最終更新: greenland4 2008年12月04日(木) 05:07:23履歴
室町文化(むろまちぶんか)とは足利氏?によって京都?に室町幕府?が開かれた時代の日本?の文化?。南北朝文化?ののち、3代将軍足利義満?の時代に北山文化?が栄え、ついで8代将軍足利義政?の時代に東山文化?として成熟した。戦国時代?にはさらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。広義には、南北朝文化を含むことがある。
室町時代?は武家?が公家?を圧倒し、文化的にも大きく成長をとげていった時代である。征夷大将軍?足利氏を中心に有力守護?をはじめとする上層武士が京都に多く居住し、伝統的な公家文化とさかんに接触し、また海外との交易によって禅宗?をはじめとする大陸文化が伝えられると、武家はその影響を受けながらも、みずからの力強さ、簡潔さと公家文化の伝統美を融合させ、新しい武家文化を開化させた。
いっぽう、庶民?の社会的地位が高まり、商工業の発展にともなって町衆?や農民?が文化の担い手として登場したことから、文化の面でも幅広い交流がすすみ、庶民性や地方的特色がいっそう強まった。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教?の地方への広まりなどはその現れである。猿楽?・狂言?・連歌?などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯?として広がった。これらはいずれも多かれ少なかれ団らん的な、あるいは「一味同心」的な性格をもつ芸能・芸道であったが、当時の武士の日常に対応したものであり、惣?における庶民の日々の生活、さらに都市民の生活にも合致したものであった。
室町文化の流れには、2つの頂点がある。14世紀?末に興起した北山文化と15世紀?末に興った東山文化がそれであり、武家が政治・経済のみならず文化の面でも時代を代表する存在となったことを示している。その流れは16世紀?の戦国時代に広く地方へと普及していき、やがて国民文化として発展していくこととなった。
いっぽう、庶民?の社会的地位が高まり、商工業の発展にともなって町衆?や農民?が文化の担い手として登場したことから、文化の面でも幅広い交流がすすみ、庶民性や地方的特色がいっそう強まった。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教?の地方への広まりなどはその現れである。猿楽?・狂言?・連歌?などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯?として広がった。これらはいずれも多かれ少なかれ団らん的な、あるいは「一味同心」的な性格をもつ芸能・芸道であったが、当時の武士の日常に対応したものであり、惣?における庶民の日々の生活、さらに都市民の生活にも合致したものであった。
室町文化の流れには、2つの頂点がある。14世紀?末に興起した北山文化と15世紀?末に興った東山文化がそれであり、武家が政治・経済のみならず文化の面でも時代を代表する存在となったことを示している。その流れは16世紀?の戦国時代に広く地方へと普及していき、やがて国民文化として発展していくこととなった。
応仁の乱を契機として、地域が自立性を強め、それにつれて、地方?の所領からの収入が途絶えて困窮する京都の公家や僧侶?のなかには、戦乱で荒廃する京都を離れ、繁栄する地方都市?へ下り、その地の大名?や国人?に頼るものがあらわれた。そのなかには、関白?一条教房?が家領であった土佐国?幡多荘(現在の高知県?四万十市?)に下向して、子孫が土佐一条氏?として戦国大名?化したという例もある。教房の父で当代随一の文化人一条兼良?も奈良?、つづいて美濃国?に下向している。いっぽう、商工業の発展や郷村?制の成立にともなって、都市の商工業者(町衆)や農民のあいだにも新しい文化がうまれていった。
戦国大名?のなかでとくに学芸に関心の高かったのは越前国?の朝倉氏?、駿河国?の今川氏?、周防国?の大内氏?などであった。大内氏の場合は、勘合貿易?による富や大陸文化の摂取もあって、城下町?の山口?には画僧雪舟?をはじめ、多くの僧侶・学者・公家が集まり、「大内版?」とよばれる出版事業もおこなわれた。
連歌?は、武家の間でさかんにおこなわれ、宗祇?のように九州?から東国?まで、諸国をめぐった連歌師もいたが、こうした連歌師の地方遍歴は大名・武士・庶民への文化の伝播のうえに大きな役割を果たした。
儒学?も、大名たちにとって必要な学問と認識されはじめ、桂庵玄樹?は明?から帰国したのち、九州を巡歴して肥後国?の菊池氏?や薩摩国?の島津氏?に招かれて講義し、のちに薩南学派?を開いた。土佐?でも南村梅軒?が朱子学?を講じて南学?の祖といわれ、北陸地方?でも清原宣賢?が能登国?の畠山氏?、若狭国?の武田氏?、越前朝倉氏などの諸大名のもとで儒学を講じている。
一方、東国?では上杉憲実?が下野国?足利?に足利学校?の蔵書を充実させて再興し、全国の僧侶や武士が学問を学ぶために集まるようになった。足利学校に対しては、のちには小田原?の後北条氏?も保護を加えており、日本にキリスト教?を伝えたイエズス会の宣教師?、フランシスコ・ザビエル?は「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記している。漢詩僧の万里集九?は応仁の乱で美濃国?に下向したのち、太田道灌?の招きで江戸?に向かい、関東?一円、越後国?、飛騨国?などを遍歴した。前掲雪舟は出羽国?山形?の立石寺?を訪れている。
この時代は、地方の国人衆や土豪?層においても所領経営のためには読み・書き・計算?などが必要と考えられるようになった時代でもあった。農民が書いた土地証文などの数もしだいに増加し、文字?が庶民層にまで広く普及するようになった。『庭訓往来?』や『貞永式目|御成敗式目?』、『実語教?』は武士の子弟教育における教科書?として寺院などで広く用いられていた。
饅頭屋宗二?によるいろは?引きの国語辞典?『節用集?』、また堺?の商人・医師であった安佐井野宗瑞?によって明版の医書『医書大全』が飜訳・刊行されたのも戦国期であった。
戦国大名?のなかでとくに学芸に関心の高かったのは越前国?の朝倉氏?、駿河国?の今川氏?、周防国?の大内氏?などであった。大内氏の場合は、勘合貿易?による富や大陸文化の摂取もあって、城下町?の山口?には画僧雪舟?をはじめ、多くの僧侶・学者・公家が集まり、「大内版?」とよばれる出版事業もおこなわれた。
連歌?は、武家の間でさかんにおこなわれ、宗祇?のように九州?から東国?まで、諸国をめぐった連歌師もいたが、こうした連歌師の地方遍歴は大名・武士・庶民への文化の伝播のうえに大きな役割を果たした。
儒学?も、大名たちにとって必要な学問と認識されはじめ、桂庵玄樹?は明?から帰国したのち、九州を巡歴して肥後国?の菊池氏?や薩摩国?の島津氏?に招かれて講義し、のちに薩南学派?を開いた。土佐?でも南村梅軒?が朱子学?を講じて南学?の祖といわれ、北陸地方?でも清原宣賢?が能登国?の畠山氏?、若狭国?の武田氏?、越前朝倉氏などの諸大名のもとで儒学を講じている。
一方、東国?では上杉憲実?が下野国?足利?に足利学校?の蔵書を充実させて再興し、全国の僧侶や武士が学問を学ぶために集まるようになった。足利学校に対しては、のちには小田原?の後北条氏?も保護を加えており、日本にキリスト教?を伝えたイエズス会の宣教師?、フランシスコ・ザビエル?は「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記している。漢詩僧の万里集九?は応仁の乱で美濃国?に下向したのち、太田道灌?の招きで江戸?に向かい、関東?一円、越後国?、飛騨国?などを遍歴した。前掲雪舟は出羽国?山形?の立石寺?を訪れている。
この時代は、地方の国人衆や土豪?層においても所領経営のためには読み・書き・計算?などが必要と考えられるようになった時代でもあった。農民が書いた土地証文などの数もしだいに増加し、文字?が庶民層にまで広く普及するようになった。『庭訓往来?』や『貞永式目|御成敗式目?』、『実語教?』は武士の子弟教育における教科書?として寺院などで広く用いられていた。
饅頭屋宗二?によるいろは?引きの国語辞典?『節用集?』、また堺?の商人・医師であった安佐井野宗瑞?によって明版の医書『医書大全』が飜訳・刊行されたのも戦国期であった。
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