サン・バルテルミの虐殺の傷跡がなお深くのこるフランス国内では、新旧両教徒の溝はかつてないほど深まっていた。ロレーヌ家の分家であるギーズ家を中心としてカトリック過激派が集まるなど、王権をめぐる勢力争いはますます激しくなった。
新国王アンリは、宗教戦争を超えたところでフランスの統一を願う
ポリティーク派の意見に傾き、母后カトリーヌの政策をうけついでプロテスタントに妥協を示そうとした。カトリーヌに軽んじられていた王弟
アランソン公フランソワとギーズ公アンリが南方の新教徒と組んで一時国王に反旗を翻したため、苦境に立った国王アンリは、
1576年、新教徒とのあいだに
ボーリューの和約?をむすんだ。ボーリュー和約(ボーリュー勅令)には、パリ場内をのぞくフランス全土でのプロテスタントの公的礼拝許可がもりこまれ、これは新教側に有利とみられて、今度はカトリック勢力のなかでは不満が昂じた。同年にはギーズ公アンリを中心に
カトリック同盟が結成され、ボーリュー勅令は廃止に追いこまれた。それに対し、ナヴァル王アンリを指導者にあおぐプロテスタントが蜂起した(第6次ユグノー戦争)。
その後、1576年から
1577年にかけてのブロワの
三部会?、ついでベルジュラック、さらにフレクスで
1580年に開催された三部会では、日増しに敵意を増すプロテスタントに対し、
寛容王令?を公布して一定の譲歩を示した。いっぽう、カトリック貴族の忠誠を維持するため、
1578年にサンテスプリ修道院を設立したが、これといった成果はあがらなかった。
第6次ユグノー戦争では、カトリック側から新教徒側に立つ者はおらず、1577年の
ベルジュラック和約?ではユグノー側への宗教的寛容は全体的に大きく後退した。これに不満な一部の急進的なプロテスタントは4人目のアンリ、
コンデ公アンリをかついで反乱を再発させた(第7次ユグノー戦争)が、これは失敗に終わった。
アンリ3世にとって、最大の敵はむしろギーズ公アンリであった。ギーズ公は、国王が新教徒に示した宗教的寛容に対しては真っ向から反対した。ギーズ公の最大の懸念は国王アンリに子どもがいないことであった。さらに王弟アランソン公が
1584年に急死したため、
サリカ法典によって王位継承権をもつ人物はユグノー派のナヴァル王アンリだけになってしまったことで、危機感は頂点に達した。ギーズ公ひきいるカトリック同盟は、プロテスタント王誕生の可能性に危惧を強め、スペインの
ハプスブルク家?と秘密裏に盟約を結んだ。
こうして、国王アンリ、王位の推定相続人となった新教徒のアンリ、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリの、いわゆる「
三アンリの戦い」(guerre des trois Henri)の状況となった。カトリック同盟は、女性的な男性ばかりを好む国王アンリの性向を流布して、パリ市民の国王に対する悪感情を巧みにあおって、市民蜂起をうながした。
パリ市民の強い支持を得たギーズ公ひきいるカトリック同盟は、
1585年3月、北フランスの主要都市を占拠する軍事行動に出た(第8次ユグノー戦争)。国王アンリは面目を保つためにカトリック同盟の盟主となってナヴァル王のフランス王位継承権を否定、新教徒にカトリックへの改宗を強要する
七月勅令?を発した。これに対し、プロテスタントはナヴァル王アンリを指導者として戦うことを決定、イングランド・デンマークなど新教勢力の強い諸国の支援を取り付けた。いっぽう、穏健カトリックのポリティーク派はカトリック同盟の過激な性格やローマ教皇との強いむすびつきに危機感をもつようになった。
ギーズ公はプロテスタント討伐のため雇っていたドイツ騎兵を説得し、パリに入場門を設置してカトリック教徒たちを集めた。アンリ3世も兵を集結させたが、すでに民衆の支持を得たギーズ公は、
1588年5月9日、ポルト・サン・マルタンよりパリへ入った。国王アンリはただちにフランス・スイス軍を入場させたが、すでに首都ではアンリ3世が「カトリックに対するサンバルテルミの虐殺」を実行するという流言が飛び交っており、住民は国王に対して疑心暗鬼の状態となっていた。5月12日、パリ市民は王家への反抗の証としてバリケードを設けた(
バリケードの日事件)。アンリ3世は
テュイルリー宮殿?を撤退し、シャイヨー宮に逃走するしかなかった。