最終更新:
i_am_a_robot 2022年11月10日(木) 22:20:42履歴
絶対言語において想定されうる概念。
どのような形であれ自己の存在は絶対である。どのような文化、文脈によっても捻じ曲げることはできない。
なぜか、言語魔術師たちがこの概念を思い付いたという記録はない。単に残っていないだけなのか、当たり前だったのか、あるいは。
表音方法に規定はない、表記も不定。言葉であるはずが、定義以外が不明なため、概念とされる。
もしも発音あるいは表記できたのであれば、紀に触れる権利が与えられる。
どのような形であれ自己の存在は絶対である。どのような文化、文脈によっても捻じ曲げることはできない。
なぜか、言語魔術師たちがこの概念を思い付いたという記録はない。単に残っていないだけなのか、当たり前だったのか、あるいは。
表音方法に規定はない、表記も不定。言葉であるはずが、定義以外が不明なため、概念とされる。
もしも発音あるいは表記できたのであれば、紀に触れる権利が与えられる。
失神していない限り、意識はあるのは自明の理。真に意識が自身の存在を肯定できなければ、自分という枠組みは溶け、世界と自己が混在するであろう。
外界の認識ができるならば、それは自他境界があることであり、自身が存在することをたとえ無意識下であれ容認することである。
つまり、【存在】はどのような意識状態でもあり、認知されているのだ。
外界の認識ができるならば、それは自他境界があることであり、自身が存在することをたとえ無意識下であれ容認することである。
つまり、【存在】はどのような意識状態でもあり、認知されているのだ。
絶対言語は単一の解釈しか許さない言語ではあるが、誰でも喋れるものとはしていない。そもそもの絶対言語の定義が間違っているようだ。
絶対言語は単に文化・文脈から自由になった文法をもつものであり、そういった人工言語はありふれている(たしかにそういった絶対言語は物理法則、数学法則などの非固定の論理を前提としているため、法則が変化したならば、解釈の多様性が生じるが、それはメタ法則たる紀への不理解から生じる問題であり、ほとんど解決不可能であるため保留とする)。
それが認められないのは、そういった絶対言語は習得が必要とされ、大衆の思う絶対言語、絶対的な意思の伝搬を行うものではないからだ。
絶対言語は単に文化・文脈から自由になった文法をもつものであり、そういった人工言語はありふれている(たしかにそういった絶対言語は物理法則、数学法則などの非固定の論理を前提としているため、法則が変化したならば、解釈の多様性が生じるが、それはメタ法則たる紀への不理解から生じる問題であり、ほとんど解決不可能であるため保留とする)。
それが認められないのは、そういった絶対言語は習得が必要とされ、大衆の思う絶対言語、絶対的な意思の伝搬を行うものではないからだ。
絶対言語は単に単一の解釈しかできないものではなく、それに加えて話者でない人にも、あらゆるものがそれが指す意味を理解させるものである。
これは世界の根本法則に基づくからこそ可能なことである。多分、絶対言語の体系内で使われる概念はあまり重要ではないだろう。
絶対言語の体系が他者に絶対的な対話を用意する。そこでの内容はあまり気に留めなくても良い。
だから、キミは二つの間違いを冒した。
一つ、前述の通り、自身の存在を演繹させるのは絶対言語の体系、構造であり、かりにできないとしても、存在が演繹できない問題は【存在】が絶対言語内の概念でないことを示唆しない。
二つ、そもそも【存在】などという概念は絶対言語に至るのに必要ない。それはレースで一等賞になったときの賞品であって、レースで一等賞を得るための色々にはまったく関係がない。
これは世界の根本法則に基づくからこそ可能なことである。多分、絶対言語の体系内で使われる概念はあまり重要ではないだろう。
絶対言語の体系が他者に絶対的な対話を用意する。そこでの内容はあまり気に留めなくても良い。
だから、キミは二つの間違いを冒した。
一つ、前述の通り、自身の存在を演繹させるのは絶対言語の体系、構造であり、かりにできないとしても、存在が演繹できない問題は【存在】が絶対言語内の概念でないことを示唆しない。
二つ、そもそも【存在】などという概念は絶対言語に至るのに必要ない。それはレースで一等賞になったときの賞品であって、レースで一等賞を得るための色々にはまったく関係がない。
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