最終更新: greenland4 2009年03月07日(土) 08:05:15履歴
アランソン公フランソワことエルキュール・フランソワ(Hercule François, 1555年−1584年)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの末息子。
1555年3月18日生まれ。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、およびスペイン王妃エリザベート、ロレーヌ公妃クロード、アンリ4世妃マルグリット・ド・ヴァロワの弟である。兄フランソワ2世死後の3兄弟(シャルル、アンリ、フランソワ)のなかでは身体的にも精神的にも最も虚弱であった。母后カトリーヌは兄アンリ3世を愛し、フランソワを愛さなかったため疎外感に悩まされたという。
1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号で呼ばれることが多い。
3人の兄が次々と、若くして王位に就いては早世していくなか、3番目の兄アンリ3世とは王位をめぐって対立し、ユグノー戦争では互いに戦い、「不満派の陰謀?」と呼ばれる事件を起こす。
1575年9月、王位継承権を持つフランソワはルーブル宮殿から逃亡し、プロテスタントと結んでフランス南西部に勢力を持った(第5次ユグノー戦争)。1576年、アンリ3世とフランソワはボーリューの和議?を結び、三部会の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であるとみられたため、王の政策に対する不満が高まり、同年11月、ギーズ公アンリを中心に反王権も辞さないカトリック同盟が結成されることになった。
1576年、全国三部会が開かれたが、カトリック勢力が多数を占め、信教の自由の項目は破棄された。フランソワは一転してプロテスタントの拠点を攻撃し、多数の住民を虐殺した(第6次ユグノー戦争)。
第7次ユグノー戦争が終わって内乱が小康状態にあった1584年6月19日、アンリ3世に先立って死去、これで兄王以外の男系のヴァロワ家の血統は途絶え、ブルボン朝のアンリ・ド・ナヴァル(アンリ4世が筆頭相続人となり、三アンリの戦いがここに継起する。
オランダ独立戦争(八十年戦争)初期におけるネーデルラントの指導者オラニエ公ウィレム1世はアンジュー公フランソワに対し、ネーデルラント北部諸州連合(ネーデルラント連邦共和国の前身)の君主位に就くことを要請していた。また、イングランド女王エリザベス1世?との結婚の交渉が進められていたことがある。
1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号で呼ばれることが多い。
3人の兄が次々と、若くして王位に就いては早世していくなか、3番目の兄アンリ3世とは王位をめぐって対立し、ユグノー戦争では互いに戦い、「不満派の陰謀?」と呼ばれる事件を起こす。
1575年9月、王位継承権を持つフランソワはルーブル宮殿から逃亡し、プロテスタントと結んでフランス南西部に勢力を持った(第5次ユグノー戦争)。1576年、アンリ3世とフランソワはボーリューの和議?を結び、三部会の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であるとみられたため、王の政策に対する不満が高まり、同年11月、ギーズ公アンリを中心に反王権も辞さないカトリック同盟が結成されることになった。
1576年、全国三部会が開かれたが、カトリック勢力が多数を占め、信教の自由の項目は破棄された。フランソワは一転してプロテスタントの拠点を攻撃し、多数の住民を虐殺した(第6次ユグノー戦争)。
第7次ユグノー戦争が終わって内乱が小康状態にあった1584年6月19日、アンリ3世に先立って死去、これで兄王以外の男系のヴァロワ家の血統は途絶え、ブルボン朝のアンリ・ド・ナヴァル(アンリ4世が筆頭相続人となり、三アンリの戦いがここに継起する。
オランダ独立戦争(八十年戦争)初期におけるネーデルラントの指導者オラニエ公ウィレム1世はアンジュー公フランソワに対し、ネーデルラント北部諸州連合(ネーデルラント連邦共和国の前身)の君主位に就くことを要請していた。また、イングランド女王エリザベス1世?との結婚の交渉が進められていたことがある。
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