旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - アンリ3世
アンリ3世(1551年 - 1589年)は、ポーランド・リトアニアの国王(在位:1573年 - 1575年)、およびヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 - 1589年)。フランス王アンリ2世の四男、母はカトリーヌ・ド・メディシス。ポーランド王としてはヘンリク・ヴァレジ(Henryk Walezy)と呼称される。カトリック教徒である彼は、ユグノー戦争で真二つに分かれたフランスの新旧両教徒勢力の和解に尽力したが、ナヴァル王アンリ、ギーズ公アンリとの角逐を招き、三アンリの戦いとして知られる。ギーズ公アンリひきいるカトリック同盟が握るパリを包囲中、ドミニコ会修道士ジャック・クレマン?の一撃に倒れ、事件の翌日、死の床で後継にナヴァル王アンリ(アンリ4世)を指名した。母后カトリーヌがもっとも期待した国王で、文筆の才にも恵まれていたが、美男の小姓を愛する倒錯した性におぼれ、フランスの統一を達成できなかった。

生涯

生い立ち

アンリ3世は、アンリ2世とメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスの第三子として1551年9月19日に生まれた。フランス王フランソワ2世およびシャルル9世の同母弟、アンリ4世妃マルグリット・ド・ヴァロワの兄にあたる。洗礼名はアレクサンドル・エドゥアールで、生後まもなくアングレーム公となり、アンボワーズ城でジャック・アミヨやフランソワ・ド・カルナヴァレの教育を受けて成長した。母親からは溺愛されたという。1559年、8歳のとき不慮の事故で父王アンリ2世が世を去ると、父親の名アンリを名乗るようになった。父王の死期の王位には長兄フランソワ2世がついたが、彼は即位の翌年死去し、つづいて次兄シャルルがシャルル9世として即位した。

皇太子となったアンリは、カトリックとプロテスタントというふたつの勢力に分断されたフランスで、軍人として国王軍を指揮し、1567年には国王代理補佐官に任命された。そして、1569年、18歳でジャルナックの戦いではコンデ公ひきいる新教徒軍に勝利をおさめ、その勇猛な戦いぶりは評判となった。コンデ親王ルイはこの戦いで戦死した。同年のモンコントゥールの戦い?でも、騎馬隊の先陣に立って戦闘に加わり、勝利に貢献した。1573年、プロテスタントの本拠地であるラ・ロシェルに進軍したが、堅固な城壁に守られたこの難攻不落の城塞都市は、なかなか攻略することができなかった。そのとき、自分がポーランド王に選出されたという報せがアンリの元に届けられた。

なお、これに先だって2歳下の妹マルグリットとラ・ロシェルにいたアンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)との縁談がすすみ、1572年、ふたりの結婚式に際してはギーズ公アンリによるサン・バルテルミの虐殺が起こっている。

ポーランド国王に

1572年7月、ポーランド・リトアニアの国王ジグムント2世が嗣子なくして没すると、ヤゲウォ朝(ヤゲロー朝)は断絶した。新国王はセイム?(ポーランド議会)による選挙で決まることが宣言された(選挙王制)。アンリ以外に国王候補となった人物には、
  • 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の次男エルンスト大公(前王妃カタリーナの兄)
  • スウェーデン王ヨハン3世(前国王の妹カタージナの夫)
  • モスクワ大公イヴァン4世
がいた。また、ポーランド内には、最古の王朝であるピャスト朝?を輩出したピャスト家の諸侯を候補に挙げようとする向きもあった。

1572年8月末のサン・バルテルミの虐殺が起きると、ポーランド貴族(シュラフタ)にはフランス人候補に反対する意見も寄せられたが、母后カトリーヌ・ド・メディシスやフランス使節ジャン・ド・モンリュック(ヴァランス司教)が議会に熱心な働きかけ、多くの支持者を獲得した。また、ジグムント2世の妹で次の国王妃に擬せられていたアンナもアンリを支持したこともあって、1573年5月9日、議会はアンリをポーランド王に選出した。

議会はアンリに対し、王権に関する制限事項、また、アンリ個人との統治契約の承認を要求した。アンリは議会の提示した条件を承認し、最終的には選挙に勝利したものの、諸侯の権力がひじょうに強いポーランドの政治風土に疑念をいだくようになっていた。貴族たちは自由を謳歌しているのに対し、王の権限がきわめて弱いことに違和感を感じたのである。また、病弱な兄シャルル9世には嗣子がなく、結核も悪化したことが、皇太子アンリがフランスから出国することを躊躇する原因となった。

しかし、再三にわたってポーランド使節団に催促されたアンリは、1573年10月、フォンテーヌブローの王宮を去った。ポーランド入りしたのはようやく翌1574年1月のことであった。同年2月21日にはクラクフで戴冠式がおこなわれたが、戴冠式にあたって開かれた議会では、アンリはカトリック勢力の支持もあって統治契約の再確認を回避しようとしたため、ポーランドの人びとから反感をもたれた。また、アンリの与えた官職や王領地(代官職など)の配分も不公平であると見なされた。当時の国際語であったラテン語を解しない国王がポーランド貴族に親しまず、フランスから連れてきた側近とばかり付き合うことも不評の種であった。28歳年上の王女アンナとの縁組も進まなかった。

フランス国王に

1574年5月30日、フランスでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。アンリは、すでにポーランドを出国する準備としてフランス人側近のほとんどを本国へ帰していた。アンリは、6月18日深夜、残った側近数人をともなって王宮を出奔した。国王の逃亡という未曾有の事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、外国出身の国王による期待外れな振舞いを快く思わない貴族も少なくなかった。シュラフタは集会を開き、可能性は低いことは知りつつも、アンリに対しポーランドへの帰国を要求し、その期限を1575年5月12日に設定した。

ポーランドを出奔したアンリは、すぐにフランスへ向かわず、ウィーン、ヴェネツィアに立ち寄り、そこで客人として手あついもてなしを受け、つづいてパドヴァ、フェラーラ、マントヴァに滞在した。1574年8月、モンツァを訪れていたアンリは、対抗宗教改革を強力に推し進めていたカルロ・ボロメオ?と出会い、多大な影響を受けている。同年9月、カトリーヌ・ド・メディシスの待つリヨンに入り、翌1575年2月15日、フランス王アンリ3世としてランスの大聖堂で戴冠式をおこなった。そこには王国中の臣下が出席した。

戴冠式で王家の象徴を授けたのはメス司教のギーズ枢機卿であった。金の拍車、剣、杓、裁きの杖のあと、カール大帝の王冠をアンリの頭上に載せる段になって、アンリは「痛い」とつぶやき、そして王冠は地面に転がったという逸話がのこっている。

なお、1575年5月12日に設定されたポーランドへの帰国期限であったが、アンリは期限内に戻らなかったので、クラクフでは王位失効が宣言された。しかし、アンリは生涯ポーランド王の称号を公称していた。ポーランド貴族たちは、アンリの一方的な義務放棄に深く傷つき、以前にもまして国王を蔑ろにする傾向を強めたといわれる。

激動期の君主として

サン・バルテルミの虐殺の傷跡がなお深くのこるフランス国内では、新旧両教徒の溝はかつてないほど深まっていた。ロレーヌ家の分家であるギーズ家を中心としてカトリック過激派が集まるなど、王権をめぐる勢力争いはますます激しくなった。

新国王アンリは、宗教戦争を超えたところでフランスの統一を願うポリティーク派の意見に傾き、母后カトリーヌの政策をうけついでプロテスタントに妥協を示そうとした。カトリーヌに軽んじられていた王弟アランソン公フランソワとギーズ公アンリが南方の新教徒と組んで一時国王に反旗を翻したため、苦境に立った国王アンリは、1576年、新教徒とのあいだにボーリューの和約?をむすんだ。ボーリュー和約(ボーリュー勅令)には、パリ場内をのぞくフランス全土でのプロテスタントの公的礼拝許可がもりこまれ、これは新教側に有利とみられて、今度はカトリック勢力のなかでは不満が昂じた。同年にはギーズ公アンリを中心にカトリック同盟が結成され、ボーリュー勅令は廃止に追いこまれた。それに対し、ナヴァル王アンリを指導者にあおぐプロテスタントが蜂起した(第6次ユグノー戦争)。

その後、1576年から1577年にかけてのブロワの三部会?、ついでベルジュラック、さらにフレクスで1580年に開催された三部会では、日増しに敵意を増すプロテスタントに対し、寛容王令?を公布して一定の譲歩を示した。いっぽう、カトリック貴族の忠誠を維持するため、1578年にサンテスプリ修道院を設立したが、これといった成果はあがらなかった。

第6次ユグノー戦争では、カトリック側から新教徒側に立つ者はおらず、1577年のベルジュラック和約?ではユグノー側への宗教的寛容は全体的に大きく後退した。これに不満な一部の急進的なプロテスタントは4人目のアンリ、コンデ公アンリをかついで反乱を再発させた(第7次ユグノー戦争)が、これは失敗に終わった。

アンリ3世にとって、最大の敵はむしろギーズ公アンリであった。ギーズ公は、国王が新教徒に示した宗教的寛容に対しては真っ向から反対した。ギーズ公の最大の懸念は国王アンリに子どもがいないことであった。さらに王弟アランソン公が1584年に急死したため、サリカ法典によって王位継承権をもつ人物はユグノー派のナヴァル王アンリだけになってしまったことで、危機感は頂点に達した。ギーズ公ひきいるカトリック同盟は、プロテスタント王誕生の可能性に危惧を強め、スペインのハプスブルク家?と秘密裏に盟約を結んだ。

こうして、国王アンリ、王位の推定相続人となった新教徒のアンリ、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリの、いわゆる「三アンリの戦い」(guerre des trois Henri)の状況となった。カトリック同盟は、女性的な男性ばかりを好む国王アンリの性向を流布して、パリ市民の国王に対する悪感情を巧みにあおって、市民蜂起をうながした。

パリ市民の強い支持を得たギーズ公ひきいるカトリック同盟は、1585年3月、北フランスの主要都市を占拠する軍事行動に出た(第8次ユグノー戦争)。国王アンリは面目を保つためにカトリック同盟の盟主となってナヴァル王のフランス王位継承権を否定、新教徒にカトリックへの改宗を強要する七月勅令?を発した。これに対し、プロテスタントはナヴァル王アンリを指導者として戦うことを決定、イングランド・デンマークなど新教勢力の強い諸国の支援を取り付けた。いっぽう、穏健カトリックのポリティーク派はカトリック同盟の過激な性格やローマ教皇との強いむすびつきに危機感をもつようになった。

ギーズ公はプロテスタント討伐のため雇っていたドイツ騎兵を説得し、パリに入場門を設置してカトリック教徒たちを集めた。アンリ3世も兵を集結させたが、すでに民衆の支持を得たギーズ公は、1588年5月9日、ポルト・サン・マルタンよりパリへ入った。国王アンリはただちにフランス・スイス軍を入場させたが、すでに首都ではアンリ3世が「カトリックに対するサンバルテルミの虐殺」を実行するという流言が飛び交っており、住民は国王に対して疑心暗鬼の状態となっていた。5月12日、パリ市民は王家への反抗の証としてバリケードを設けた(バリケードの日事件)。アンリ3世はテュイルリー宮殿?を撤退し、シャイヨー宮に逃走するしかなかった。

ギーズ公の暗殺

首都パリはギーズ公アンリの手に落ち、王権はますます弱体化するかにみえた。ブロワ城にひきこもったアンリ3世は、1588年10月にカトリック同盟の力に屈し、ブロワで三部会を開催を開催し、ギーズ公と再会した。ふたりは王権を回復して王国をまとめあげるため協力を誓い合い、ここでアンリは屈辱的な協定を承諾させられてしまった。しかし、ギーズ公は、次第に自分こそ次期国王だと主張するなど傲慢な姿勢が目立つようになり、やがてそれは国王アンリにとって許し難いものとなっていった。

12月23日、ブロワ城に招かれたギーズ公は、暗殺の可能性も察知していたにもかかわらず、用心を怠った。ギーズ公が奥の部屋に入った途端、ローニャックひきいる王の45人の親衛隊が一斉に襲いかかった。ギーズ公は、急所をはずして何度も刺し貫かれるという残虐な攻撃のはてに死去した。アンリ3世は宿敵の遺体を前に「彼は死してなおいっそう大きな存在となった」と語ったといわれる。その翌日、ギーズ公アンリの弟ロレーヌ枢機卿も同様に惨殺された。過激なカトリック同盟が兄弟の遺体を利用することを避けるため、ふたりの遺体はただちに薬品のなかに投げ込まれて溶かされた。

アンリ3世はギーズ公暗殺ののち、病床に伏していた母后カトリーヌに「私だけがフランスの王となりました。私はパリの王を殺したのですから」と報告したという。しかし、カトリーヌはアンリに次のような警告を発していた。「あなたはギーズ公を死にいたらしめるでしょうが、このことがあなたの災いとなりませんように」。この言葉は的中した。

国王アンリの死とヴァロワ朝の終焉

ギーズ公暗殺に対するパリやカトリック同盟の反響はすさまじかった。それらは、「先のフランス王アンリ3世」と交渉することを拒否し、パリ大学やパリ高等法院は「フランス国民は王に対する忠誠から解放された」と宣言し、ローマ教会は王を破門した。もともと国民に人気のなかったアンリ3世は、この事件をきっかけに大半の国民より憎悪されるようになり、ギーズ家は国王の圧政の犠牲者であるとの見方が広がって、オルレアンやアミアンなどでは反乱があいついだ。

アンリ3世は過激派カトリックと和平を結ぼうとしたが、逆にかれらの怒りをあおる結果となった。そこでアンリ3世は、反射的にプロテスタントの指導者で、自らの従弟にあたるアンリ・ド・ナヴァルと接近し、かれと和解してカトリック過激派の鎮圧に乗り出した。しかし、ユグノーとの連携は穏健なカトリック教徒までも混乱させることとなった。国王アンリはもはや「悪魔の手先」のように、かれらの目に映じたのである。

パリを追い出されたアンリ3世の目下の目標はパリ奪回であった。シャルル5世の時代、首都パリは要塞都市として強化されていた。かれはナヴァル王アンリと協調して、いまや4万5千におよぶ義勇軍とフェリペ2世ひきいるスペイン軍が警備する城塞都市パリをを包囲し、サン・クルーに本陣をしいた。

しかし、1589年8月1日朝7時、国王アンリ3世が宿泊していたゴンディ邸に、サン・ジャック通りのドミニコ会修道士ジャック・クレマン?がおとずれた。当時22-23歳であったクレマンは、王が寝床を離れるまで約一時間待った。側近は、未知の人物には会わないよう王にすすめたが、王は聖職者を拒否するのはよくあるまいと考えたようである。8時、姿を現した王に対し、クレマンは一礼し、持参した書状を手渡した。そして、王がこれを読んでいるあいだ、かれは隠しもっていた短刀をとり出し、王の腹部をめがけてとびかかった。王はとっさに身をかがめたが間に合わず深手を負った。犯人はその場でただちに刺殺されたが、結局はそれが王にとって致命傷となった。

その日の夕刻、国王アンリ3世はブルボン家のナヴァル王アンリをまねき、臨終の床でナヴァル王をかき抱いて王位継承者として彼を指名し、カトリックへの改宗をすすめ、宗教上の争いを超えてフランスを統一するという、自らは遂に果たすことのできなかった仕事を託した。8月2日早暁3時、国王アンリは最後の息をひきとった。それは、14世紀以来のヴァロワ朝の終焉でもあった。

人物

アンリ3世は、才知に長け教養に富んでおり、美男でもあり、ジャルナックとモンコントゥールの戦いでは英雄となって周囲から大きな期待を受けたが、優柔不断で政策にやや一貫性を欠いていたため、しばしば、紛争を深刻化させたと評せられる。ただし、カトリック教徒である彼は、宗教戦争で真二つに分かれた新旧両教徒勢力の和解に努め、宗教上の対立を越えて王国を統一し、王権の威光を保つために尽力した。

アンリ3世は、その倒錯的性向のゆえに国民からは嫌われていた。母親に溺愛されて育った彼はしばしば世間の批判の的となったが、その一番の理由は「ミニョン」と呼称される王の寵臣たちにあった。国王は狩よりも、エベルノン公ジャン・ルイ・ド・ノガレやジョワイユーズ公との舞踏会を好み、現代のテニスに似たジュー・ド・ボームという球戯や、ピルボケという剣玉遊びに興じることが多かった。

王の寵臣たちの女性的な服装やその仕草はたちまち噂となり、アンリ3世をして「男でも女でもない無能な」王とする匿名の中傷文が流布したり、「ヘルマフロディトスとしてのアンリ3世」すなわち国王をバイセクシャル(両性具有)と非難・風刺するパンフレットが出されたりした。実際、王もその寵臣たちも、きわめて繊細な人たちであったため、人びとはこの噂を簡単に信じていた。

彼らは、しかし、剣技に非常に長けており、アンリ3世の親衛隊もかねるほどの精鋭部隊であった。若い独身貴族で構成された45人の親衛隊の多くはアキテーヌの出身で、王が最も恐れた暗殺の警護にあたると同時に、政敵であるアランソン公やギーズ公との勢力均衡をはかるうえで重要な役割をはたした。

関連項目

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