菊鹿町大字松尾)』で、
『勃発した合戦』。


概要

『菊池氏の滅亡後』に、
『其の支配領地で有った肥後國北部』は、
『庶流木野氏』や『庶流赤星氏』と、『重臣隈部氏』らが、
『大友氏の承認の元に支配する形』で一應安定していた。

庶流赤星氏と重臣隈部氏の敵対関係

『弘治二年(延元221年・西暦1556年)』に、
『大友宗麟義鎮殿による小原氏討伐戦』で、
『木野弥次郎親政殿が討死』した事に由り、『木野氏が断絶』した。
『木野氏遺領』を『同族の赤星道雲親家殿が相続した後』で、
『木野氏遺領の一部』を『隈部刑部允親永殿が欲しがった事が原因』で、
『赤星氏と隈部氏が敵対』する。

合戦布陣

『永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月』に、
『隈部刑部允親永殿』は『軍勢600』を率いて、『木野氏遺領に侵軍』して、
『木山原』から『初田川を挟んで三町ほど離れた池田灰塚』に、陣を構えている。
『迎え撃つ赤星道雲親家殿』は、『自ら軍勢700人』を率いて『大林原に本陣を置いた』。
『家臣の山鹿郡長坂城城主・星子中務丞殿』の『軍勢400』を『木山原』に布陣させて、
『一族の赤星蔵人殿』の『軍勢400』を『道場原に布陣させた』。
『永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月二十壱日』に、
『肥後國菊池郡道場原(隈本縣山鹿市菊鹿町大字松尾道場)』で、
『隈部軍』から『鉄砲50・弓100』による『攻撃が行成われて合戦が始まった』。

『赤星軍本隊から離れて隈部軍の側面に布陣していた赤星蔵人殿』は、
『一気に勝敗を決するべく斬り込もうとして高所に駆け上った所』で、
『隈部軍の銃弾を受けて討死』した。

此の時に、『赤星蔵人殿』が、
『よけ(苗代田の水口に置く、わらで作った枕の形をした物)』を枕に討死した事から、
『其の場所』を『後世の人』が『横枕』の地名で呼ぶように成ったという。

此の日の『菊池郡道場原合戦』では、
『赤星蔵人殿が討死』した事に由り、『隈部軍が勝利』した。

『赤星蔵人殿が率いていた軍勢200』は、『大林原に退却』した。
『赤星道雲親家殿』と『星子中務丞殿』は『自軍が数で勝る』ので、
『大林原』と『木山原』で『対陣を続けている』。
『永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月三十零日』に、
『隈部軍』は、『雨の中で夜襲を敢行』して、
『肥後國菊池郡木山原(隈本縣山鹿市菊鹿町大字松尾木山)』で、
『星子中務丞殿』の『軍勢200を討ち取った』。

『星子中務丞殿』は、『軍勢200』を率いて『山鹿郡長坂城に退却』した。

『永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月三十零日』に、
『隈部軍』は、
『木山原』で『星子中務丞殿』を『山鹿郡長坂城に敗走させた後』で、
『赤星道雲親家殿の本陣』を『夜襲した』。

『肥後國菊池郡大林原(隈本縣山鹿市菊鹿町大字松尾大林)』で、
『赤星軍900騎』は『夜襲された』ので、
『600騎が討死』して、『300騎で隈府城に敗走』した。

参考文献

  • 隈本縣菊池市史・上巻(菊池市史編纂委員会、1982年3月)
  • 隈本縣鹿本郡菊鹿町史・本編(菊鹿町史編集委員会、1996年3月)
  • 松本寿三郎他『熊本県の歴史』(山川出版社、1999年) ISBN 4-634-32430-X

外部リンク

関係事項

合勢川合戦←永禄二年(延元224年・西暦1559年)五月に勃発した肥後菊池氏の庶流赤星氏と重臣隈部氏の合戦。

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