人質の身分から解放されたアンリ・ド・ナヴァルは、ギーズ公アンリのひきいるカトリック過激派や、アンリ3世ひきいる国王軍との戦いに身を投じた。
1584年、王の末弟アランソン公が戦死すると、アンリ・ド・ナヴァルがフランス王位の第一継承者となった。これを知ったカトリック過激派のあいだにはユグノーのアンリが王位につけば、国内のカトリックを弾圧するのではないかとの不安が広がり、カトリック過激派は
カトリック同盟(第二次)を結成し、スペイン王
フェリペ2世の支援を受けたギーズ公アンリを指導者とした。こうして、国王アンリ、ギーズ公アンリ、ナヴァル王アンリの3派が抗争する
三アンリの戦いの局面をむかえた。これは、カトリックで、王権のもとに中央集権化をすすめようとする国王アンリと、ユグノーをひきいるブルボン家のアンリ、そして熱烈なカトリックではあるが王権の強化に反対するギーズ公家のアンリによる三つ巴の戦いであった。
当初国王アンリ3世はギーズ公アンリと組んでブルボン家のアンリにあたっていた。ブルボン家のアンリは、
1587年の
クートラの戦いで国王軍に勝利し有利な立場にあったが、このような状況のなか、
1588年、ギーズ家の勢力が拡大することに脅威を感じたアンリ3世はギーズ公アンリのパリ立ち入りを禁止した。これに対し、ギーズ公アンリはわずかな従者を連れただけでパリに潜入、パリの民衆もこれを歓迎した。1588年5月、新教に妥協的な国王に対してギーズ公を支持するパリ市民が一斉蜂起し(
バリケードの日事件)、アンリ3世は逆にパリを追われ、パリの南、ロワール川中流のブロワの宮殿に落ち延びた。
パリを失った国王アンリ3世はアンリ・ド・ナヴァルに接近、1588年12月には国王の差し向けた近衛兵によってギーズ公は暗殺され、
1589年4月3日、新旧両教徒はプレシ・レ・トゥールで和解し、共同でカトリック同盟と戦うことを約束し、首都パリへ進軍した。
国王によるギーズ公アンリ暗殺は、国内を二分する争いに発展し、
1589年8月にはパリを包囲中の国王アンリ自身も狂信的なドミニコ会士
ジャック・クレマン?に暗殺されて王家ヴァロア家の血統が絶え、王の妹マルグリットを妻としていたブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルに王位がめぐってきた。重傷を負った国王は死の床で新教徒アンリをかき抱いて、カトリックへの改宗を懇願しながら、次の国王にかれを指名した。
ブルボン朝のはじまりである。
しかし、フランス王国の約6分の1のみが新王を支持するのみで、カトリック勢力では少数の中立を除いて王に服するものはなかった。アンリは自嘲してこう述べている。
王国も兵士も金もない王、妻もない夫
とくにギーズ公の弟のマイエンヌ公にひきいられたカトリック同盟は、スペインの後援を受け、ローマ教会より破門されていたアンリ4世の即位を認めず、
フェリペ2世の娘に王位をゆだねようと、新王に対し闘争を挑んだ。アンリ4世はパリを脱出せざるをえなくなり、
1590年の
イヴリーの戦いには大勝してカトリック同盟に対して軍事的優位に立った。
数年におよぶ国内外の反対派と戦いに勝利し、カトリック同盟軍を撃退したアンリはカトリック軍の最後の牙城パリの包囲を再開したが、このとき
フェリペ2世の派遣したスペイン軍の不意打ちにあい、退却を余儀なくされた。しかし、この戦いにみられたスペインの領土拡大欲とフランス王国の崩壊への危惧は、アンリ4世とパリで勢力を伸ばしつつあった
ポリティーク派にとって有利にはたらいた。アンリは、スペイン軍の存在により惹起された愛国の情とポリティーク派の政治宣伝を利用したものの、パリへの入場はなかなか果たせなかった。国外からの干渉のみならず、国内各地にも農民一揆が起こって、王国は分裂の危機をむかえた。
ここに至ってアンリは若き愛人
ガブリエル・デストレの勧めもあり、
1593年7月25日に「パリはミサをささげるに値する都市である」と述べて、プロテスタントの棄教宣言をおこない、カトリックへの改宗を誓った。式はサン・ドニ聖堂でおこなわれ、カトリック同盟の狂信的な信徒のみはこの改宗の偽善性を攻撃したが、国内の統一と安定を望む大多数のカトリック信者からは広汎な支持を獲得した。
カトリック同盟の本拠地であるランスで聖別式をおこない、即位に必要な剣、杓、裁きの杖を新たにつくりなおしたうえで、
1594年2月27日、アンリ4世は
シャルトル大聖堂?で正式に戴冠式をおこなった。3月22日、パリはアンリ4世に城門を開いた。かつてギーズ公アンリに歓呼した市民は「国王ばんざい」とさけんで新王をむかえた。王の行列にむらがる群衆を制しようという兵士たちに、新王は「よしなさい、彼らは王がみたいのだ」と語ったといわれる。6月27日、アンリ4世は、パリに対し、これまでの特権を保証することを約束している。スペイン駐留軍も撤退した。
1595年9月17日、ローマ教皇クレメンス8世は、アンリ4世のフランス王即位を正式に認可した。