最終更新: greenland4 2009年03月07日(土) 08:39:33履歴
モンゴメリ伯ガブリエル(ガブリエル・ド・ロルジュ、Gabriel de Lorges, Comte de Montgommery、1526年または1530年−1574年)は、スコットランド近衛隊の隊長でフランスの貴族・軍人。のちにイングランドに亡命した。馬上槍試合において過ってフランス国王アンリ2世を死に到らしめた。アンリ2世の后カトリーヌ・ド・メディシスによって斬首させられた。ユグノー戦争においては、ユグノー側の指揮官の一人として戦った。
モンゴメリ伯は、父はスコットランド出身のモンゴメリ伯ジャック・ド・ロルジュであった。同時にノルマンディー地方のロルジュおよびデュセーの領主でもあり、ガブリエル誕生の地はこのいずれかであると伝えられる。百年戦争後、スコットランド護衛兵がフランスの宮廷につかえる習慣ができたため、ガブリエルもアンリ王に仕えていた。
1559年、イタリア戦争の終結のためカトー・カンブレジ条約が結ばれ、その和平の象徴として、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世とカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。フェリペ2世にとっては、イギリスのメアリ1世?(「ブラッディ・メアリ」)没後の妻となった。
同年、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが国王を制止したにもかかわらず、その婚儀の祝宴の一環で行われた馬上槍試合において、ガブリエルは偶発的にアンリの右目を槍で貫いてしまい、その重傷がもとでアンリ2世は不慮の死を遂げた。
アンリ2世は勇ましい騎馬試合を好み、みずからこれに参加していた。婚儀の祝宴では2試合をすませ、3試合目にのぞんだ。国王アンリとモンゴメリ公ガブリエルはそうとうな距離をおいて向き合った。両側から駆け寄り、すれ違いざまに相手を馬から突き落とすのであるが、1回めは、王の馬の鞍がぐらぐらして勝負にならなかった。再度勝負を挑もうとするアンリに対し、モンゴメリは勝負なしを提議したが、アンリは聞き入れず、やむなくモンゴメリは試合の態勢をとった。2度めに両者がすれちがったとき、モンゴメリの槍がおれ、その先が王の右目に刺さっていた。
国王附きの筆頭侍医ジャン・シャプランは名医として知られた外科医アンブロワーズ・パレ?を呼び、治療法の検討のために6人の死刑囚を実験台にした。また、サヴォイア公はカール5世に解剖医アンドレアス・ヴェサリウス?の派遣を依頼し、皇帝も応諾した(ヴェサリウスは7月3日に到着した)。しかし、こうした周囲の努力も空しく、アンリ2世はこの傷が原因で苦悶のうちに7月10日に没した。40歳であった。この件は、ルーカ・ガウリコやノストラダムスなど同時代の占星術師たちの予言の的中例という形で言及されることがしばしばある。
アンリ国王死後、長男のフランソワ2世が15歳で即位し、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就任したが、それ以来、カトリーヌは生涯にわたって喪服を着用したという。
夫とは冷え切った関係であったカトリーヌであったが、夫を死に追いやったモンゴメリ伯を許そうとはしなかった。臨終間際のアンリ2世がモンゴメリ伯の過失を許したにもかかわらず、イングランドに追放。モンゴメリ伯ガブリエルは現地で新教に改宗し、のちにユグノー戦争で活躍することとなる。
フランスへ戻ったガブリエルは、ノルマンディー地方のプロテスタントの闘士として、また、ガスパール・ド・コリニー麾下の最も有能な指揮官のひとりとして戦った。第1次ユグノー戦争中の1562年5月には、ブールジュを略奪の上で占領した。彼はノルマンディでマチニョン元帥と対峙した。第3次ユグノー戦争期(1569年−1570年)の、ギュイエンヌ、ペリゴール、ケルシー、ベアルンなどの戦場においては、彼はプロテスタント陣営での大指揮官の一人であった。ジャルナックの戦いでは、コンデの解放を試みたが、アンジュー公アンリ(のちのアンリ3世)の活躍もあって失敗した。
サン・バルテルミの虐殺の折には、からくも難を逃れている。コリニーの暗殺未遂事件で、あるユグノーが負傷をおしてセーヌ川を泳いで渡り、彼に事態を知らせたからである。モンゴメリ伯はイングランドに退いたが、その首には賞金が懸けられたため、イングランドまで追跡する者もいた。また、カトリーヌはエリザベス1世に伯の引き渡しを数度にわたり要求したが、いずれも拒否された。その間、カトリーヌは彼の命を執拗に狙い続けた。
1574年5月9日、ノルマンディー地方の蜂起が行き詰まった後、モンゴメリ伯ガブリエルはドンフロンで攻囲され、同27日にはマチニョン元帥に投降した。パリに連行された伯は、助命するという約束を反故にされ、6月26日にはカトリーヌの意志によって王命で斬首された。処刑台において、財産没収の上で子供たちの肩書きも剥奪という命令を聞いた伯は、子供たちへの伝言として、奪われたものを取り戻せなければ、草葉の陰から呪ってやると語ったと伝えられている。
なお、第二次世界大戦で活躍するイギリスの将軍バーナード・モンゴメリーは、イギリスに残ったモンゴメリ伯の子孫にあたる。
1559年、イタリア戦争の終結のためカトー・カンブレジ条約が結ばれ、その和平の象徴として、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世とカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。フェリペ2世にとっては、イギリスのメアリ1世?(「ブラッディ・メアリ」)没後の妻となった。
同年、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが国王を制止したにもかかわらず、その婚儀の祝宴の一環で行われた馬上槍試合において、ガブリエルは偶発的にアンリの右目を槍で貫いてしまい、その重傷がもとでアンリ2世は不慮の死を遂げた。
アンリ2世は勇ましい騎馬試合を好み、みずからこれに参加していた。婚儀の祝宴では2試合をすませ、3試合目にのぞんだ。国王アンリとモンゴメリ公ガブリエルはそうとうな距離をおいて向き合った。両側から駆け寄り、すれ違いざまに相手を馬から突き落とすのであるが、1回めは、王の馬の鞍がぐらぐらして勝負にならなかった。再度勝負を挑もうとするアンリに対し、モンゴメリは勝負なしを提議したが、アンリは聞き入れず、やむなくモンゴメリは試合の態勢をとった。2度めに両者がすれちがったとき、モンゴメリの槍がおれ、その先が王の右目に刺さっていた。
国王附きの筆頭侍医ジャン・シャプランは名医として知られた外科医アンブロワーズ・パレ?を呼び、治療法の検討のために6人の死刑囚を実験台にした。また、サヴォイア公はカール5世に解剖医アンドレアス・ヴェサリウス?の派遣を依頼し、皇帝も応諾した(ヴェサリウスは7月3日に到着した)。しかし、こうした周囲の努力も空しく、アンリ2世はこの傷が原因で苦悶のうちに7月10日に没した。40歳であった。この件は、ルーカ・ガウリコやノストラダムスなど同時代の占星術師たちの予言の的中例という形で言及されることがしばしばある。
アンリ国王死後、長男のフランソワ2世が15歳で即位し、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就任したが、それ以来、カトリーヌは生涯にわたって喪服を着用したという。
夫とは冷え切った関係であったカトリーヌであったが、夫を死に追いやったモンゴメリ伯を許そうとはしなかった。臨終間際のアンリ2世がモンゴメリ伯の過失を許したにもかかわらず、イングランドに追放。モンゴメリ伯ガブリエルは現地で新教に改宗し、のちにユグノー戦争で活躍することとなる。
フランスへ戻ったガブリエルは、ノルマンディー地方のプロテスタントの闘士として、また、ガスパール・ド・コリニー麾下の最も有能な指揮官のひとりとして戦った。第1次ユグノー戦争中の1562年5月には、ブールジュを略奪の上で占領した。彼はノルマンディでマチニョン元帥と対峙した。第3次ユグノー戦争期(1569年−1570年)の、ギュイエンヌ、ペリゴール、ケルシー、ベアルンなどの戦場においては、彼はプロテスタント陣営での大指揮官の一人であった。ジャルナックの戦いでは、コンデの解放を試みたが、アンジュー公アンリ(のちのアンリ3世)の活躍もあって失敗した。
サン・バルテルミの虐殺の折には、からくも難を逃れている。コリニーの暗殺未遂事件で、あるユグノーが負傷をおしてセーヌ川を泳いで渡り、彼に事態を知らせたからである。モンゴメリ伯はイングランドに退いたが、その首には賞金が懸けられたため、イングランドまで追跡する者もいた。また、カトリーヌはエリザベス1世に伯の引き渡しを数度にわたり要求したが、いずれも拒否された。その間、カトリーヌは彼の命を執拗に狙い続けた。
1574年5月9日、ノルマンディー地方の蜂起が行き詰まった後、モンゴメリ伯ガブリエルはドンフロンで攻囲され、同27日にはマチニョン元帥に投降した。パリに連行された伯は、助命するという約束を反故にされ、6月26日にはカトリーヌの意志によって王命で斬首された。処刑台において、財産没収の上で子供たちの肩書きも剥奪という命令を聞いた伯は、子供たちへの伝言として、奪われたものを取り戻せなければ、草葉の陰から呪ってやると語ったと伝えられている。
なお、第二次世界大戦で活躍するイギリスの将軍バーナード・モンゴメリーは、イギリスに残ったモンゴメリ伯の子孫にあたる。
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