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大西洋経済の解体と世界資本主義の再編成

アメリカ合衆国の独立からナポレオン戦争、ラテンアメリカ諸国の独立にいたる動乱によって大西洋をめぐる諸地域の関係は大きく変わった。それは、西ヨーロッパを中心に成り立ってきた重商主義政策と奴隷制によって成り立ってきた大西洋経済の解体と評することができる。

「グローバリティのカエスラ」

山下範久は、1800年前後の数十年には「グローバリティのカエスラ(区切れ)」<ref>山下範久による概念。山下範久 『世界システム論で読む日本』 講談社<講談社選書メチエ>、2003年。</ref>という一種の「真空」<ref>カール・ポランニーから援用した概念。同上。</ref>が生じたとして、従来の「近代化論?」的な世界システム論?における「日本例外論」(日本は特殊である、日本は教育制度が充実していた、利潤獲得を正当なものとみなす石門心学?なる道徳哲学があったなど)を、乗り越えようとしている。

そこでは、世界における「長期の16世紀」<ref>元来はブローデルの用いた概念。ウォラーステインも用いている。</ref>(15世紀末葉から17世紀中葉すぎまで)は、5つの近世帝国(理念的帝国)が並行して形成されてきた時期であり、その近世帝国とは、
  • 「環大西洋帝国」(=「ヨーロッパ帝国」。南北アメリカをふくむ)
  • 「北ユーラシアの帝国」
  • 「西アジアの帝国」
  • 「南アジアの帝国」
  • 「東アジアの帝国」
の5つであるとしている。なお、ここにおける「帝国」とは領土的実体ではなく、東アジアにおける冊封体制?に示されるような、その行動の前提となる世界認識ないし空間的想像力の次元で形成された理念的な秩序を指している。

山下は、「長期の16世紀」の前半は大航海時代や日本人の東南アジアへの進出にみられるように、リスク?に対して積極的に交通の拡大を行ってきたのに対し、後半は安定的な成長の時代であると評価して、海禁や鎖国などの政策、あるいは江戸幕府が琉球や蝦夷地?などの緩衝地帯をわざわざ設定した施策に典型的にみられるように、世界の諸例をみても、交通路の制度化と管理がなされた時期であるとする。

しかし、1800年前後、すなわち上述した環大西洋革命に前後して「グローバリティのカエスラ(区切れ)」が数十年にわたって世界的に継起し、5つの近世帝国は相次いで解体し、国民国家?が出現して領土的な拡張主義の様式も転換し、資本主義のあり方やルールが変わったとしている。すなわち、どの地域も例外なく、近世的な世界システムから近代的な世界システムへ移行していったととらえる<ref>山下範久 『世界システム論で読む日本』 講談社<講談社選書メチエ>、2003年。</ref>。ここでは、近世帝国のうちヨーロッパのみは連続性があるという予断は排されている。

このようなとらえ方は、「近代化論」的な世界システム論のみならず、「従属理論|従属論?」的な世界システム論における日本に関する盲点、すなわち、欧米諸国によって無理やり開国させられ、不平等条約をおしつけられて本来なら「低開発」を余儀なくされたはずの日本がいちはやく近代化を果たした事実に対しても、「日本例外論」によらずに説明しようとする試みだった。

移住植民地

史実としては、この時期は、イギリスがさらに世界的に進出する機会ともなっていた。ケープ植民地がイギリスの移住植民地となったほか、18世紀後半、ジェームズ・クック?の探検航海によりオーストラリア?の東海岸部がみいだされていた。アメリカ13州の独立後、それにかわるイギリスの流刑植民地とされ、1788年?、今日のシドニー?に植民の基礎がきずかれた。

カナダでは、アメリカ合衆国の独立後、イギリス国王を支持する植民者(ロイヤリスト?)が13州から移住し、フランス系住民とは別にあらたな植民地をひらいた。

1828年?にはオーストラリア全土がイギリス植民地となり、内陸探検がすすんで農牧地もひらかれたが、先住民のアボリジニ?からは土地を取り上げて放逐し、反抗者を殺害したためその社会は破壊された。また、タスマニア島?でも1830年までに純血の先住民は人間狩りなどにより絶滅させられた。

植民地オーストラリアの発展は、アジア・太平洋地域へのヨーロッパ勢力の進出とあいまって、南太平洋の島々の分割を促すこととなった。1840年?、イギリスはニュージーランド?の領有をはじめたが、これを皮切りに列強による太平洋の分割が本格化した。

19世紀中ごろから1917年まで(パックス・ブリタニカの時代)

フランスとの植民地抗争に勝利し、世界にさきがけて産業革命をなしとげたイギリスが覇権を確立し、また、蒸気船の普及によって大量の工業製品の輸送や地球規模での移民?が可能となったことにより、ここに世界の一体化がほぼ完成した。世界商品としては、上述した16世紀の砂糖、黒人奴隷、17世紀の茶、コーヒー、タバコ、キャラコ、18世紀の綿花、綿織物に加えて、19世紀には鉄鉱石?石炭?天然ゴム?などが主要な商品となっていった。

産業革命後のイギリス経済は次第に保護を必要としなくなり、「世界の工場」とよばれる圧倒的な経済的優位性を背景に自由貿易へと方向転換し、高いコストを要する植民地?だけではなく、自由貿易さえ保証されれば、経済的従属下に置きはするものの必ずしも政治的支配をおこなわない非公式帝国?を拡大していった。インドや東南アジアに対しては前者、清国やオスマン帝国に対しては後者の姿勢でのぞみ、市場と原料供給地の拡大を推し進めていった。相手国に自由貿易を強いる際は武力を発動することも多かったが、ヨーロッパ諸国の間では前世紀までくり返された戦乱や武力衝突がなかったため、この時代を古代ローマの「パクス・ロマーナ|パックス・ロマーナ?」にならい、パックス・ブリタニカパックス・ブリタニカ|イギリスによる平和?)と呼んでいる。また、この時期のイギリス帝国の方針は「自由貿易の旗手」を自認したことから、後世自由貿易帝国主義と呼ばれている。

自由貿易帝国主義の遺産としてはロンドンのキュー王立植物園?がある。そこでは、世界各地から資源植物を集め、品種改良?などをおこなう場でもあった。さらに、イギリス植民地内の各植物園と情報交換などを行い、それによって、育成条件の合致する植民地に移植してプランテーション?での大量生産をはかった。

このような植民地への移植例としては、
  • 中国産の茶をインドのアッサム地方?スリランカ?
  • アマゾン川?流域産の天然ゴム?マレー半島?
  • ポリネシア?産のパンノキ?西インド諸島?
  • マラリア?の特効薬キニーネ?(キナの樹皮)をペルー?からインドへ
などがある。

産業革命の広がりとイギリスの繁栄

パックス・ブリタニカ
生産力において、また海軍力において他国を圧倒したイギリスは、ヴィクトリア女王?(位1837年-1901年)のもとで太陽の沈まない国#イギリス帝国(大英帝国)|太陽の沈まない国?」と呼ばれる繁栄を享受し、1851年?にはロンドンで第1回万国博覧会?がひらかれてその威信を誇示した。博覧会会場に設けられた水晶宮?は「パックス・ブリタニカ」の象徴となった。

この時代のイギリス外交は、卓越した海軍力を背景に他国と同盟関係をむすばない「栄光ある孤立?」の政策をとり、フランスなどヨーロッパ列強との正面衝突は避けながらも、大陸において強大な勢力の出現することを牽制する勢力均衡策を採用した。

一方、中央アジア?の覇権をめぐりロシア帝国?との間には敵対関係と戦略抗争が生じ、これは後世「グレート・ゲーム?」とよばれる。

国内政治では、1832年?には選挙法が改正され、ブルジョワや工業都市の代表も議会に進出した。しかし、普通選挙?はおこなわれなかったので、労働者はその獲得をめざすチャーティズム|チャーティスト運動?をくりひろげた。カトリック教徒の解放、奴隷制の廃止、郵便制度なども実現し、1870年?には初等教育法が制定されて義務教育?がはじまった。

ヴィクトリア朝?では、小英国主義を掲げるウィリアム・グラッドストン?自由党 (イギリス)|自由党?と大英国主義をめざすベンジャミン・ディズレーリ?保守党 (イギリス)|保守党?が交互に政権を担当する、二大政党による議会政治が展開された。
世界史のなかの1848年
1848年は、19世紀前半の諸潮流が合流して総決算をむかえたような政治の季節となった。この年ヨーロッパ各地で起こった革命は、33年におよんだウィーン体制?をついに瓦解させた。その震源となったのはパリ?の二月革命だった。

フランスでは七月王政?のもとで産業革命が進み、中小のブルジョワジー?や労働者たちが選挙権?をもとめていた。その運動が弾圧されたことに抗議し、パリ民衆が1848年2月に蜂起し、王政が倒れて共和政体による臨時政府ができた。第二共和政?である。臨時政府には、共和主義者とともにルイ・ブラン?などの社会主義者もくわわり、失業者の救済をめざす国立作業場もつくられて男子普通選挙?が実現した。

これに続いて、三月革命がドイツ語圏に広がった。ウィーン?では3月に諸民族が蜂起し、オーストリアの宰相クレメンス・メッテルニヒ?は亡命を余儀なくされた。ベルリン?でも同じ月に民衆蜂起が起こって立憲自由主義が高まりを見せるなか、5月にはフランクフルト・アム・マイン?フランクフルト国民議会?がひらかれた。

1848年革命?は、自由主義?国民主義?ロマン主義?社会主義?が合わさって、チェコ?ハンガリー?イタリア?ポーランド?オランダ?ベルギー?、さらに南アメリカ大陸へと広がった。デンマーク?では絶対王政が廃止された。

イギリスのチャーティスト運動?アイルランド?反乱、スイス?の分離同盟戦争は前年から続いていた。これら「諸国民の春」によってウィーン体制は終焉を遂げた。

このような政治的高揚をあたかも分水嶺のようにして、19世紀後半は資本主義?経済の発展のもと、景気?が回復して1870年?頃まで世界的な好景気?が続き、イギリスは「世界の工場」としてますます繁栄し、ドイツをはじめとする大陸諸国でも産業革命がつづいた。

折しもカリフォルニア州|カリフォルニア?では1848年にゴールドラッシュ?が始まり、西部に殺到した人びとはフォーティナイナーズ(49ers)と呼ばれた。オーストラリア?でも1851年?に金鉱が見つかって、世界経済をおおいに刺激した。金の増産によって国際金融市場?が急速に拡大し、資本主義的世界的システムの完成がみられた。ロンドンは「世界の銀行」と称される世界の一大国際金融センターとなり、資本輸出の時代が始まった。

こうしたなか、新興国アメリカは、列強の群がる?との貿易に必要な北太平洋航路の中継地として、また、当時需要の大きかった鯨油をもとめた捕鯨?船の補給寄港地として日本の開港を必要とし、東インド艦隊総司令長官マシュー・ペリー?極東?に派遣した。

1848年はまた、カール・マルクス?が『共産党宣言?』を著した年でもあった。西欧社会において、資本家階級と労働者階級の対立という図式が可視的となり、社会主義者?労働者階級?が新しい政治勢力として登場したことに対して資本家?たちは保守化し、労資の対立が表面化していった。
産業革命の広がりと世界資本主義システム
!国名||||開始時期||特色||鉄道開通年と開通区間
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|イギリス||||1760年代||1.木綿工業の紡績部門・綿布部門で交互に展開<br/>2.19世紀前半「世界の工場」としての地位を確立||1825年?ストックトン・オン・ティーズ? - ダーリントン?
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|フランス||||1830年代||1.フランス革命で創出された小農民中心(資本蓄積の遅れ)<br/>2.七月王政期より本格化。発展はゆるやか<br/>3.絹織物工業(中心リヨン)から開始||1832年、リヨン? - サン=テティエンヌ?
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ベルギー?1830年代1.1830年のベルギー独立革命?が契機<br/>2.独立後の経済危機を克服すべく、国家主導で銀行・産業を育成
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|ドイツ||||1840-50年代||1.領邦制のなかでのユンカー・ブルジョワの台頭<br/>2.ドイツ関税同盟?(1834年)による市場の統一<br/>3.重工業から開始、西南ドイツやプロイセンで展開||1835年?ニュルンベルク? - フュルト?
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|アメリカ||||1830年代||1.米英戦争?(1812年 -1814年)後のイギリスからの経済的自立<br/>2.西部開拓による国内市場の拡大<br/>3.南北戦争?後に本格化。19世紀末には英・独を追い越す||1830年?ボルティモア? - エリコット・シティ?:en:Ellicott City, Maryland|Ellicott City, Maryland?
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|ロシア||||1890年代||1.農奴解放令?(1861年)による労働者の創出<br/>2.フランス資本の導入と国家の保護により1890年代に本格化||1838年?ペテルブルク? - ツァールスコエ・セロー?
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|日本||||1890年代||1.1870年代の政府の殖産興業?政策が契機<br/>2.綿織物工業から開始<br/>3.日清戦争?前後、軽工業中心に発達(下関条約?の賠償金を投入)||1872年?汐留駅 (国鉄)|新橋? - 桜木町駅|横浜?
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産業革命は19世紀のうちに西欧から北欧・北米、そして世紀末にはロシア、日本などの地域へ広がっていった。しかし、産業社会は世界均一に広まったわけではなかった。イギリスは、すでに18世紀までに形成されていた世界的な分業システムをもとに産業革命を推進したので、世界経済はイギリスを中心に3層の構造をなすことになった。つまり、自由貿易をとなえるイギリスが「世界の工場」、そして「世界の銀行」として世界経済をリードし、これに対して、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国、そして日本などの後発国は、イギリスとは対照的に保護貿易?による自国産業の保護育成と富国強兵につとめた。保護貿易主義を理論化したのが、フリードリヒ・リスト?の歴史学派経済学であり、アメリカの南北戦争?は、保護貿易主義の北部と自由貿易主義の南部の内戦でもあった。また東欧とアジア、ラテンアメリカ、アフリカは、国民経済としてまとまって対抗することができず、欧米に対する従属経済にあまんじた。

1868年に明治維新?をむかえた日本もふくめて、20世紀の世界史で重要な役割を果たし、かつて「列強」とよばれた諸国、あるいは現代、G7?(先進7か国)あるいはG8?(先進8か国)と称される米・英・日・独・仏・伊・加・露の諸国は、すべて19世紀なかばから1870年代にかけて、近代国家としての姿をととのえ、世界資本主義のシステムのなかで互いにきそいつつ、従属地域にも手をのばしていった。

なお、「上からの資本主義」ないし保護貿易政策、あるいは富国強兵政策を推し進めていくうえで、関税権のないことはしばしば大きな障害となった。日本において条約改正?が政府、民権派問わず国民的悲願とされたのは、そのためだった。

ヨーロッパ近代の確立

フランス第二帝政の樹立と崩壊
1848年革命により、七月王政?は倒され、フランスでは自由主義者のラマルティーヌ?を首班とした臨時政府が樹立され、その中には社会主義者のルイ・ブラン?も入閣した。臨時政府の政策は、国立作業場?設立に代表される労働権・生活権の保障や21歳以上の男子の普通選挙?を認めるといったものであり、社会主義派の主張が反映されていた。4月の総選挙で社会主義派は敗退し、その後の六月暴動?で労働者が国立作業場の閉鎖に対し、暴動を起こし鎮圧されると、政治の保守反動化が進展した。1848年11月の選挙でナポレオン1世の甥に当たるナポレオン3世|ルイ・ナポレオン?が大統領に当選した。その後、ルイ・ナポレオンはクーデターを起こし、1852年?に皇帝に即位した。

ナポレオン3世の権力基盤はブルジョワジーとプロレタリアートの均衡により成立していた。内政面では国内産業を保護・育成しすることでブルジョワジーの支持を得、一方、労働条件を改善することでプロレタリアートの支持を得ていった。外交面では、クリミア戦争?イタリア統一戦争?アロー戦争?の参加、インドシナ半島への進出と治世の前半は成果を挙げていったが、後半はメキシコ出兵?の失敗により威信は低下、普墺戦争?でプロイセンの勢力拡大を許すと、普仏戦争?でプロイセンに完敗し、ナポレオン3世は失脚、アルザス・ロレーヌ?はドイツ帝国に帰属することになった。

その後、パリ?ではパリ市民や社会主義者が中心になりパリ・コミューン?を結成したが、ドイツ軍の手によって鎮圧された。そして、フランス第三共和政?が始まることになった。
「東方問題」とクリミア戦争
1683年の第二次ウィーン包囲?を境に、オスマン帝国?は縮小へ向かった。1699年?カルロヴィッツ条約?でオスマン帝国がハンガリー?を喪失すると、ヨーロッパ諸国の間にあったオスマン帝国への危機感は徐々に薄れ、勢力の拮抗とともに安定期が訪れた。「チューリップ時代」と呼ばれたこの安定期に、オスマン帝国は西ヨーロッパ諸国との宥和政策を推進し、西ヨーロッパの文物が流入するようになった。そしてこの安定期を過ぎる頃にはヨーロッパ諸国とオスマン帝国の力関係は逆転した。オスマン帝国の弱体化につれて、その支配下にあった諸民族は独立に向けて蠢動するようになり、ヨーロッパ諸国はその動きに連動するように、軍事介入を繰り返してはオスマン領内へ勢力圏拡大をはかるようになる。

19世紀?前半のヨーロッパはウィーン体制?に代表される列強の保守協調によって、かろうじて利害対立を回避していたのであり、それは分裂していたイタリア?ベルギー?などの小国を犠牲にすることで贖われた勢力均衡に依拠するものだった。しかし国民主義?の高まりによりイタリアに統一運動が起こり、ベルギーが独立するなど、これらの地域がもはや従属的な地位に満足しなくなると、ヨーロッパ諸国は自らの東方に存在するオスマン帝国領へ目を転じ、この地域で一国が「一人勝ち」する状況を排除することで勢力均衡を維持しようとした。こうして、オスマン帝国をめぐる紛争に当事者以外の諸国が介入し、外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになった。このオスマン帝国をめぐる外交問題を「東方問題」と呼ぶようになった。

この「東方問題」は1832年?ギリシャ独立戦争?の際には、各国世論を喚起する形で、この戦争に諸国を介入させる結果となった。また、この問題は19世紀後半に中東欧で国際政治学|国際政治?の枠組みを再編する契機となったが、その発端となったのが1853年?にはじまったクリミア戦争?である。ロシアは地中海?への出口を求めて南下政策をとり、オスマン帝国領内の正教信徒の保護と聖地イェルサレム?の管理権をめぐる対立を理由にバルカン半島?の一部を占領した。

ロシアの地中海進出をおそれたイギリスとフランスは、オスマン帝国を支援してロシアに宣戦し、ヨーロッパ諸国どうしがヨーロッパ外で全面的な武力衝突に至る事態となった。この結果、ロシアは敗北し、黒海?に艦隊をおく権利を失った。1856年?パリ条約?では、ナポレオン3世はナショナリズムを擁護し、オーストリア?は中立を保って神聖同盟?は崩壊し、ロシアは孤立した。

1880年代にいたるとオットー・フォン・ビスマルク?の卓越した手腕のもとに、ヨーロッパ諸国は「ビスマルク体制」という外交的安定期を迎え、この間1878年?ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議?によって「東方」における列強の利害関係は調整され、外交問題としては一応の解決を見たかに思われた。

またこのころにはすでにヨーロッパ諸国の利害は遠く「東方」を越えてアフリカ?東アジア?を含めた全世界規模で調整されるようになっており、「東方問題」はその重要性を相対的に減じていた。しかしながら、このことはバルカンの民族問題の解決を意味しておらず、バルカン半島は相変わらず「ヨーロッパの火薬庫」であり続けた。また、内外からの攻撃にさらされたオスマン帝国は「瀕死の重病人」と呼ばれるようになった。
イタリアの統一
ローマ帝国?が滅亡して以来、都市国家が乱立していたイタリア半島?でも統一の機運が高まっていた。1848年?ローマ共和国?失敗後、イタリア統一を主導したのは、ピエモンテ?トリノ?を首都に定めていたサルデーニャ王国?だった。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世?は、カミッロ・カヴール?1852年?に首相に迎え、王国の近代化を推進した。自由主義的な憲法?を制定し、教育の充実、工業化の推進、交通網の整備を行った。ただ、独力の近代化だけでは、イタリア統一をすることもままならず、当時の大国との同盟関係を締結することが必要となった。クリミア戦争?では、イギリス、フランスと同調する形で、ロシアに宣戦布告し、血を流すことによって、今後のイタリア統一に向けての下準備とした。

プロンビエールの密約?1858年?に結ぶと、サルデーニャは対オーストリア戦争に邁進。経済的に豊かなロンバルディア?、中部イタリアのパルマ?モデナ?トスカーナ?を次々と併合した。中部イタリア進出の際には、サヴォイア?ニース?をフランスに割譲した。同盟国フランスに見返りを捧げる形でありながらも、半島統一を推進していった。

一方、赤シャツ千人隊?と呼ばれる私兵を用いて、イタリア統一に貢献したのがジュゼッペ・ガリバルディ?である。1860年?両シチリア王国?を滅ぼすとガリバルディは、サルデーニャ王国に征服地を献上し、自らは表舞台から退場した。1861年?イタリア王国?の建国が宣言され、ヴェネツィア?及び教皇領?を除くイタリア半島の統一が達成された。1866年?普墺戦争?の際には、プロイセン側に立ち、オーストリアと交戦状態に入り、ヴェネツィアをイタリア王国に組み入れることに成功、1870年?普仏戦争?でフランスが敗れるとローマに進駐していたフランス軍が撤退したため、ローマ占領に成功した。ローマ占領は、イタリア国家とローマ法王の断絶を意味し、この状態が改善されるのは、20世紀のラテラノ条約?を待たなければいけなくなった。当時の教皇ピウス9世?は、自らを「バチカンの囚人」と称した。

その後、統一イタリアは、国内の南北格差(ピエモンテやロンバルディアが所属する北部地方が経済的に豊かであり、その状況は21世紀になった今も変わっていない)を内包しつつも、植民地獲得競争に参入していった。その対象は、ソマリア?リビア?に向けられていった。また、未回収のイタリア?と呼ばれる地方が残っていたため、三国同盟 (1882年)|三国同盟?を普仏戦争後、オーストリアと締結したとはいえ、常に国境問題を抱えていたため、第一次世界大戦?の際のイタリアの連合国側参戦へとつながる原因となった。
ドイツ帝国の成立とビスマルク体制
ナポレオン戦争はナショナリズムをヨーロッパの諸民族に扶植した。その中で、ドイツの各領邦国家は国内関税、領邦国家独自の通貨、度量衡が存在した。その上、産業革命で経済的に優位に立っているイギリスからの安価な軽工業の製品がドイツにも流入していくにつれて、ドイツにおいても統一国家の樹立が望まれた。1833年?経済学者フリードリッヒ・リスト?の尽力によりドイツ関税同盟?が結成された。また、鉄道?の建設が1835年?より開始され国内市場の統一への望みに拍車を掛けた。1840年代には鉄と石炭の需要が増加し産業革命がドイツにも進展していった。

なお、ドイツにおける産業革命はドイツ関税同盟?などを背景に経済的な領域を確立したうえでの工業化だった。以下のような諸特徴を有する。
  1. 銀行資本の出資による積極的な拡張投資:ハイペースな事業拡大
  2. 独占企業の発生:シェアと利潤の確保
  3. 研究に基づく技術革新:科学者との協力で技術を生み出す

そんな中、1861年ヴィルヘルム1世?がプロイセン国王に即位した。彼は、ユンカー出身のオットー・フォン・ビスマルク?を宰相に採用した。ビスマルクはドイツの統一の為に武力による統一が不可欠とした鉄血政策?を採用し、軍備の増強を行った。ドイツ統一のためにはオーストリアの存在は目障りでしかなかった。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題?を発端としたデンマーク戦争?(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)を皮切りにプロイセンは領土を拡大、1866年普墺戦争?でオーストリアに7週間で決着をつけると北ドイツ連邦?の結成を承認させ、オーストリアのドイツへの干渉を排除することに成功した。スペイン王位継承問題でビスマルクはスペイン国王にプロイセン王家を即位させ、フランスの挟撃を画策したが、プロイセンの拡張を快く思わなかったフランスのナポレオン3世?が反発し失敗に終わった。最終的はエムス電報事件?を発端とした普仏戦争?でプロイセンはフランスに勝利し、1870年ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿?でドイツ皇帝として即位しドイツ帝国?がここに成立した。

ドイツ帝国は、諸邦の自立性を認める連邦制?立憲君主国?だった。経済発展にささえられ、ビスマルクは重化学工業?農業?の利害を調整し、国家が化学をはじめとする自然科学?医学?、軍事技術の開発を積極的に助成したので、ドイツの諸学問は当時の世界の最高水準に達した。ビスマルクはまた、内政面では、労働者保護の為の社会保障政策を採用する一方、社会主義者鎮圧法?で台頭してきた社会主義者を弾圧するといった「アメとムチ」の政策を採用した。外交面では、フランスを孤立させた形でのヨーロッパの勢力の均衡を図る外交政策を推進し、1873年?にはオーストリア、ロシアと三帝同盟?を締結したが、1877年?露土戦争 (1877年)|露土戦争?に勝利し南下政策を強めるロシアの勢いを挫くために、1878年?ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約?を締結し、三帝同盟は瓦解した。1882年?三国同盟 (1882年)|三国同盟?イタリア王国?、オーストリアと締結し、バルカン半島?に勢力拡大を図るロシアと対抗していくこととなった。

ヴィルヘルム1世没後、フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世?が皇帝に即位したがわずか3ヶ月で死去したため、ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世?が後を襲った。彼は、ビスマルクの老獪な外交を理解できず、ビスマルクと対立、ビスマルクは帝国宰相の地位を辞任した。その後、ヴィルヘルム2世の3B政策?が外交の指針となったが、これによりイギリス、フランスと対立が鮮明になり最終的には第一次世界大戦?につながっていく。
オーストリアと東欧諸民族、ロシアの改革
1866年のプロイセンとの戦争にやぶれ、統一ドイツからはずされたオーストリアは、帝国の再編をせまられ、1867年にはマジャール人に自治を認めてオーストリア帝国とハンガリー王国からなる二重帝国となった。このオーストリア=ハンガリー帝国?は、ドイツ人?マジャール人?が支配的な地位を維持し、帝国内のスラヴ人?など10をこえる民族を支配する構造となっていた。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世?は、1860年代の自由主義的な風潮のなかで、選挙制度の改革によりポーランド人?チェコ人?に選挙権を与え、また、ユダヤ人?に対しても寛大な姿勢をとり、職業?結婚?居住?などについてユダヤ人に課せられていた各種の制限を取り除いた。外交的、軍事的には対外的に劣勢の目立った二重帝国だったが、首都ウィーン?は大きく改造され、世紀末には史上まれにみる文化の爛熟が現出した(「世紀末ウィーン?」)。

オーストリア=ハンガリー帝国では、多くの民族問題をかかえていたが、東ヨーロッパ諸民族の権利が拡大されたこともあり、帝国内では独立要求は本格化せず、自治要求、権利拡大要求としてあらわれた。

それに対し、ロシアやドイツの支配下にあったポーランド人のあいだで、ポーランド分割|分割?以前のポーランドの復活をめざす運動が貴族を中心に進められた。1863年?、ロシア帝国内でポーランド人貴族が反乱をおこしたものの、民衆との断絶から失敗に終わった。

ロシア帝国?では西欧と異なり、「ツァーリ?」と呼ばれた絶対権力をもつ皇帝の専制と農奴?制が続いていた。クリミア戦争?での敗北によりロシアの後進性を痛感した皇帝アレクサンドル2世?は「上からの改革」により近代国家を樹立しようとはかり、1861年に「農奴解放令?」を発布して、近代化への筋道をつけた。これは、国民国家創生への努力だったとともに、解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となり、ロシアに産業革命が勃興する契機となった。

ロシアは対外的には、バルカン半島?における全スラヴ民族の統一という汎スラヴ主義?を支持して、1877年?にはオスマン帝国に宣戦して露土戦争?をはじめた。これはロシアの勝利に終わり、翌年サン・ステファノ条約?が結ばれた。

しかし、この条約がロシアの利益を拡大するものだったことから、イギリス、オーストリア=ハンガリー帝国が強く抗議した。そのため、国際政治の現状維持を望むビスマルクが1878年にベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議?をひらき、諸国間の利害を調整した。これにより、ルーマニア?セルビア?モンテネグロ?は独立がみとめられ、イギリスはキプロス?の管理権を、二重帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナ?の行政権を獲得した。ロシアが保護国化しようとしたブルガリア?は領土を縮小されてオスマン帝国の自治国とされた。こうしてバルカン半島には民族国家がうみだされたものの、領土に不満をもつバルカン諸国は、オスマン帝国に残された地域を巡って再び対立し、南下政策を阻止されたロシアとここに足場を築いた二重帝国は対立を深めることとなった。

一方、ロシア国内の自由主義の担い手は知識人(インテリゲンツィア?)に限られていた。知識人の間には社会主義?を志向するナロードニキ?の運動が始まった。しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、運動はニヒリズム?へと傾いていき、1881年?、テロによりアレクサンドル2世が暗殺された。

北アメリカの変革と国民形成

拡大するアメリカ合衆国
アメリカ合衆国の19世紀は領土の拡大と国力の充実のために注がれた世紀だった。1803年?ルイジアナ買収?を経て、米英戦争?で実利の少ない戦争をした後は、1823年?モンロー宣言?を発して、ひたすら国内に目が注がれた。実際に諸外国と本格的に事を構えたのは1846年?から1848年?米墨戦争?のみであり、その次は世紀末の米西戦争?ということになる。ただし、その間には南北戦争?という内戦で痛みを味わった。米墨戦争の前の1845年?テキサス併合?1846年?オレゴン条約?でイギリス領カナダとの国境確定と進み米墨戦争の結果(グアダルーペ・イダルゴ条約?)でカリフォルニア州|カリフォルニア?までを獲得し、北アメリカの大西洋から太平洋に繋がる、ほぼ今の形に近い巨大な国となった。

1848年?に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、マニフェスト・デスティニー?の旗印の下に、西部開拓時代?が進行し、1867年?アラスカ購入?1869年?には最初の大陸横断鉄道?の開通、1890年?にはフロンティア?の消滅が宣言され、このころの第二次産業革命?の進展と共に既にイギリスを抜いて経済大国となる準備が出来上がった。ただし、先住民族は強制移住や殲滅戦争によって居留地に押し込められるか、白人との同化を選ぶかの選択を余儀なくされた。

次のアメリカの目は海外にも向けられるようになった。1889年?のパンアメリカ会議で南北アメリカ大陸の盟主となったアメリカは1898年?ハワイ?を併合し、同じ年に起こった米西戦争ではプエルトリコ?グアム?フィリピン?を支配下に収め、キューバ?を保護国とした。アメリカによる新帝国主義の始まりだった。
南北戦争
アメリカ合衆国の成長は順調に見えたが、国内には党派対立という大きな問題を抱えていた。建国当初は連邦党?の主導で強い中央政府を作っていったが、米英戦争をきっかけとして連邦党が凋落し、替わって政権を取った民主共和党 (アメリカ)|民主共和党?州の権限?を重んじる政策を推進し、一時期は「好感情の時代?」と呼ばれる安定した政情を作り出した。1828年?の大統領選挙で勝利したアンドリュー・ジャクソン?ジャクソン流民主主義?を推し進め、普通選挙?を拡大していったが、これが大衆の政治参加を促したうえに、元々広い国土が更に拡大して地域の産業・経済格差が大きくなり、保護貿易|保護関税?を巡る抗争などで南北の党派的対立が進んだ。

対立の争点になったのが奴隷制?だった。既にイギリスやメキシコでは奴隷制を廃止しており、人権先進国であるはずのアメリカに奴隷制が残っていることに対して、北部の宗教者を中心として激しい奴隷制度廃止運動?を引き起こすことになった。その契機となったのは、アメリカがアメリカ合衆国西部|西部?に新たな領土を獲得したことだった。アメリカ合衆国南部|南部?の諸州は奴隷労働によるプランテーション経営でその基盤が支えられており、それを守るために新しく合衆国に加盟する西部の州を、奴隷制を認める州(奴隷州)にすることで、議会(上院)での多数派を維持しようとした。アメリカ合衆国北部|北部?では、それまで2大政党制を担ってきたホイッグ党 (アメリカ)|ホイッグ党?に替わって奴隷制度廃止世論を背に受けた共和党 (アメリカ)|共和党?が擡頭し、結党後わずか6年後の1860年アメリカ合衆国大統領選挙?ではエイブラハム・リンカーン?を押し立てて政権を掴んでしまった。1861年?サウスカロライナ州?を初めとして南部の奴隷州は次々とアメリカ合衆国から脱退し、新たにアメリカ連合国?を結成、南北戦争?に突入した。

1865年?、戦争は北部の勝利に終わり、多少の凝りは残ったもののアメリカ合衆国は分裂の危機を免れ、連邦政府の指導力が強化された。憲法が修正されて奴隷制は廃止され、アフリカ系アメリカ人?の人権や参政権が保証された。戦後、荒廃した南部の再興(レコンストラクション?)が進められ、北部では電気、鉄鋼、石油などの分野で大資本家が生まれ金ぴか時代?を現出した。現在に続く共和党と民主党 (アメリカ)|民主党?による2大政党制が確固たるものになったのはこの時期である。奴隷制は廃止されたものの人種的な偏見は強く残り、1世紀後の公民権運動まで人種分離・差別が続いたことはアメリカの汚点となった。またヨーロッパからの移民もこの時期に更に増えたが、南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民、あるいは日本、中国(清)などアジアからの移民も増えて人種差別?感情が増長された。
カナダ連邦
カナダ?が他の世界と歩みをともに開始したのは、地域によって異なる。イギリスが現在のケベック州?を獲得したのは、フレンチ・インディアン戦争?に勝利した結果、ケベックに対して、宗教の自由を認めたことによって、フランスから譲渡を受けたことからイギリス領の歴史は始まった。とはいえ、当時のイギリスの支配が及ぶ地域は、東海岸からせいぜい西は現在のケベック州?オンタリオ州?までだった。

それでは、その西あるいは北の地域は誰に所属していたかといえば、イギリスの国策会社であるハドソン湾会社?の私有地だったし、また、カナディアン・ロッキー?よりも西となるとロシア、スペインとイギリスが勢力を競合していた。また、現在のカナダ西部においては、アメリカ合衆国との国境線は正確には定まっておらず、1846年?になって、ようやく北緯49度線をもって国境線と定められた。

1858年?ブリティッシュ・コロンビア?がイギリスの直轄植民地となり、1866年には、バンクーバー島?がブリティッシュ・コロンビアに加入することによって現在のカナダの領域が確定した。しかし、カナダの存亡に関しては、隣国のアメリカ合衆国の膨張主義との格闘を控えていた<ref>園田英弘 『世界一周の誕生』 文春新書、2003年、pp.180-183。</ref>。1867年7月1日、外港・軍事を除く領域において政治的自立を達成したカナダ自治領は、現在のノヴァスコシア州?ニューブランズウィック州?、オンタリオ州、ケベック州によって構成され、その人口は、約330万人にとどまっており、その80%は、オンタリオ州とケベック州に居住していた。

カナダが近代化を遂げるようになったのは、1869年?にハドソン湾会社が所有する私有地をカナダ自治領に取り込んだこと、1871年?には東海岸と西海岸を鉄道で結ぶ決定をカナダ政府が行ったことである。この決定の背景には、ブリティッシュ・コロンビア州がカナダ自治領に参加したことにあった。また、アメリカ合衆国が大陸横断鉄道の建設に成功し、両海岸を鉄道で結んだことによって、太平洋進出に関してはアメリカに対して遅れがちだったイギリスの焦燥があった。

カナダ太平洋鉄道?が会社組織として結成され、1875年?に、両海岸から鉄道の建設が始まった。この建設は2年遅れで開始したものだったが、1885年?には、鉄道は連結され、翌年には列車の運行が開始された。また、この会社には汽船会社も含まれており、1887年?からは、バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー?から横浜市|横浜?神戸市|神戸?を経由して香港?マニラへ10日間で結ぶ航路とバンクーバーからホノルル?スバ?オークランド_(ニュージーランド)|オークランド?を経由してオーストラリア?シドニー?へいたる航路を運行した。

アジア・アフリカ諸地域の変容と日本

オスマン帝国の改革
「東方問題」(上述)の深刻化と国家的危機に直面し、列強から「瀕死の重病人」とよばれるにいたったオスマン帝国では、アブデュルメジト1世?が1839年にムスタファ・レシト・パシャ?に起草させたギュルハネ勅令?を発布し、これを嚆矢としてタンジマート?(恩恵改革)とよばれるスルタン専制下での近代化政策が展開した。これは、ムスリム?・非ムスリムに関わらず、全ての帝国臣民は法の下の平等?にあること、全臣民の生命・名誉・財産を保障すること、裁判?の公開を実現すること、さらに、民衆を苦しめていたイルティザーム?(徴税請負制度)を段階的に廃止するというものだったが、保守派の抵抗も強く、改革に必要な資金を西欧列強に依存したため、帝国の財政は破綻に向かっていった。

クリミア戦争?後、自由主義思想の影響を受けた官僚や知識人から、立憲政治を求める声が高まり、1876年?アブデュルハミト2世?ミドハト・パシャ?起草によるミドハト憲法?を制定した。これは、タンジマートの成果を盛りこみ、二院制議会の開設と責任内閣制を定めた、アジア最初の近代憲法として画期的なものだったが、翌年、露土戦争?中にスルタン、アブデュルハミトは憲法を停止し、専制政治を続行した。
エジプト、イランの変化
ムハンマド・アリーの後を継いだイブラーヒーム・パシャ?は、引き続き、エジプトの近代化を推進した。その成果の1つが、スエズ運河?の着工である。1873年?に完成したスエズ運河は、地政学上、要地だったエジプトに対して、ますます、イギリスの関心を喚起させる結果となった。というのも、スエズ運河を経由することで、ヨーロッパとイギリスの航行日数が従来のケープタウン?経由と比較して、大幅に短縮されたからである。また、スエズ運河の建設によって、北アフリカで最も肥沃だったエジプトですらも経済的に困窮させることとなった。イブラーヒームは、スエズ運河の株式をイギリスに売却することで難局を乗り切ろうとするが、最終的に国家財政は破綻し、エジプト財政はヨーロッパの管理下に置かれた。多くのヨーロッパ人が内閣に参加した。さらに、陸軍のリストラも敢行された。

着々と半植民地化が進む中で、エジプト人は不平を溜め込んでいった。もともと、ムハンマド・アリー朝の首脳部はトルコ系チェルケス人が枢要を占めていたし、さらに、その中でヨーロッパ人が内閣に参加することで、彼らの出世の道は小さくなっていたし、農民は、課せられた重税を耐え切れなくなっていた。その中で陸軍大佐アフマド・ウラービー?を中心とする勢力が革命を起こした。「エジプト人のためのエジプト」を掲げたウラービー革命?は、1882年?のウラービーの陸軍大臣就任で頂点に達した。しかし、これ以上の革命?の拡大を看過できなくなったイギリスは、エジプトへの介入を開始する。アレクサンドリア砲撃を皮切りにエジプトに介入した結果、革命は終焉を迎えた。ウラービーはスリランカへ流され、エジプトはイギリスの保護国となった。ウラービー革命後、エジプト国民主義?汎アラブ主義?、イスラーム主義の三者の対抗がエジプトの政治で展開されるようになった<ref>加藤博 『「イスラムvs.西欧」の近代』 講談社現代新書、2006年、pp.133-136。</ref>。

ガージャール朝?の時代だったイラン?もイギリスとロシアの半植民地化が進んでいった。イランの半植民地化が本格的進むのは、1856年?のガージャール朝によるヘラート?侵攻を起因とする。ナーセロッディーン・シャー?は、アフガニスタンへの進出を企図していたがアフガニスタンをイギリスとロシアの干渉国にしたいイギリスは、南部の港湾都市ビーシェヘルに上陸し、軍事的圧力をかけた。翌年、パリ条約_(1857年)|パリ条約?をイギリスと締結し、ヘラートへの領土的打診を放棄し、さらに、イギリスとロシアに対して様々な商業特権を与えると同時に、治外法権の放棄と領事裁判権を承認することとした。その結果、他のヨーロッパ列強もイギリスとロシアに追随し、多くの商業特権を得た。

ヨーロッパ諸国がイランに進出することにより、イランもまた、トルコやエジプトと同様に、世界経済に組み込まれていった。ペルシャ絨毯?がヨーロッパで珍重されるようになったが、その逆に、廉価な織物がイラン国内に流入したために、零細な織物業者に打撃を与えていった。また、イランも、原料供給地としての性格を帯びるようになり、木綿|綿花?果物?ナッツ?アヘン?といった農作物を生産するために、大土地所有者による農地の買占めが展開され、重税にあえぐ農民の中では不満が生まれていった。その中、ナーセロッディーン・シャーがイギリスのメイジャー・タルボットにイランで生産されるタバコの独占的販売権を75年間供与したことに起因し、1890年?タバコ・ボイコット運動?が起こった。この供与の事実をトルコの日刊紙が報じたことにより、イラン全体に、暴動が波及した。この事件を契機に、ヨーロッパ列強と結託した王政に対しての反対運動が芽生えると同時に、イラン国民というアイデンティティ?がもたげ始めた<ref>宮田律 『物語 イランの歴史』 中公新書、2002年、pp.118-127。</ref>。
インドの植民地化
イギリスがインドへの支配を強めるにしたがってインド社会の各層に不満が蓄積され、各地で旧領主の蜂起や農民一揆が断続的に起こっていた。

1857年?デリー?郊外の東インド会社軍駐屯地で、スィパーヒー?(セポイ)とよばれるインド人傭兵が蜂起し、インド大反乱?がはじまった。反乱軍は、蜂起の翌日にはデリーを占領し、すでに年金受領者となっていたムガル皇帝を擁立した。この動きに呼応して旧領主・農民・手工業者などがたちあがり、「反乱」はインド北部一帯から中部にまで及んだ。イギリスは、アロー戦争?で中国に出動させる予定の兵力をインドにまわし、ネパール?グルカ兵?など周辺諸民族も利用して、鎮圧に当たった。反乱軍は強力な指導者を欠いていたため、勢力はしだいに分裂した。

1858年?パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル|パーマストン?内閣はムガル皇帝を廃位させ、失政の責任をとらせるとして東インド会社を解散、本国政府(インド省 (イギリス)|インド省?)による直接統治体制を確立させた。そして、1877年?ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ?内閣のとき、ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王?をインド皇帝とするインド帝国?を樹立させた。

大反乱後のイギリスは、藩王国?の存続をはかるとともに懐柔策をうちだし、インドにおける宗教対立やカースト?上の差異を利用する分断統治を行った。1870年代から80年代にかけては飢饉による反乱が頻発した一方、インド人のなかから綿業を中心に民族資本家がうまれ、富裕な商人・地主、さらに大学?教育をうけて官吏?弁護士?になる者などのエリート?層が台頭した。かれらは、西欧近代思想にふれてインド社会を批判したり、逆にインドの伝統を重視してインド改革の道を模索するなど、政治・文化において多様な運動を展開していった。1885年?、イギリス人官僚アラン・オクタヴィアン・ヒューム?:en:Allan Octavian Hume|en?)によってムンバイ?インド国民会議?が開催された。参加者はインド国民会議派と呼ばれたが、当初はイギリスと協調する穏健派が大多数を占めた。

一方ミャンマー?に対しては、1824年?から3次におよぶ英緬戦争?(イギリス・ビルマ戦争)によってコンバウン王朝?を滅ぼし、1886年?、イギリス領インド帝国に組み込んだ。
東南アジアの植民地化
19世紀?になると、東南アジアは、次々とヨーロッパの植民地に組み込まれていった。現在のマレーシア?シンガポール?ブルネイ?ミャンマー?はイギリス領に、ベトナム?カンボジア?ラオス?はフランス領に、インドネシア?はオランダ領となった。フィリピン?は16世紀以来スペインの支配が続いていたが、米西戦争?でスペインとアメリカ合衆国はフィリピンをめぐって戦争が起きた。植民地化を免れたのは、タイ王国|タイ?のみだった。

1786年?、インドと清国を結ぶ中継地として、イギリス東インド会社は、マレー半島のペナン島?に注目した。イギリス東インド会社は、クダー王国のスルタンに迫り、ペナン島を割譲させた。また、ナポレオン戦争によって、オランダの支配が東南アジアに及ばなくなるとイギリス東インド会社は、次々とオランダ東インド会社が統治する地域を陥落させた。その中で、マレー半島のマラッカは、一度は、ナポレオン戦争後にオランダに返還されたが、1824年?の英蘭協定によって、イギリスに帰属することとなった。加えて、1819年?にはジョホール王国のスルタンから、シンガポール島を割譲させることにより、海峡植民地が完成した。

1848年?、ペラー王国でスズ?の大鉱床が発見されるとイギリスは半島部の開発に着手した。スズ鉱山の開発には中国人労働者が従事した。また、天然ゴム?パームヤシ?プランテーション?経営が展開されることとなり、タミル人?がインドから半島部に流入することとなった。19世紀の人口流入が21世紀の現在に至るマレーシアの多極共存構造が形成される一因となった。その後、半島部マレーシアは、イギリスと各州のスルタンとの間で確執、衝突が繰り返されることとなった。しかし、1895年には、海峡植民地とスランゴール、ペラー、ヌグリ・スンビラン、パハンの4藩王国(この4王国でマレー連合州?が形成される)の行政組織を1つに統合した。さらに、1909年、タイ王国に服属していたクランタン、トレンガヌ、クダーの各王国をタイ王国から割譲させると同時に、独自に近代化の努力を行っていたジョホール王国にも理事官を派遣した。これにより、現在の半島部マレーシアは、イギリスの支配が完成することとなった。

1868年?には、タイ王国でチュラチョームクラオ(ラーマ5世?)が15歳で、即位した。ラーマ5世は、1885年?以降、本格的な国内改革を行うことで、タイの近代化を推進した。当時のタイには、タートと呼ばれる一時的に身体の自由を奪うことを承諾し売買も自由である一種の奴隷?が存在したが、彼らを解放し平民に加えた。また、義務教育?制度を導入するとともに王室指定の留学を促進させた。さらに、中央集権政策の一環として陸軍を中心に近代化を行い、各地の反乱の鎮定に役立てると同時に、イギリス、フランスの進出の抑止力と足りえた。加えて、モントン?(州)と呼ばれる地方制度を導入し、中央集権化を図った。インフラストラクチャー?の整備に腐心することとなった。

しかし、ラーマ5世の改革は、ある程度成果を収めたが、イギリスやフランスと対抗するには不十分だった。フランスには、現在のカンボジアやラオスを割譲することとなったし、前述の通り、イギリスにはタイ王国に服属していた半島部マレーシアの3藩王国を割譲した。

ナポレオン戦争後、イギリスは実行していた現在のインドネシアをオランダに返還した。1830年?ベルギー?がオランダから独立するとオランダは、経済をますますオランダ領東インド?に依存する結果となった。強制栽培制度?:id:Tanam paksa?)と訳出される制度をインドネシアに導入し、現地住民に指定の農作物、例えば、コーヒー?サトウキビ???タバコ?といった国際市場で有望な農産物を強制的に栽培させ、その農産物をヨーロッパへ転売した。

イギリス、オランダに続いて、東南アジアへ参入したのがフランスだった。阮福暎?は、1789年?に、フランス人宣教師であるピニョー・ド・ベーヌ?:en:Pigneau de Behaine?)の集めた傭兵部隊の協力を得て、サイゴン(現在のホーチミン市?)、フエ?を次々と攻略し、1802年には、タイソン朝を滅ぼし、フエを首都に、阮朝?が成立した。

阮朝は、第2代皇帝・明命帝?の際には、フランスからの通商の要求を拒否するとともに、清国へ服属の意思を表明する一方で、いわゆる「まんだら」システムに基づいて、カンボジアやラオスに対して、服属を求めた。カンボジア・ラオスへの進出は、タイとの衝突が起きたが、タイ優位に情勢は傾いていった。さらに、明命帝は、キリスト教の禁止を実施することとなった。

ベトナムへの進出をあきらめることができなかったフランスは、1858年?、サイゴンへ海軍を派遣し、1862年?には、第1次サイゴン条約が締結されるに至った。この結果、フランスは、ベトナムから南部コーチシナ3省が割譲されることとなった。同時に、カンボジアの保護国化にも成功した。フランスのベトナム植民地化は、1884年?清仏戦争?後に締結された天津条約?で完成する。北部(アンナン?と呼ばれた)は、阮朝が建前上残ったので保護国とし、中部(トンカン、あるいはトンキン?と呼ばれた)は、保護領であり、南部は直轄植民地として、ベトナムを経営した。ベトナムの植民地化に成功したフランスは、メコン川?を遡り、1893年?仏泰戦争?で、タイを圧倒すると1904年?には、保護国化が完了した。ここにフランス領インドシナ?が完成することとなった。

最後に、東南アジアに進出を行ったのが、アメリカ合衆国だった。1890年?に、フロンティア消滅を宣言すると、アメリカの関心は、太平洋に向かった。1898年?2月15日?キューバ?のハバナ湾に停泊していたメイン (ACR-1)|戦艦メイン号?が爆破されるとアメリカ国内の世論は、スペインへの報復を支持する動きが高まった。当時の大統領ウィリアム・マッキンリー?は、高まる開戦の世論を何とか阻止しようとしたが、4月には、キューバ独立のために、スペインが撤退することを促す議会可決を承認すると同時に、スペインと交戦状態になった(米西戦争)。フィリピン、キューバ、グアム?の各地で、スペインを圧倒したアメリカは、8月12日に停戦し、12月10日に締結されたパリ条約でもって、スペインの植民地のほとんどを獲得するにいたった。しかし、フィリピン戦線の緒戦であるマニラ湾の戦いとその後のマニラ入城の際に、共闘したフィリピン軍をマニラに入れなかったために、アメリカとフィリピンの間で対立が生じることとなった。その結果、14年間に及ぶ米比戦争?が始まった。
ロシアの東方進出
ロシアは東方にも南下していった。日本には、エフィム・プチャーチン?が派遣され、1855年に日露和親条約?を、1858年に日露修好通商条約?を締結した。日露和親条約でウルップ島?以北をロシア領とし樺太?は日露雑居という形になったが、明治時代になって樺太千島交換条約?千島列島?は日本領に編入され、樺太はロシア領に編入されることとなった。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー?はアロー戦争の調停を理由に、1858年にアイグン条約?を締結し黒竜江?を露清間の国境と定め、ウスリー川?以東の沿海州を共同管理地とし、その後1860年の北京条約?で沿海州をロシア領に編入することに成功し、ウラジヴォストーク?(Владивосток)を建設した。

中央アジアではブハラ・ハン国?ヒヴァ・ハン国?コーカンド・ハン国?といったウズベク?族の3ハン国を支配し、ロシアの原料供給地と化すことに成功した。東トルキスタンでヤクブ・ベクが反乱を起こすとそれに介入し、結果としてイリ地方の一部を割譲させることに成功。その後アフガニスタン?を巡ってイギリスとの衝突を繰り広げることとなった。
清朝への外圧の高まり
アヘン戦争の後、イギリスのアヘン貿易は拡大したが、現地の商業ネットワークに食い込むことが出来ず、肝心の工業製品は拡大しなかった。イギリスでは貿易拡大のためにもう一度戦争も辞さずという雰囲気が高まり、1856年?のアロー号事件は戦争を起こす為の導火線となった。同時期にインドシナ半島から中国大陸に進出を伺っていたフランスもキリスト教宣教師が殺害されたことを口実に出兵し、1857年?アロー戦争?(第2次アヘン戦争)が勃発した。

最終的には天津条約?北京条約?で英仏両国は外国公使の北京駐在、キリスト教布教の自由、外国人の中国での旅行と貿易の自由、外国商船の河川航行の自由、新たに南京等10港の開港、イギリスに九竜半島?を割譲するといったものだった。その結果、清は1861年に総理衙門?を設置し従来の冊封体制による伝統的外交政策が破綻することとなった。また、調停に入ったロシアも清から沿海州?を獲得し、東方方面の南下政策を強めていった。1858年のアイグン条約?で沿海州は露清の共同管理となった。

同じころ、キリスト教の影響を受けた客家?出身の洪秀全?広西壮族自治区|広西省?金田村で1851年に挙兵して「太平天国」をたて、1853年に南京を占領して首都とした。太平天国は、清朝の打倒と漢民族の復興(「滅満興漢」)をかかげ、土地の均等分配や租税の減免などをうったえて勢力を拡大したが、指導者間での内部紛争に加え、各地の有力な地主(郷紳)たちは曽国藩?李鴻章?左宗棠?など各地の漢人官僚と結んで義勇軍を組織し、常勝軍?を率いたフレデリック・タウンゼント・ウォード?チャールズ・ゴードン?(ウォード死没後、常勝軍を指揮)ら外国人将兵の協力もあって、1864年?になってようやく太平天国軍を鎮圧した(太平天国の乱?)。これによって、曽国藩や李鴻章、左宗棠などの漢人官僚の政治的地位が向上し、「中体西用?」を旗印にして清朝の改革に乗り出していく。
明治維新と日本の近代化
江戸幕府?は、1853年のマシュー・ペリー?ひきいるアメリカ艦隊が来航。ペリーの報告書『日本遠征記』によれば、ペリー艦隊が江戸湾に入っても、1日数十隻の船が艦隊のすぐそばを通って江戸に物資を運んでいた。佐藤誠三郎は、このように日本が沿岸航路の発達と国内市場の形成が進んでいたため、経済秩序を防衛する意識も高かったと論じている<ref>佐藤誠三郎・岡崎久彦 『日本の失敗と成功—近代160年の教訓』 扶桑社、2000年。</ref>。この来航をきっかけに、1854年?日米和親条約?を、1858年?には不平等条約である日米修好通商条約?を結んだのに続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスともほぼ同じ内容の条約を結んで開国にふみきった(安政の五カ国条約?)。なお、ペリーは1854年に琉球との間にも琉米修好条約?を結んでいる。

幕府は江戸湾はじめ各地に台場?を設け、1855年に長崎海軍伝習所?をつくり、1862年?、太平天国の情勢視察のために、諸藩からの選抜者をのせた千歳丸?上海市|上海?に派遣し、同年には西周 (啓蒙家)|西周?榎本武揚?をオランダに留学させるなどの対策を講じたものの、すでに百姓一揆などによってその支配体制に亀裂をみせはじめており、この外圧に大きく動揺した。

開国後の混乱のなかで諸藩の下級武士を中心とする攘夷運動?は、天皇?をいただく討幕運動?に発展し、最後の将軍徳川慶喜?が政権を朝廷に返上して幕府統治は終焉をむかえた(大政奉還?)。

1868年、天皇を中心とする新政府が樹立され(明治維新?)、五箇条の御誓文?を発して「開国和親」など基本方針が打ち出された。新政府は版籍奉還?廃藩置県?などの施策により中央集権体制を整え、四民平等?廃刀令?徴兵令?秩禄処分?などによって旧武士の特権を否定する一方で国民国家の形成を急いだ。また、地租改正?によって近代的な土地所有関係を規定して、資本主義的経済発展の基礎とするとともに国家財政の財源を確保した。政府は、条約改正のための予備交渉を主目的とする岩倉使節団?を派遣して政府指導者に世界の情勢を見聞させ、積極的に欧米の制度・文物をとりいれて富国強兵?殖産興業?をめざした。

新政府の施策の多くは効果的なものだった反面、国民各層とくに特権を失った士族?と地租の重税に苦しむ自作農?にとってはきわめて不満の多いものだった。それは、佐賀の乱?をはじめとする士族の反乱、そして西南戦争?後は、言論による政府批判としての自由民権運動?をひきおこした。こうした動きに対し、政府は、地租の軽減や立憲政体の詔書|漸次立憲政体樹立の詔?国会開設の勅諭?などで応じるとともに反政府活動を厳しく取り締まるなど、弾圧と譲歩で対処した。1885年の内閣 (日本)|内閣制度?の設置、1889年の大日本帝国憲法?の発布、1890年の第一回総選挙および帝国議会?の開設など、近代法および政治制度の整備にもつとめ、対外的には1875年にロシアと樺太・千島交換条約?を結ぶ一方で琉球?小笠原諸島?を領有して南北の国境を定めた。日本はこうして19世紀後半にはアジアで唯一の自立的な近代国家となっていった。
朝鮮の開国
!国名||最初に開国させた国||開港年、条約||最初の開港場
|-
|清国||イギリス?アヘン戦争?||1842年?南京条約?||広州市|広州?福州?アモイ?寧波?上海市|上海?
|-
|日本||アメリカ合衆国|アメリカ?ペリー?来航||1854年?日米和親条約?||下田市|下田?函館市|箱館?
|-
|朝鮮||大日本帝国|日本?江華島事件?||1876年?日朝修好条規?||釜山広域市|釜山?仁川広域市|仁川?元山市|元山?
東アジア3国のなかで最後に開国したのは李氏朝鮮?であり、日本よりも22年、宗主国の清国よりも34年遅れた。この3国は、近世においては、いずれも鎖国?ないし海禁?政策を祖法とし、国家が限られた場所を設定して官吏による統制貿易を行っていた。限られた場所とは、清国では広州、日本では長崎だったが、朝鮮の場合は釜山広域市|釜山?倭館#近世倭館|倭館?だった。いずれにせよ、自ら国をひらいて民間人による自由貿易?を始めた国はなかった。また、どの国も「砲艦外交」すなわち外国によって軍事的圧力や示威行動によって不平等条約を押しつけられたことから開国した点でも共通している。しかし、その帰趨は3国それぞれで異なった。

19世紀半ばの朝鮮では国王高宗 (朝鮮王)|高宗?の実父である興宣大院君?が摂政として実権を握り、強力な鎖国政策を進め、キリスト教弾圧も行っていた。1873年?、王妃閔妃?による政権が成立して勢道政治が復活すると大院君の一派は追放され、閔氏政権はそれまでの攘夷路線から開国に転じた。1875年?、日本海軍の軍艦雲揚 (軍艦)|雲揚?が挑発的な演習を行い朝鮮側から砲撃を受けた江華島事件?を機に、明治新政府は朝鮮に開国を求め、閔氏政権はそれに応じて、翌年日朝修好条規?を結んだ。これは、釜山など3港の開港とともに治外法権や無関税を規定した不平等条約だった。これにより、アメリカとの間に米朝修好通商条約?、イギリス、ドイツとも同様の条約を結び開港を行ったが、それにともなう経済悪化に不満をもつ兵士や民衆は、1882年?壬午事変?(朝鮮事変)を起こし、王宮や日本公使館を襲撃して大院君を擁立した。清朝はこれに介入して大院君をとらえ、閔妃を中心とする親清派が勢力を盛り返した。

閔妃を中心とする事大党?(親清派)に対し、日本の近代化に着目した金玉均?朴泳孝?らの独立党(開化派?)は、日本と結んで改革を進めようとし、1884年?に日本の武力を借りて閔氏政権をたおした。このクーデタを甲申政変?という。しかし、清軍の進撃によって独立派の政権は敗退し、金玉均らは日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約#1885年、清国と日本が結んだ条約|天津条約?を結び、おたがい朝鮮から撤兵することと、派兵の際には相互に通知しあうことなどを約した。

朝鮮の開国により、東アジア全域も世界資本主義の枠組みのなかに完全におさまることになった。

帝国主義時代

1870年代以降、欧米諸国では重工業?を中心に生産力が増大するとともに、企業の集中と独占がすすみ、大企業と大銀行が結合してさまざまな産業を支配した。この傾向は、アメリカ合衆国やドイツでとくに強くみられ、工業生産力におけるイギリスの圧倒的優位はくずれてきた。列強は、市場?原料?の獲得だけでなく、資本?を投下し利潤?を求めるため、きそって海外に向かい、世界各地で軍事衝突をひきおこしながら自国の植民地や勢力圏を拡大していった。その結果、列強はしだいに対立を深めていくとともに、従来は資本主義経済の影響のおよばない空白地域だったアジア内陸部、アフリカ大陸、太平洋諸地域もこれら諸国によりすみずみまで分割され、「分割を通じた世界の一体化」が進行した。また、ヨーロッパ以外のアメリカ合衆国や大日本帝国?もこの競争に参入し、さらに中国、トルコ?イラン?などの古い文明国も分割の対象となった。

このように、資本主義の高度に発達した段階とそれに対応する列強の対外膨張策は帝国主義?とよばれる。時代区分としては、一般に世紀転換期から第一次世界大戦までを帝国主義時代と呼称する。
科学技術の発達と重工業の発展
イギリスで18世紀にはじまった繊維産業などの軽工業を中心とした工業化を産業革命|第一次産業革命?とよぶのに対し、19世紀後半のドイツやアメリカの重工業を中心とした高度の科学技術による工業化を「第二次産業革命?」とよんでいる。この時代は、物理学、化学を中心に相次いで現代の技術の根幹となる法則が発見され、それらを元に現在でも使われる商品が相次いで発明された時代だった。そして、重要な交通手段となる自動車?飛行機?の開発や実用化が進展したのも、この時期だった。

この頃、運河・鉄道の開通が世界の一体化に拍車を掛けた。1872年に出版された、フランスのジュール・ヴェルヌ?の小説『80日間世界一周?』は、当時世界中にはりめぐらされていた鉄道網と蒸気船?の発達、および1869年のスエズ運河?およびアメリカ大陸横断鉄道?の開通を背景にしているとされる。とりわけ、スエズ運河の開通によってアジア航路は従来の喜望峰経由よりも大幅に短縮された。1914年にはアメリカ大陸でパナマ運河?も開通した。

物理学の分野では、ヘルムホルツ?らがエネルギー保存の法則?を発見し熱力学?の発展の嚆矢となり、1876年、ドイツのニコラウス・オットー?ガソリン?で動作する内燃機関?ガソリンエンジン?)を発明すると、ゴットリープ・ダイムラー?がこれを改良し、二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行って1885年にダイムラーによる特許が出された。同年、ドイツのカール・ベンツ?は、ダイムラーとは別にエンジンを改良し、車体から設計した3輪自動車を製造した。1907年には、アメリカのヘンリー・フォード?フォード・モデルT?を発売している。フォードは、流れ作業?による大量生産方式を採用して製造コストを引き下げることに成功し、のちに巨大産業となる自動車産業の基礎をつくった。

アメリカの自転車屋だったライト兄弟?が初飛行に成功したのは1903年?のことだった。以後、飛行機の開発と実用化はまたたく間に進展し、第一次世界大戦までにすべての先進国が保有するまでになった。

鉄道や運河に加えて世界の一体化を推進したのは情報伝達手段の発達だった。サミュエル・モールス?が1837年に電信機?を開発すると急速に普及し、ドーヴァー海峡?には早くも1851年、大西洋には1865年に海底電線が敷設され、20世紀はじめには全世界が電信でむすばれるようになった。さらに、1876年にはグラハム・ベル?電話?を開発し、グリエルモ・マルコーニ?は1895年に無線電信を開発した。

19世紀後半は、先進諸国の民衆の生活の向上や政治制度の改革、公教育の普及、時代を反映した世界への関心などにより各国で新聞?雑誌?などのマスメディア?が大きな役割を果たすようになった。電灯?蓄音機?を開発して「発明王」とよばれたトーマス・エジソン?は1893年に映画?を発明したが、これらは20世紀のラジオ?テレビ?などへ発展していく技術の基礎となった。

マイケル・ファラデー?ジェームズ・クラーク・マクスウェル?らが電磁気学?を確立していくと、電気?が新たにエネルギー源として普及し始めた。ピエール・キュリー?マリ・キュリー?夫妻が世界で初めて放射性物質であるラジウム?を1898年に発見し、原子物理学?の端緒となった。1905年にはアルベルト・アインシュタイン?特殊相対性理論?を発表、1915年から1916年には一般相対性理論?を発表し、アイザック・ニュートン?以来のニュートン力学?を書き換えることとなった。

化学分野では、ユストゥス・フォン・リービッヒ?有機化学?の基礎を確立した。これが元になり有機肥料?の生産が始まり、農業に使われていくことになったり、合成染料、化学繊維、合成ゴムが開発されていった。また、アルフレッド・ノーベル?ダイナマイト?を開発したのもこの時期である。

医学・生物学の分野では、チャールズ・ダーウィン?進化論?グレゴール・ヨハン・メンデル?メンデルの法則?といった生物学の基礎がつくられていった。感染症対策の研究も進むようになり、ルイ・パスツール?狂犬病?の予防接種に成功し、ロベルト・コッホ?結核菌?を発見、北里柴三郎?ジフテリア?破傷風?の治療法を確立、志賀潔?赤痢菌?を発見した。

このように物理学、化学分野を中心とした技術革新は重化学工業の発達を促したが、重化学工業が産業として確立するには、巨大な設備投資と設備投資に見合った商品の大量消費が必要となった。そのため、企業の集中と合併が相次ぎ独占資本?が形成され、独占資本は国家と結びつき、軽工業の時にもまして原料供給地と商品市場を希求していくことになった。
スポーツ分野での一体化
帝国主義は、スポーツ分野での世界の一体化をも促進した。フランスのピエール・ド・クーベルタン?は歴史書に記された古代オリンピック|オリュンピアの祭典?の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説のなかで近代オリンピック?を提唱し、賛同者をつのって国際オリンピック委員会?(IOC) を設立して、1896年?には第1回近代五輪大会となるアテネオリンピック (1896年)|アテネオリンピック?の開催にこぎつけた。1904年には、オランダ、スイス、スウェーデン、スペイン、ドイツ、デンマーク、フランス、ベルギーの8か国で国際サッカー連盟?(FIFA)が創立された。初代会長は、フランスのロベール・ゲラン?だった。
モノと人の移動
この時代、工業国である帝国主義列強が周縁(植民地や従属国など)の農業地域への支配を広め、強めることを通じて世界の一体化が加速した。上述のように鉄道、大型汽船、電信など交通・通信網が発達して、モノ・人・情報の流れも太くなった。世界貿易?1870年?から1913年?のあいだに4倍にもふえた。

また、19世紀のヨーロッパでは、人口?の増大や交通機関?の発達などにより、大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中がみられる一方海外移民も増加した。第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は6,000万人におよび、19世紀はまさに「移民の世紀」だった。

最大の移民受け入れ国はアメリカ合衆国であり、その数は1821年?から1920年?までの100年で約3,300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が多くみられ、これは各国の工業化?の進展の時期のずれを示している。人口増加や貧困?などの経済的な要因だけでなく、迫害?を受けたユダヤ人?のように政治的な要因からの移民もおこなわれた。18世紀までのヨーロッパからの移民がおもに年季奉公|年季契約?のかたちをとった労働移民だったのに対し、19世紀には自由移民が主流となった。また、19世紀なかばに黒人奴隷が解放されると中国やインドから労働者をやといいれ、不足する労働力をおぎなった。

ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカ植民地では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの植民がなされた。また、世界的な奴隷制度廃止にともない、鉱山や農園(プランテーション)開発や鉄道建設のため、アジアからの労働移民が東南アジアやアフリカ大陸にわたった。

東南アジアにおける植民地経営を支えていたのは、マレー半島?ゴム??インドネシア?の農業生産などであり、そこで必要とされた労働力は、中国南部やインド南部から調達された。かれらの多くは契約労働者だったが、現地に定住する者も少なくなかった。これにともない商業?活動に進出する者も増え、これらの中国系移民(華僑?)とインド系移民(印僑?)は、その後、東南アジア各地で大きな影響力をもつこととなった。

アフリカへの移民はインドからが多く、イギリス帝国のもとではイギリス植民地相互の植民もおこなわれた。

なお、アメリカ大陸・オーストラリア・南アフリカのアジア系移民は、白人労働者と競合したため、黄禍論|黄禍?として排斥されたり、移民を制限されることもあった。1870年代にはカリフォルニア州で中国人排斥の動きが高まり、1882年には中国人移民禁止法?アメリカ合衆国議会?で成立した。また、オーストラリアではアジア系移民を認めない白豪主義?が採用された。

その一方で、世界の一体化にともない、上流階級の特権だった旅行もしだいに大衆化した。トマス・クック?は、1841年鉄道を利用した格安のパック旅行を始め、のちに海外旅行も扱った。1880年代にはエジプトやインドなどイギリス帝国圏に事業を展開していった。
アメリカ合衆国の経済成長と海外進出
南北戦争の節でも触れたように、南北戦争による北軍の勝利は、北部の資本による米国市場の統一を意味した。大陸横断鉄道?の開通により、米国市場の統一が進んだ。アンドリュー・カーネギー?鉄鋼?の需要を見越し、キーストン鉄橋会社を設立し、事業に成功し鋼鉄王の異名を取り巨万の富を得た。また、ジョン・ロックフェラー?1863年?スタンダード・オイル|スタンダード・オイル社?を設立し、買収を繰り返し石油事業の独占を進めていった。金融業界では、ジョン・モルガン?が父であるジニーアス・モルガン?よりJ. S. モルガン&カンパニーの事業を受け継ぎ、JPモルガン・チェース?を設立。1892年エジソン・ジェネラルエレクトリック社とトンプソン・ヒューストンエレクトリック社の合併を実現させ、ゼネラル・エレクトリック?を、1901年にはカーネギーが持つ製鉄会社を買収し、その他複数の製鉄会社と合わせてUSスチール?を設立。金融業界から電気、鉄鋼などの産業への支配を強めていった。彼ら資本家は事業の成功で得た富を慈善事業に使ったことより、泥棒男爵?と揶揄された。

金融資本、鉄鋼、石油といった産業資本による独占資本?の形成は、放置しておくと市場の競争の阻害要因となってしまった(市場の失敗?の発生)。その為、連邦政府は、1890年?シャーマン法?を制定し独占の阻止を図った。

一方、農民や労働者階級の貧困による不満が高まるようになってきた。サミュエル・ゴンパーズ?は待遇改善のために、1886年?アメリカ労働総同盟?を設立した。また、人民党_(アメリカ合衆国)?:en:Populist Party (United States)|en?)が1892年設立され、中西部や南部の農民の支持を得た。

フロンティア?の消滅及び第二次産業革命?の進展による重化学工業の発展の結果、米国国民は新たな市場として海外市場を希求した。その結果、歴代のアメリカ大統領は世論に応えるべく、対外的に膨張政策を推進していった。

ウィリアム・マッキンリー?大統領はモンロー主義を脱却し、米西戦争?及びその後の米比戦争?でフィリピン、グアム?プエルトリコ?を獲得し、ハワイ王国?を米西戦争中に併合した。後を襲ったセオドア・ルーズベルト?棍棒外交?を推進し、コロンビア?からパナマ?を独立させ、パナマ運河?の工事権及び租借権を獲得する一方、日露戦争?ではロシアの南下政策に対抗するために日本を支持、ポーツマス条約?を周旋した。日露戦争後、日露両国の満州に対する半植民地化(日露協約?)を牽制するために、1907年?アメリカ海軍による世界一周航海のためグレート・ホワイト・フリート?を派遣した。ウィリアム・H・タフト?は中南米や東アジアに米国の資本による影響を与えるといったドル外交?:en:Dollar Diplomacy|en?)を推進した。
太平洋地域の分割と自治国の成立
オセアニア?は18世紀後半にイギリスのクック(上述)、フランスの航海家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンヴィル|ブーガンヴィル?が探検していた。

カメハメハ1世 (ハワイ王)|カメハメハ大王?(カメハメハ1世)はハワイ諸島?を統一して1810年にハワイ王国?を建国したが、1893年の革命で共和制となり、1898年、マッキンリー大統領がハワイの米国領への編入を宣言。この日、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ州の旗|ハワイ王国国旗?が降ろされ、アメリカ合衆国の国旗|星条旗?が揚げられた。続いてフィリピン、グアムがアメリカに併合された。

太平洋地域でフランスが領土としたのは、1853年にフランス領となったニューカレドニア?や、1880年に正式に植民地となったタヒチ?があった。

ドイツ領としては、1884年に保護領となったビスマルク諸島?、1885年のマーシャル諸島?、1893年のソロモン諸島?北部、1899年にスペインからドイツに売却されたカロリン諸島?マリアナ諸島?パラオ諸島?、1885年に植民地となったニューギニア島?北東部などがあった。

イギリスは、1884年にパプア・ニューギニア?、1888年にボルネオ島?北部、1893年にソロモン諸島南部、1900年にトンガ?を領有し、さらに1906年にニューヘブリデス諸島?をフランスとの共同統治領とするなど、太平洋地域の島嶼部はこの時代、列強の争奪の的となった。

オーストラリアは一時イギリスの流刑地とされていたが、1850年に一定の自治権をあたえられ、51年の金鉱発見以降移民が増えた。アボリジニを追いやり、中国人移民を排斥して「白豪主義?」をかかげたオーストラリア連邦?(Commonwealth of Australia)は、1901年にイギリス帝国内の自治国となった。またニュージーランド?では19世紀に植民したイギリス人と先住民マオリ?の戦いが続いたが、1893年、世界にさきがけて婦人参政権?を実現し、1907年にやはりイギリス帝国の自治国となった。
アフリカの分割とボーア戦争
19世紀前半、ヨーロッパ各国は奴隷貿易を廃止するとともに、「暗黒大陸?」とよばれたアフリカへの関心を高め、多くの探検がなされた。アフリカの資源のゆたかさが明らかになると、列強は侵入をくわだて、アメリカ出身の探検家ヘンリー・モートン・スタンリー?から情報を得たベルギー王レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世?コンゴ民主共和国|コンゴ?を支配した。一方、1882年?にイギリスがウラービー革命?を武力で鎮圧してエジプトを占領し、事実上保護領化とした。これらが引き金となって列強によるアフリカ分割が一気に加速した。

ベルギーのコンゴ支配に関して、1884年?、ビスマルクの提唱によりベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議?がひらかれ、列強は「アフリカの土地先占権」(「無主地」の「有効な占有」)の原則を認めてアフリカ分割の合意がなされた。ここに侵略競争が公然と始まったが、ヨーロッパ諸国はアフリカ分割に際し、部族の相違や住民の文化・社会慣習を無視して境界線を引いたため、古くからの住民相互のきずなが断ち切られる一方で、あらたな対立が生じた。1960年代以降の独立後も植民地時代の境界が新国家の国境となって内戦や紛争の原因になっている。経済的な搾取に加えて、こうした政治的な分断支配に対しアフリカ各地で抵抗をよびおこした。

エジプトの属領だったスーダン?では、ウラービー革命とほぼ同時期に「マフディー?」(「救世主」という意味)を名のる指導者ムハンマド・アフマド?があらわれ、外国支配や重税に不満をいだく民衆を結集して立ち上がった。イギリスが軍事介入をこころみたが失敗し、10年以上を費やして、ようやく1898年?にマフディー国家を滅ぼしてスーダンを支配下におくことに成功した。しかし、このイスラーム教徒の戦いは、アフリカ各地の部族連合王国の抵抗を勇気づけた。

1879年?、アフリカ南部においてズールー王国?がイギリスの侵略に抵抗した。イギリスはさらに、セシル・ローズ?率いるケープ植民地?の北方にボーア人<ref>ブール人とも。「農民」の意味。もともとはオランダ東インド会社による蔑称だった。</ref>がたてたトランスヴァール共和国?オレンジ自由国?に侵入し、ボーア戦争?をおこした。イギリスは、激戦のすえ最後の戦いに勝利したものの、その強引な侵略、非人道的とも思える強制収容所の設置や焦土作戦などを行ったため国際世論の批判を浴びた。このことは、のちに従来の「栄光ある孤立」とよばれる非同盟外交を改めて日本との間に軍事同盟を結ぶ契機となった。イギリスは1910年?南アフリカ連邦?を成立させ、自治領?とした。こうしてイギリスは、カイロ (エジプト)|カイロ?ケープタウン?をむすぶ地域に勢力をおくアフリカ縦断政策をすすめた。

一方、フランスはセネガル?アルジェリア?からサハラ砂漠?を東進してインド洋?沿岸のジブチ?に向かうアフリカ横断政策をとり、1881年?にはチュニジア?を保護国化した。西アフリカのギニア?では、サモリ・トゥーレ?のひきいる民衆がフランスに抵抗した。また、東進するフランスとエジプトから南進するイギリスとがスーダン南部で遭遇するファショダ事件?(後述)が起こっている。

ドイツ帝国?カメルーン?、東アフリカ(現在のタンザニア?)、西南アフリカ(現在のナミビア?)などを領有し、皇帝ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世?は二度にわたるモロッコ事件?(後述)を引き起こした。

こうしたなか、エチオピア?1896年?アドワの戦い?でイタリア軍をやぶり独立を守った。こののちエチオピアは周辺諸国を分割する側にまわった。

イタリアはこののち、オスマン領だったトリポリ?キレナイカ?(ともに現在のリビア?)を占領した。

こうして、1876年?には大陸全体の1割に満たなかった植民地の占める割合が、1900年?には9割におよぶまでとなり、第一次世界大戦前の独立国はエチオピア|エチオピア帝国?リベリア共和国?だけになってしまった。
清朝による近代化の挫折と中国の分割
咸豊帝?が若くして死ぬと、権力を掌握したのが西太后?だった。西太后は東太后?、咸豊帝の弟である恭親王奕訢?と提携し、辛酉政変?によって反対派の粛清に成功すると、幼い同治帝?に代わって政治の実権をにぎり、東太后とともに垂簾聴政を実施した。

恭親王奕訢は清朝の後進性を打破するために、曽国藩や李鴻章、左宗棠といった漢人官僚を登用した。彼らは、西洋の近代技術を取り入れ軍隊の近代化を図るべく、1861年に曽国藩が安慶内軍械所を建設するなど、1860年代には兵器工場を建設し<ref>池田誠ほか 『図説 中国近現代史 第2版』 法律文化社、2002年、pp.48-49。</ref>、1880年代になると、繊維工場を建設していった。しかし、これらの工場は「官督商弁」と呼ばれる半官半民の企業であり、その実態は乱脈経営を行う商人を官僚が監督するといったものだった。

同治帝の時代は、ともかくも内政面では諸外国からの圧力が減少し、洋務派の手によって中体西用?の路線が採られ、皮相的にではあるが西洋技術を採用して「同治中興」と呼ばれる比較的安定した時代となった。しかし、1875年に同治帝が18歳の若さで死去し、4歳児の光緒帝?が即位するころになると、清の辺境では着々と列強が進出を図っていた。東トルキスタンのヤクブ・ベク?が反乱を起こして独立を企図すると、1871年にはロシアがそれにつけこんでイリ?地方に出兵した。最終的には左宗棠がヤクブ・ベクの乱?を鎮圧し、1881年には曽国藩の息子である曽紀沢?の努力により、イリ条約?を締結してイリ地方の一部をロシアに割譲、新疆全体を対露貿易に開放して事態の鎮静化を図った。また、1884年にはヴェトナム支配をめぐってフランスと衝突、清仏戦争?が起こったがそれに敗退し、天津条約?でヴェトナムに対する宗主権を喪失した。

日本は台湾出兵?以後、琉球王国を日本領として編入することに成功し、また、江華島事件?以降、甲申事変?などにより朝鮮半島への進出を図っていった。1894年?東学党の乱?を契機に日清戦争?が勃発すると、日本軍は連戦連勝、李鴻章が建設した北洋艦隊?も破り、最終的には1895年?下関条約?が締結されることとなり、ここに東アジアの伝統的国際秩序である冊封体制は終焉を迎えた。日清戦争敗北後、欧米列強は清朝への侵略を進めていき、半ば植民地の状態になった。列強諸国は借款を通じて、鉄道敷設権・鉱山採掘権などの各種利権を獲得し、各地に租借地?を獲得していった。なお、このような中国分割の状況に対し、米西戦争後アジアへの関心を急速に深めたアメリカのジョン・ヘイ?国務長官は1898年「門戸開放宣言?」を発し、「門戸開放」と「機会均等」をかかげ、翌年には「領土保全」を提唱して、中国分割に加わった。

1898年、光緒帝は康有為?梁啓超?を登用し日本の明治維新を模範とする変法自強運動?を行ったが、西太后の反発により失敗(百日維新)に終わり、康と梁は日本に亡命した(戊戌政変?)。

こうしたなか、列強の侵略が急激に集中した華北?では、窮乏化した民衆の矛先がキリスト教会?鉄道?などに向けられ、とくに山東省?を中心にひろまっていた義和団?が「扶清滅洋」を唱えて排外運動をおこし、1900年?北京市|北京?にはいって外国の公使館を包囲した。清朝はこれを支持して、各国に宣戦布告した。列国は、日本とロシアを主力とするイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアの8か国連合軍を派遣して北京を占領し、公使館の包囲を解いて義和団と清軍をやぶった(北清事変?)。列強は翌年、清朝と北京議定書?(辛丑条約)をむすび、これにより清は列国に賠償金を支払い、外国軍隊の北京駐留を認めさせられた。1937年?、日本の北京駐留軍が何者かによって攻撃を受けたことから廬溝橋事件?が起こった。
日露戦争前後のアジア
義和団事件は東アジアの国際秩序に大きな変化をもたらした。ロシアは建設中のシベリア鉄道?が開通すれば大量の人員・物資を輸送することが可能になることもあり、中国東北部から朝鮮半島への勢力拡大を虎視眈々と狙える状況になる一方、イギリスはボーア戦争に大きな戦力を割いたことから単独でロシアの南下政策を防ぐことが出来なくなった。また、日本国内では単独で南下するロシアには対抗できないため、伊藤博文らの日露協商論と桂太郎?・小村寿太郎らの日英同盟論の対立があった。最終的には、日英の対露への利害が一致し、イギリスは「栄光ある孤立」の外交方針を放棄し、桂太郎?首相は1902年?日英同盟?を締結した。

その後、仁川沖海戦?1904年?2月9日?)で日露戦争?開戦の火蓋が切って落とされた。高橋是清?がイギリス、アメリカの資本家に日本国債購入を依頼して回り、戦争の原資を獲得した。陸軍は武器・弾薬の供給に苦しみながら旅順攻囲戦?1905年?1月1日?陥落)、奉天会戦?(同年2月21日?3月10日?)でロシア陸軍を破った。海軍は日本海海戦?(同年5月)で遠路はるばる航海してきたバルチック艦隊?を壊滅した。一方、ロシア国内では国内の労働者の待遇の悪さ、日露戦争の戦況への不満から血の日曜日事件?(同年1月)が発生し武力で鎮圧した。その後、国内では革命運動が波及することとなった。

日露両国とも国内事情が戦争継続を困難なものになったこともあり、桂太郎は小村寿太郎?をアメリカに派遣し、セオドア・ルーズベルト?の仲介の元、ポーツマス条約?が締結された。日露戦争における日本の勝利はまたもや東アジアの国際情勢を変化させるものとなった。ロシアがポーツマス条約で日本の大韓帝国?及び南満州の利権を承認することになったため、日本は朝鮮半島への支配を強化していき、最終的には1910年?日本は韓国併合|韓国を併合した?。そして、1911年関税自主権が回復し、明治維新よりの宿願だった不平等条約の桎梏から日本は解放された。

清朝では、日清戦争、義和団事件の反省、日露戦争における日本の勝利から「上からの近代化」が必要だということを痛感し、?の時代から続いていた科挙?を廃止し、軍制改革を実施、1908年には大日本帝国憲法?を範とした憲法大綱?を発布し、責任内閣制を採用した。一方、清朝打倒の立場から孫文?が中心になり1905年中国同盟会?を結成し三民主義?を提唱し半植民地状態にある中国の独立を図った。

1908年光緒帝、西太后が相次いでこの世を去ると、2歳の愛新覚羅溥儀?が皇帝に即位し、父の醇親王載灃?が摂政となった。醇親王は1911年5月鉄道の国有化と、満州貴族を中心とした親貴内閣?の組閣を宣言したことは、張謇?ら民族資本家の反発を招いた。彼等、民族資本家は列強によって奪われた鉄道や鉱山の権益を回収する利権回収運動?を進めていたため、その流れに清朝政府が逆行したからである<ref>菊池秀明 『中国の歴史 10巻 ラストエンペラーと近代中国』 講談社、2005年、p.158。</ref>。「張謇は張之洞?の協力を得て1905年8月アメリカからベルギーに売却された粤漢線(広州 - 漢口?)の敷設権を675万ドルで買い戻したこと」が利権回収運動の一例である。1911年10月10日?武昌蜂起?を契機に辛亥革命?が勃発、孫文を臨時大総統に据え、中華民国?が建国された。革命勢力に抗しきれないと判断した清朝の重鎮袁世凱?は革命派と密約を結び、溥儀を退位させ、中華民国の大総統になり、1912年?2月12日?清朝は滅亡した。

日露戦争の勝利は、欧米列強の支配下にあるアジア・アフリカ諸国に影響を及ぼした。

ベトナムでは、ファン・ボイ・チャウ?阮朝?皇族のクオンデを盟主として「ベトナム維新会」を結成し、武器援助を求めるべく1905年?に来日した。亡命?中の梁啓超?を通じて知り合った大隈重信?犬養毅?らからの人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を日本?に留学させる東遊運動?(トンズー運動)を起こした。

インドでは、ナショナリズムが高揚する一方で、人種、言語、宗教、カーストの違いから足並みが揃わなかった。そのため、インド総督は1905年ベンガル分割令?を発布し、ベンガル州?をヒンズー教徒が多い西部と、イスラム教徒が多い東部に分割し、民族運動の分断を図った。そのため、インド国民会議は1906年カルカッタで国民会議を開催し、カルカッタ4大綱領(英貨排斥(ボイコット)、スワラージ?:en:Swaraj|Swaraj?)、スワデーシー?:en:Swadeshi movement|Swadeshi?)、民族教育)を採択した。イギリスはインド国民会議の牽制に全インド・ムスリム連盟?を結成させた。こうして、イギリスはインド内部の対立を利用してインド植民地維持を図った。

西アジアのムスリム知識人のあいだには、進む従属化に反対し、アフガーニー?のように社会改革とムスリムの連帯を説くものが相次いであらわれた。アフガーニーはオスマン帝国やガージャール朝の専制体制を批判した。

中東地域ではイランでイラン立憲革命?が、トルコで青年トルコ人革命?が勃発した。イランでは、アフガーニーが国外に追放されると、これを機にタバコ・ボイコット運動?がおこった。運動は1905年には立憲運動に進展し、1906年?8月には立憲勅書を獲得し、同10月第一議会が招集されて直ちに憲法制定の作業に入り、12月に憲法が発布された。しかしイギリス・ロシアの干渉で議会は閉鎖され、革命は挫折した。

オスマン帝国では、ミドハト憲法が1876年に制定されたものの露土戦争中に停止してスルタンの独裁が続いていたが、それに反対する「統一と進歩委員会?」メンバーの陸軍青年将校たちが1908年?に反乱を起こし、ミドハト憲法を復活させてスルタン独裁を放棄させた。これが、青年トルコ人革命である。新政権はドイツと結んで、国の近代化につとめたが、列強の圧力と国内で諸民族の独立運動が勢いを増したため、ふたたび専制政治にもどった。
3B政策・3C政策とそのゆくえ
19世紀なかばから、ロシアは清の弱体に乗じて中国東北地方から朝鮮半島への進出をうかがい、1891年シベリア鉄道?を起工した。こうした動きは、バルカン半島における南下政策とともに、イギリスのインド支配をおびやかした。イギリスは「インドへの道」を確保するため、スエズ運河?の株を買収してこの地方の支配権をにぎり、ケープタウン?(Capetown)、カイロ (エジプト)|カイロ?(Cairo)、コルカタ|カルカッタ?(Calcutta)の3都市をむすぶインド洋?地域を勢力圏にしようとする3C政策?を推進した。

一方、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世_(ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世?は「陽のあたる場所」を求めて大海軍の建造に着手する一方、1899年?にオスマン帝国からバグダード鉄道?の敷設権を獲得して、ベルリン?(Berlin)、イスタンブルの古名ビザンティウム?(Byzantium)、バグダード?(Baghdad)の3都市を結んで西アジアへの進出をはかる3B政策?をおしすすめて、3C政策を進めようとするイギリスや地中海への出口を求めるロシアと対立した。

イギリスのアフリカ縦断政策に対し、フランスも北アフリカからサハラ砂漠をへて大陸横断しようとしたが、両者は1898年にスーダン?南部で衝突した(ファショダ事件?)。そのあと両国はフランスの譲歩によって和解し、1904年には英仏協商?がむすばれ、フランスのモロッコ?支配とイギリスのエジプト支配が相互に承認された。これに対し、皇帝ヴィルヘルム2世は異をとなえ、フランス勢力圏とみなされたモロッコ?に対し、1905年?(ヴィルヘルム2世のタンジール?訪問)と1911年?(軍艦の派遣)の二度にわたって武力進出をはかった。モロッコ事件?である。これによりドイツとフランスは緊張状態となったが、このときは、最終的にドイツが譲歩するかたちで決着した。

こうした錯綜した対立関係を通じて、列強はしだいにドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟 (1882年)|三国同盟?1882年?成立)とイギリス、フランス、ロシアの三国協商?1908年?成立)の両陣営に収斂していった。

脚注

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参考文献

  • 浅田実 『産業革命と東インド貿易』 法律文化社、1984年。ISBN 4589011719
  • 池田誠ほか 『図説 中国近現代史 第2版』 法律文化社、2002年。ISBN 4589025507
  • 井野瀬久美惠 『大英帝国という経験』 講談社、2007年。ISBN 4062807165
  • ウォーラーステイン 『近代世界システム 1730-1840s――大西洋革命の時代』 川北稔訳、名古屋大学出版会、1997年。ISBN 4815803277
  • カール・マルクス 『資本論』 1867年。
  • 加藤博 『「イスラムvs.西欧」の近代』 講談社現代新書、2006年。ISBN 4-06-149832-0
  • 川勝平太 『文明の海洋史観』 中央公論新社<中公叢書>、1997年。ISBN 4120027155
  • 菊池秀明 『中国の歴史 10巻 ラストエンペラーと近代中国』 講談社、2005年。ISBN 4062740605
  • 佐藤誠三郎・岡崎久彦? 『日本の失敗と成功—近代160年の教訓』 扶桑社、2000年。ISBN 4-594-02917-5
  • 園田英弘 『世界一周の誕生』 文春新書、2003年。ISBN 4166603280
  • デビッド・ランデス 『「強国」論―富と覇権(パワー)の世界史』 竹中平蔵訳、三笠書房、1999年。ISBN 4837955800
  • 林玲子・大石慎三郎 『新書・江戸時代5 流通列島の誕生』 講談社<講談社現代新書>、1995年。ISBN 4-06-149261-6
  • 増井経夫 『大清帝国』 講談社<講談社学術文庫>、2002年。ISBN 4061595261
  • 永田雄三編『新版世界各国史 9 西アジア史II イラン・トルコ』山川出版社、2002、ISBN 4-634-41390-6
  • 宮田律 『物語 イランの歴史』 中公新書、2002年。ISBN 4121016602
  • 源了圓 「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」『地球日本史3 江戸時代が可能にした明治維新』 産経新聞ニュースサービス、1999年。ISBN 4-594-02665-6
  • 村岡健次・川北稔編著 『イギリス近代史 -宗教改革から現代まで- 』 ミネルヴァ書房、1986年。ISBN 4-623-03784-3
  • 山下範久 『世界システム論で読む日本』 講談社<講談社選書メチエ>、2003年。ISBN 4-06-258266-X

著作権者

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