旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - アンリ4世
アンリ4世(1553年−1610年)は、フランス国王(在位:1589年−1610年)およびナヴァル王(在位:1572年−1610年)。フランス王国のブルボン朝初代の国王で、カルヴァン派(ユグノー)からカトリックに改宗し、1598年にナントの勅令?を発布してユグノー戦争を終結させ、戦後の復興とフランス絶対王政の基礎を確立した。意表をついた行動で内乱を収拾したアンリ4世は、その行動力、洞察力、人柄でいまでもフランス国民にもっとも人気があり、「アンリ・ル・グラン(大王アンリ)」「良き王アンリ」とよばれる。

生い立ち

のちに「大王」とよばれるアンリは、1553年12月14日、現在のフランス南西部アキテーヌ地方に位置するポーの町で誕生した。父は、中部フランスに広大な領地をもつ筆頭親王家であるブルボン家の分家、ブルボン・ヴァンドーム公家のアントワーヌ(アントワーヌ・ド・ブルボン=ナヴァル王アントワーヌ)。母はナヴァル王女ジャンヌ・ダルブレ。ナヴァル王国はスペイン北部からピレネー山脈をはさんで、南西フランスにひろがる古い王国だったが、1512年にフェルナンド2世がスペイン側の領土を併合したために、フランス側の低ナヴァル地方のみがナヴァル王国としてのこった。

母ジャンヌ・ダルブレは、騎士王フランソワ1世の姉であるマルグリット・ダングレームの娘、すなわちフランス国王の姪にあたっており、フランソワ1世の血統をひくヴァロワ家に王位継承権をもつ男子がいなくなると、アンリが王位継承権を有することとなった。

ジャンヌ・ダルブレは熱心なカルヴァン派のプロテスタントで、アンリは母親の教育を受けてプロテスタントとして成長する。1562年ユグノー戦争がはじまると、アンリはユグノーの立場をとり、1569年、16歳のときから軍事指導者としてユグノーの代表者のひとりになった。同年、ジャンヌ・ダルブレはアンリ・ド・ナヴァルをともなって、新教徒の本拠地ラ・ロシェルに移ったが、この年、この町は王弟でのちに国王となるアンリ3世ひきいる軍によって包囲されてしまった。

サンバルテルミの虐殺

1562年、フランス国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの宗教政策とギーズ公フランソワのユグノー殺害によってフランス国内では旧教派諸侯とユグノー派諸侯の間に内戦がおこった。これが8次にわたるユグノー戦争(1562年−1598年)である。ユグノー側にはイギリス、旧教側にはスペインの支援があり、内戦は長期化した。

ユグノー戦争中の1569年、旧教側に包囲されたラ・ロシェルにいたジャンヌ・ダルブレは、母后カトリーヌから、泥沼化した新旧教徒の争いを打開するため、シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)とブルボン家のアンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)との結婚をもちかけられた。しかし、この政略結婚は旧教側の怒りをむしろあおることとなってしまった。

1572年8月18日、国王側と新教側の和解のため、王妹マルグリットとアンリの婚儀がおこなわれると、新旧両教徒の緊張は一気に高まった。聖人サンバルテルミの祝日であった8月24日、2人の婚儀を祝ってフランス全土からユグノーがパリに集結したのをきっかけに、旧教徒側はサン・バルテルミの鐘を合図にプロテスタントの指導者であったコリニー提督はじめ新教徒3,000人余を殺害した。8月30日まで続いたこの虐殺事件をサン・バルテルミの虐殺とよんでいる。なお、イタリア出身の母后カトリーヌは、しばしばこの事件の黒幕とされる。実際に手を下したのはギーズ公アンリであった。カトリーヌは自分の権勢の回復と内乱の終息とを一気に実現しようとギーズ公と手を組んだのであった。アンリ・ド・ナヴァルは宮廷に人質として幽閉され、カトリックへの改宗を強制された。

同年、アンリは母ジャンヌ・ダルブレが急死したためナヴァル王を継承した。なお、この急死は暗殺だとの説がある。妻のマルグリットは、のちにアンリと離別するが、文学の擁護者として、また『詩集』『回想録』の作者として名高く、「王妃マルゴ」の愛称で知られている。アンリは1576年に王宮を脱走し、ふたたびカルヴァン派の信仰にもどり、ユグノーの軍事指導者の立場にかえりざいた。

1574年、シャルル9世の死後母カトリーヌ・ド・メディシスの摂政のもと、王弟アンリがアンリ3世として即位する。アンリ3世はカトリック教徒であったが、ユグノーに対しては妥協的であり、戦闘的なフランソワの子ギーズ公アンリとは一線を画していた。1575年9月、王位継承権を持つアランソン公フランソワ(アンリ3世の弟)がルーヴルの王宮から逃亡し、プロテスタントと結んでフランス南西部に勢力を持った。1576年、ルーヴル宮からの脱出に成功したブルボン家のアンリはカルヴァン派の信仰にもどり、ユグノーの軍事指導者の立場に返り咲いた。

1576年、アンリ3世とアランソン公はボーリューの和議?を結び、三部会?の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であるとみられたため、王の政策に対する不満が高まり、ギーズ公アンリを中心に反王権も辞さないカトリック同盟(第一次)がつくられることになった。

ブルボン王朝のはじまり

人質の身分から解放されたアンリ・ド・ナヴァルは、ギーズ公アンリのひきいるカトリック過激派や、アンリ3世ひきいる国王軍との戦いに身を投じた。

1584年、王の末弟アランソン公が戦死すると、アンリ・ド・ナヴァルがフランス王位の第一継承者となった。これを知ったカトリック過激派のあいだにはユグノーのアンリが王位につけば、国内のカトリックを弾圧するのではないかとの不安が広がり、カトリック過激派はカトリック同盟(第二次)を結成し、スペイン王フェリペ2世の支援を受けたギーズ公アンリを指導者とした。こうして、国王アンリ、ギーズ公アンリ、ナヴァル王アンリの3派が抗争する三アンリの戦いの局面をむかえた。これは、カトリックで、王権のもとに中央集権化をすすめようとする国王アンリと、ユグノーをひきいるブルボン家のアンリ、そして熱烈なカトリックではあるが王権の強化に反対するギーズ公家のアンリによる三つ巴の戦いであった。

当初国王アンリ3世はギーズ公アンリと組んでブルボン家のアンリにあたっていた。ブルボン家のアンリは、1587年クートラの戦いで国王軍に勝利し有利な立場にあったが、このような状況のなか、1588年、ギーズ家の勢力が拡大することに脅威を感じたアンリ3世はギーズ公アンリのパリ立ち入りを禁止した。これに対し、ギーズ公アンリはわずかな従者を連れただけでパリに潜入、パリの民衆もこれを歓迎した。1588年5月、新教に妥協的な国王に対してギーズ公を支持するパリ市民が一斉蜂起し(バリケードの日事件)、アンリ3世は逆にパリを追われ、パリの南、ロワール川中流のブロワの宮殿に落ち延びた。

パリを失った国王アンリ3世はアンリ・ド・ナヴァルに接近、1588年12月には国王の差し向けた近衛兵によってギーズ公は暗殺され、1589年4月3日、新旧両教徒はプレシ・レ・トゥールで和解し、共同でカトリック同盟と戦うことを約束し、首都パリへ進軍した。

国王によるギーズ公アンリ暗殺は、国内を二分する争いに発展し、1589年8月にはパリを包囲中の国王アンリ自身も狂信的なドミニコ会士ジャック・クレマン?に暗殺されて王家ヴァロア家の血統が絶え、王の妹マルグリットを妻としていたブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルに王位がめぐってきた。重傷を負った国王は死の床で新教徒アンリをかき抱いて、カトリックへの改宗を懇願しながら、次の国王にかれを指名した。ブルボン朝のはじまりである。

しかし、フランス王国の約6分の1のみが新王を支持するのみで、カトリック勢力では少数の中立を除いて王に服するものはなかった。アンリは自嘲してこう述べている。
王国も兵士も金もない王、妻もない夫
とくにギーズ公の弟のマイエンヌ公にひきいられたカトリック同盟は、スペインの後援を受け、ローマ教会より破門されていたアンリ4世の即位を認めず、フェリペ2世の娘に王位をゆだねようと、新王に対し闘争を挑んだ。アンリ4世はパリを脱出せざるをえなくなり、1590年イヴリーの戦いには大勝してカトリック同盟に対して軍事的優位に立った。

数年におよぶ国内外の反対派と戦いに勝利し、カトリック同盟軍を撃退したアンリはカトリック軍の最後の牙城パリの包囲を再開したが、このときフェリペ2世の派遣したスペイン軍の不意打ちにあい、退却を余儀なくされた。しかし、この戦いにみられたスペインの領土拡大欲とフランス王国の崩壊への危惧は、アンリ4世とパリで勢力を伸ばしつつあったポリティーク派にとって有利にはたらいた。アンリは、スペイン軍の存在により惹起された愛国の情とポリティーク派の政治宣伝を利用したものの、パリへの入場はなかなか果たせなかった。国外からの干渉のみならず、国内各地にも農民一揆が起こって、王国は分裂の危機をむかえた。

ここに至ってアンリは若き愛人ガブリエル・デストレの勧めもあり、1593年7月25日に「パリはミサをささげるに値する都市である」と述べて、プロテスタントの棄教宣言をおこない、カトリックへの改宗を誓った。式はサン・ドニ聖堂でおこなわれ、カトリック同盟の狂信的な信徒のみはこの改宗の偽善性を攻撃したが、国内の統一と安定を望む大多数のカトリック信者からは広汎な支持を獲得した。

カトリック同盟の本拠地であるランスで聖別式をおこない、即位に必要な剣、杓、裁きの杖を新たにつくりなおしたうえで、1594年2月27日、アンリ4世はシャルトル大聖堂?で正式に戴冠式をおこなった。3月22日、パリはアンリ4世に城門を開いた。かつてギーズ公アンリに歓呼した市民は「国王ばんざい」とさけんで新王をむかえた。王の行列にむらがる群衆を制しようという兵士たちに、新王は「よしなさい、彼らは王がみたいのだ」と語ったといわれる。6月27日、アンリ4世は、パリに対し、これまでの特権を保証することを約束している。スペイン駐留軍も撤退した。1595年9月17日、ローマ教皇クレメンス8世は、アンリ4世のフランス王即位を正式に認可した。

ナントの勅令

新しくフランス王となったアンリ4世は、国内に残存する反対勢力に対し、軍事力、買収その他あらゆる手段をつくして懐柔につとめた。ギーズ家の残党もようやく王権に服した。しかし、アンリ4世のカトリック改宗は、ユグノーにとっては一種の裏切り行為であり、これに好意をもたないばかりか、依然としてカトリック教会を敵視していた。

そこで発布されたのが、1598年4月13日のナントの勅令?であった。ブルターニュの都市ナントで発令されたこの勅令は、カトリックをフランスの国家的宗教であると認めつつも、反抗した新教徒を恩赦し、プロテスタント諸派にも信仰の自由、いくつかの高等法院に設置した新旧両教徒同数の判事による裁判、公職就任権などを保証し、守備隊に守られた百箇所の安全地帯を約束して一種の休戦を受諾させたものであった。

その政略的性格はともかく、2つの信仰告白の共存を組織化することを企図し、宗教上の寛容が認められた点において、ナントの勅令はヨーロッパ思想史上、大きな意味をもっていた。スペインやイタリアでは異端者(新教徒)が火あぶりされるような時代にあって、フランスでは個人の信教の自由が認められ、半世紀におよぶ宗教戦争がここに終息し、国内の和平が実現したのである。

また、同年にはスペインとペルパンの和約?(ヴェルヴァンの和約)を結んで対外的にも平和をもたらした。この和約によって、アンリ4世は従来の領土をすべて回復するとともに、巧みな交渉によって、反対派最後の要塞であったブルターニュとポアトゥーの返還を了承させた。

国土再建

宗教内乱を終わらせたアンリ4世には、国土再建の大事業が待ち受けていた。多年の争乱により、フランスでは耕地は荒れ、交通は寸断され、生産はふるわず、治安も悪化した。アンリ4世即位直前当時のフランスの地方の文書には「やせ衰えた村民たちはシャツも靴もなく、生きた人間というよりも墓場から出てきたようだ」と記録されている。

アンリ4世は、反対派貴族を武力で弾圧するのではなく、懐柔することにつとめ、そのためには賠償金の支払いさえ辞さなかった。政治的均衡を保つためにかれは新旧両教徒から顧問を選んだ。また、つねに国民の生活状態を配慮する姿勢がきわだっており、国民の人気も高かった。アンリを最もよく補佐したのが、国王の「同志にして友人」であり、国王には改宗をすすめたものの自身はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていたシュリー公マクシミリアン?であった。

「耕作と牧畜はフランスの2つの乳房」と述べたといわれるシュリー公マクシミリアンは、アンリ4世の意をうけて、側近中の側近として財政改革を担当し、重農主義政策を推進した。かれは軍人にも積極的に人頭税を課し、債権者を厳しくとりしまった。財政の整備、税制の改革のほか、農業の促進、開墾地の拡大、穀物取引の自由、商工業の保護育成などの施策が講じられ、土木諸事業が活発におこなわれて、貿易、植民は奨励された。アンリはさらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河の整備を推し進めた。

アンリ4世は、コルドゥアン島の灯台やシャルルヴィル・メジエールのデュカル広場などを、戦争で荒廃した国土に建設した。狭くて汚かったパリを、新しい近代的な都市に改造し、現在のパリの基礎を築いたのもアンリ4世であった。ルネサンス式回廊で囲まれたパリで、初めての近代的広場であるボージュ広場、水不足を解消するためにセーヌ川の水を水道に導くサマリテーヌ水場、パリの人工的土地開発の最初とされるサン・ルイ島の住宅地、セーヌ川に架かる最初の石橋となるポン・ヌフ橋の建造をはじめ、大規模な首都再開発事業を展開し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿?の増築がなされて、大ギャラリーが造られた。このギャラリーは長さ400メートル、幅30メートルにおよぶ当時の世界最大級のものであり、さらに、あらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動をおこなわせた。この施策はナポレオンによる禁止まで歴代のブルボン朝の王によって継承された。サミュエル・ド・シャンプラン?がカナダを探検してケベック・シティを建設したのも17世紀初頭のことである。

シェリー公はまた、実現にはいたらなかったものの、悲惨な戦争の惨禍を防ぐため、ヨーロッパ各国が共同して国際裁判所と国際軍を持ち、侵略行為に対抗するという「大計画(グラン・デッサン)」の構想を発案していたという。また、当時のフランスを代表する農学者オリヴィエ・ド・セール?がその学識と経験を集大成した『農業経営論』は、剣を捨てて農業をはじめる人びとにとって必携の書となった。耕地面積の顕著な拡大がみられたのは、ポワトゥエとセーヌ川下流地域であった。また、交通路、とくに食糧品の輸送を確保するために水路の改善をおこなった。

重商主義者としての着想をもって工業政策を推し進めたのは、ラフマ?であった。ラフマによって奨励された養蚕はフランスの国民的産業となった。蚕の食料となる桑が随所に植えられるようになり、テュイルリー公園でも栽培されたという。それまで輸入に頼っていた生糸が生産されるようになり、絹織物業、ゴブラン織などが発達したのもこのころであった。ラフマはまたガラス工業の育成にも尽力した。

アンリ4世は、戦乱で被害をうけた農民をまもるために、税の軽減をしたり、負債をかかえる農民の農具をさしおさえることを禁止する法令をだすなど「良王」の評価を得ることに成功し、「いかに貧しい百姓でも、食卓の鍋に鶏肉がない者がいなくなった」と自らの政策のよろしきを誇った。

マリーとの結婚

勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的な王は、国民から敬愛されていた。情事も派手であり、「わたしは戦をし、そして恋をする」とみずから語ったアンリ4世は周囲からは「ヴェール・ギャラン(色男)」とあだ名された。一説に恋人の数は56人におよぶとさえいわれている。ガブリエル・デストレとの関係は有名で、野戦攻城に明け暮れていた時期のアンリがまだ18歳であったガブリエルを見初めたものであった。他にもシャルロット・デゼサール、アンリエット・ダントレイグ、さらにジャクリーヌ・ド・ビュエなどがアンリ4世の愛人として名を残している。

サン・バルテルミの虐殺のため、不幸な結婚となった妻マルグリットとの関係は冷え切ったものであった。長きにわたって別居状態がつづき、それぞれがおおっぴらに多くの愛人を抱えていた。のちにマルグリットは1人でオーヴェルニュのシャトー・ウッソンに住み、子どももいなかった。

アンリ4世が王位につくと、側近たちは後継問題で再び内戦状態にならないためにも、きちんとした後継者を残すことを提言した。アンリ4世はマルグリットとの結婚の無効を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいるガブリエル・デストレを正式な妻に迎えたいと望んでいた。側近は反対したが、王妃マルグリットが婚姻無効を承諾しないうちにガブリエルが1599年4月に25歳の若さで子癇によって急死し、この話は立ち消えとなった。

同年、マルグリットとの結婚が無効であったという判断が下され、身分の低さからガブリエルを嫌った王妃マルグリットも、イタリアの高名な大金融業者の娘マリー・ド・メディシスには、その地位をゆずった。1600年のメディチ家の令嬢との結婚は、フランスの財政難に対処するための政略的な意味合いもあった。この縁組は1592年ころから計画されており、ガブリエルの死は急速にこれを実現にむかわせた。国王47歳、「太った銀行家の娘」といわれた新しい王妃は20歳であった。

1601年9月、王太子のちのルイ13世がうまれた。マリーとの間にはルイはじめ6人の子が生まれている。その後の王の漁色は絶えず、嫉妬深いマリー王妃は王の身辺にスパイを放ち、ときには口論のすえ夫に食ってかかることもあったという。

フランス絶対王政の基礎

王国の整備によって行政機構は活力をとりもどし、結果として王権が強化されることとなった。アンリ4世はすぐれた求心力で臣下のみならず、台頭いちじるしい大都市の新興ブルジョアジーの支持を獲得するにいたった。アンリ4世は売官制を確立し、かれらが貴族として出世する道をひらいた。また、毎年年賦金を国に納めることで、官吏は自己の保有する官職を世襲することが事実上公認された。こうして1604年にシュリー公とシャルル・ポーレによって導入されたポーレット法により、法服貴族や武官貴族が台頭することとなった。

ポーレット法は手早く国庫収入を増大させるものだったが、同時に新興ブルジョワジーを国家の運営に参加させ、従来の封建貴族(帯剣貴族)層の力をそぐ効果をもっていた。そのため、ことに司法と財務関係の職務には多くのブルジョワジーが参入するようになり、こうした官職保有層の中から貴族の身分をえるものが増大した。従来の封建貴族に対し、このような新興貴族(法服貴族ら)は、ブルボン朝が絶対王政を確立するにあたって王をささえる勢力となった。

マリー・ド・メディシスの多額の持参金も財政再建に寄与した。シュリー公は王家の財政赤字を改善するため、大商人たちからの貸付を増加させた。法服貴族や武官貴族、聖職者として進出した資産家は、税制の監督権をもち、みずからの政治的、社会的役割を強化させた。これらの措置によって資産家階級に依存するという構図の形成されたフランスは、今までにないほどの繁栄をむかえた。

暗殺

ナントの勅令によって、プロテスタントに一定の自由が認められたとはいえ、フランス国境はスペイン・ハプスブルク家の軍によっておびやかされ、国内では課税に対する不満から農村部では一揆が起こっている。国王アンリは国民に親しまれていたが、ナントの勅令を認めない急進派カトリック勢力も依然存在した。かれの命は常にねらわれ、じつに17回もの暗殺計画を回避した。しかし、1610年5月14日午後4時ころ、シュリー公に会うべく大した護衛をつけずに馬車に乗り込んだアンリ4世がパリのフェロンヌリ通りで渋滞に巻き込まれていたとき、狂信的カトリックのラヴァイヤック?が王の馬車に襲いかかり、短剣で2度王の胸部を刺した。ほとんど即死であった。享年56歳。

死体を検診した医師たちは、異口同音に「このからだならば、もう30年は大丈夫だったろう」と語ったといわれる。アンリ4世の治世はこうして幕を下ろし、この衝撃的な暗殺計画は驚きと悲しみをもって長く語り継がれることとなった。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はいないといわれている。

履歴

  • 本記事の履歴を参照。

著作権者

  • Greenland4