旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - カーナティック戦争
カーナティック戦争(かーなてぃっくせんそう、カルナータカ戦争)はイギリス?領マドラス(いまのチェン内)とフランス?領インドの首都であったポンディシェリ?との間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ヨーロッパのオーストリア継承戦争?と連動し、ムガル朝?インド?において、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。

概要

  • 第1次カーナティック戦争(1744年−1748年)
  • 第2次カーナティック戦争(1749年−1754年)
  • 第3次カーナティック戦争(1756年−1763年)

17世紀?に絶頂期をむかえたムガル朝も18世紀に入ると分裂状態におちいり、これに乗じてイギリス・フランス]の両東インド会社がともに勢力をのばして争った。当初、イギリスは南インド東海岸一帯を占領するが、ポンディシェリのフランス領インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス?がカーナティック同盟を結んで南インド諸侯を傘下に収め、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒し、英領マドラスを占領するなど活躍した。しかし、アーヘンの和約?でマドラスを返還、第2次戦争まではフランスが善戦したが、その終結時にデュプレクスがアジアでの多大の出費を嫌う本国政府によって召還された。第3次戦争中、七年戦争?の余波でプラッシーの戦い?が起こり、この戦闘では、東インド会社書記ロバート・クライブの活躍によりイギリスが勝利し、ベンガル地方?はイギリスの勢力下に入った。この敗北に反撃するためにフランスは、ラリー侯爵を送りイギリスの南インドの拠点マドラスを包囲。しかし人員と弾薬の補充を受けたイギリスが持ちこたえた。海軍の援護を受けたイギリスが逆に反撃にでて1760年の1月22日にヴァンデヴァッシュの戦いでフランス軍に決定的な勝利をおさめた。フランスはヨーロッパ大陸でプロイセン?の反撃にてこずり、十分な増援兵力を送ることができなかった。イギリスはフランスの南インドの拠点であるポンディシェリを兵糧攻めにして陥落させた(1761年1月16日)。

関連項目=

  • 英仏抗争
  • インドの植民地化
    • プラッシーの戦い?(1757年)・・・英領カルカッタ?(コルカタ)と仏領シャンデルナゴルの間のベンガル地方?を巡る争い。ヨーロッパの七年戦争?に連動
    • マイソール戦争(第1次1767年−第4次1799年)・・・南インド
    • マラータ戦争(第1次1775年−第3次1818年)・・・デカン高原
    • シク戦争(第1次1845年−第2次1849年)・・・北インド

参考文献=

  • 小林幸雄『イングランド海軍の歴史』原書房

履歴

著作権者

  • Greenland4、円周率3パーセント、Bankokuya、Libertas、220.104.21、202.140.205.14、221.242.144.194、 133.19.126.5、Tribot