シャティヨン・コリニーの領主の家に1519年2月16日生まれた。軍人として
イタリア戦争に参加、またスペインとの戦いで捕虜になったこともある。
ジャン・カルヴァンの教えに共感してプロテスタントに改宗し、改革派の中心人物になった。宮廷ではシャルル9世から父親同然に慕われ、信任を得ていた。
当時、ネーデルラントの改革派がカトリック国スペインの植民地支配に反抗していたが、コリニー提督はこれを支持し、スペインに開戦することを強硬に主張したため、母后
カトリーヌ・ド・メディシスらから疎んじられるようになった。
1569年、ブルボン家の
コンデ親王ルイとコリニーに対する襲撃計画があり、ふたりは反カトリックのイングランドと結んでラ・ロシェルに籠城して抵抗。第3次ユグノー戦争が始まった。
1569年3月13日の
ジャルナックの戦いでは、コリニーとコンデ親王ルイのひきいる新教徒軍が、王弟アンジュー公(のちの
アンリ3世)の指揮する国王軍と衝突した。アンジュー公の勇猛な戦いぶりは評判になった。この戦闘で、コンデが捕らえられ処刑され、コリニーは反逆罪とされ、財産没収の処分を受けたが、南フランスで新教軍を再編し、勢力を挽回しつつ北進した。母后カトリーヌはユグノーとの和平を望み、翌
1570年8月、
サン・ジェルマンの和議が結ばれてコリニーに対する判決は取り消され、宮廷に復帰した。
ユグノー戦争ではカトリック派に対して残虐な仕打ちが多く、旧教側から恨みを買っていた。ことに
ギーズ公アンリからは父
ギーズ公フランソワの仇として強く憎まれていた。
1572年8月、新旧両派の和合のシンボルとしてアンリ・ド・ナヴァル(のちの
アンリ4世)とマルグリット(カトリーヌ・ド・メディシスの娘)の結婚式が行われ、コリニーをはじめ多くの改革派貴族がパリに集まった。しかし、国王の信頼を得て宮廷に勢力を拡大するユグノーのコリニーの存在におそれを抱いた王母カトリーヌやギーズ家は、彼の暗殺を企図し、8月22日に彼を狙撃させて負傷させる事件が起きた。改革派はそれに対し憤り、国王に真相解明を求めた。
コリニー暗殺が失敗に帰し、ユグノーからの報復を恐れた宮廷側は、アンリの婚儀のためパリに集まっていたユグノーの一斉殺戮を断行した。1572年8月24日早朝、ギーズ公の兵が教会の鐘の音を合図にコリニーら新教徒貴族200人以上を殺害した(
サン・バルテルミの虐殺)。最初に襲われたコリニーは、腹を裂かれ生きたまま窓から放り出されたという。55歳であった。
コリニー提督の死は、かれを慕っていたシャルル9世を狂気に至らしめたともいわれている。