旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - カトリック同盟
カトリック同盟(リーグ)とは、1576年11月、フランス王国の首都パリでカトリックの過激派ギーズ公アンリが結成した同盟。ユグノー戦争における反プロテスタントの主要な勢力であった。

概要

1574年シャルル9世が死去し、弟のアンリ3世が即位。1575年9月、王位継承権を持つアランソン公フランソワ(アンリ3世の弟)がルーブル宮殿から逃亡し、プロテスタントと結んでフランス南西部に勢力を持った。また1576年、幽閉されていたナヴァル王アンリがナヴァルに逃亡、プロテスタントに再改宗した。

1576年、アンリ3世とアランソン公はボーリューの和議?を結び、三部会?の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であるとみられたため、王の政策に対する不満が高まり、ギーズ公アンリを中心に反王権も辞さないカトリック同盟がつくられることになった。

1584年、王の末弟アランソン公が戦死すると、アンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)がフランス王位の第一継承者となった。これを知ったカトリック過激派のあいだにはユグノーのアンリが王位につけば、国内のカトリックを弾圧するのではないかとの不安が広がり、カトリック過激派はカトリック同盟(第二次)を結成し、スペイン王フェリペ2世の支援を受けたギーズ公アンリを指導者とした。アンリ4世即位後、カトリック同盟はこれを認めず、ブルボン枢機卿(アンリ4世の父アントワーヌの弟)を擁立した。アンリ4世は同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功したが、パリを陥落させることができなかった。しかし、アンリ4世の改宗後はポリティーク派の発言力が高まり、カトリック同盟の過激な路線に反感が強まったため、広汎な支持は獲得できなくなった。

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