最終更新: greenland4 2009年01月30日(金) 00:18:29履歴
安土宗論(あづちしゅうろん)とは、天正7年(1579年)5月27日、織田信長?の命令で近江国安土城下の浄土宗浄厳院でおこなわれた、浄土宗の僧侶と日蓮宗の僧侶とのあいだの宗教討論。
『信長公記』によれば、宗論の発端は、東国よりおとずれた浄土宗の僧霊誉が安土城下で説法をしていたところ、法華宗(日蓮宗)の宗徒が議論をしかけ、京都からかけつけた法華宗の僧も加わり、騒動が大きくなった。そこで、信長は家臣を派遣して和解を企図したが、法華宗側はあくまでも宗論(問答)による決着を望んだ。
討論の勝敗は互角に近かったともいわれるが、問答中に会場が混乱し、法華宗代表の日Аζ諦・日淵らは浄土宗徒に袈裟を奪われてしまった。織田家家臣が周囲をかためるなか、判者(審判)は浄土宗側に有利な裁決をくだした。信長は、法華僧らに浄土宗に改宗するか、さもなくば今後他宗を誹謗しない旨を約した起請文を出すかの選択をせまった。
これにより、信長は法華宗に起請文を差し出させ、二度と他宗攻撃をおこなったり、秩序を乱さないことを誓約させた。また、信長の命により、日蓮宗の宗徒であった建部紹智・大脇伝介、および法華僧の普伝の3名が誅殺され、法華宗代表は監禁され、京都妙覚寺をはじめ法華宗13か寺が宗論の3奉行あてに詫び状をしるすよう強要された。
討論の勝敗は互角に近かったともいわれるが、問答中に会場が混乱し、法華宗代表の日Аζ諦・日淵らは浄土宗徒に袈裟を奪われてしまった。織田家家臣が周囲をかためるなか、判者(審判)は浄土宗側に有利な裁決をくだした。信長は、法華僧らに浄土宗に改宗するか、さもなくば今後他宗を誹謗しない旨を約した起請文を出すかの選択をせまった。
これにより、信長は法華宗に起請文を差し出させ、二度と他宗攻撃をおこなったり、秩序を乱さないことを誓約させた。また、信長の命により、日蓮宗の宗徒であった建部紹智・大脇伝介、および法華僧の普伝の3名が誅殺され、法華宗代表は監禁され、京都妙覚寺をはじめ法華宗13か寺が宗論の3奉行あてに詫び状をしるすよう強要された。
多くの歴史書・概説書では、この宗論を法華宗を屈服させるために信長が仕組んだものとして扱うことが多い。しかし、井沢元彦は『逆説の日本史』のなかで信長の意図はそこにあらず、事実、法華宗が問答において敗北したとの所論を展開している。
タグ
コメントをかく