東京 風俗情報 - 池袋

概要


池袋駅西口の繁華街

池袋は、新宿、渋谷と並ぶ山の手3大副都心の一つ。駅を中心に巨大な百貨店や専門店が集中し、飲食店などがひしめく。池袋駅の一日平均乗降者数は約264万人。繁華街は東西に広がり、1日に約100万人の集客人員がある。この街の事を若者を中心に「ブクロ」と略して呼称されることもある。

東口方面には西武百貨店、サンシャイン60、女性向けオタクストリート乙女ロード、豊島区役所等があり、西口方面には東武百貨店、東京芸術劇場等がある。

8路線からなる巨大な鉄道ターミナルが形成されており、各地から種々雑多な膨大な人を集客する。特に西武池袋線・東武東上線・JR埼京線・湘南新宿ライン等を利用する東京都西部、埼玉県南・西部の住民が多い。

中心部から少し離れると、立教大学、重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。

駅や街の至る所にある「いけふくろう」像は、「渋谷のハチ公に対して、池袋にも待ち合わせのメッカを」ということで、"いけぶくろ"と"フクロウ"を掛け合わせて考え出されたものである。特に、東口のものはJR発足時に設置されたものである。

地名の由来

戦国時代から「池袋」という地名が使われていることは分かっており、江戸時代の古文書からもその名を見つけることができる。 現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン付近に存在していたとされる、袋型の大きな池が袋池と呼ばれており、それが直接の由来となったという有力な説があるが、確かなことは分かっていない。

歴史

現在の池袋駅より少し北西に離れた場所、今で言う豊島区池袋、豊島区池袋本町の辺りにかつて存在した「池袋村」が発祥とされている。1889年の町村制施行で、巣鴨村の大字となる。

しかし、池袋の地は古くは栄えているとは言いがたい農村地帯であった。ここが栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。現在、赤羽線・山手線(埼京線)となっている赤羽駅〜品川駅間の路線を、上野駅〜前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、官営鉄道(新橋駅〜横浜駅)との接続を目的に1885年に開業させた。だが、この時池袋に駅は設けられなかった。

その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。この時、当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形の問題で池袋を分岐点にすることになり、池袋駅の開設に至ったのである。だが、駅の外に畑が広がっているという状況はなかなか変わらなかった。

大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。この頃は、巣鴨のほかに、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、池袋は師範学校や立教大学など、学校が置かれたことから文教地区となっていった。

1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。

また東武百貨店が1962年に本店を開店して1964年に東横百貨店池袋店を買収し、1958年に開店した東京丸物池袋店は1968年に西武百貨店に買収されパルコになった。

現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。西巣鴨橋という橋が東池袋二丁目に現存する。サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。

主な風俗店