アンリ4世がガブリエルを見そめたのは、
1592年ころ、ガブリエル18歳のころで、アンリが
カトリック同盟との野戦攻城に明け暮れているあいだのことであった。アンリの正妻は
マルグリット・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)であったが、その仲は冷え切っており、アンリ4世と21歳年下の愛人ガブリエルとは人目もはばからず行動し、互いに愛し合っていることを隠そうともしなかった。
美貌で知られたガブリエルは、しばしばアンリの遠征に同行した。臨月のからだでも戦場近くの王のテントそばに野営し、彼の世話を焼いたという。この愛人との逢瀬を楽しむためにアンリは重要な作戦を遅らせたりしたといわれているから、相当なうちこみ方だったと思われる。ガブリエルは聡明で現実的な女性であり、王はしばしば彼女に意見を求めた。
カトリック教徒のガブリエルは、この内戦に勝つにはアンリ自身がカトリックに改宗すべきだと考えており、しばしば王にもそのことを勧めていた。
1593年7月23日づけのガブリエルにあてた書簡のなかで王は「私の天使の美しい腕や唇に百万度も接吻します」というような表現とともに、「この日曜日に私はとんぼ返りをうつことにする」と語っている。「とんぼ返り」とは改宗のことである。7月25日、アンリは正式にカトリックに改宗し、これは多くのカトリック教徒の賛同を得て、翌
1594年3月22日には戴冠式を行った。ガブリエルに対しては彼女の夫との結婚を無効にし、モンスー伯爵夫人の称号をあたえた。
ガブリエルはアンリの最も有能な外交官でもあった。カトリック同盟内の多くの女友だちを起用し、国内の平和に貢献した。彼女はアンリとともに馬にまたがって猟や遠乗りをするのが好きで、よくパリ郊外へ出かけた。およそ7年の間、ガブリエルはアンリの事実上の妻であり、セザール(1594年 - 1665年)、カトリーヌ(エルブーフ公妃、1596年 - 1663年)、アレクサンドル(1598年 - 1629年)の3人の子供を生み、
1597年にはボーフォール公の称号を授かっている。
1599年、アンリはガブリエルとの再婚を考え、ローマ教皇庁にマルグリットとの結婚の無効を申請した。ガブリエルは「神様か、王様の死以外に、私の幸運を断ち切れるものはない」と豪語していたが、突如として子癇にかかり、4月初めに男児を死産した。ガブリエル重態の知らせは、フォンテーヌブロー宮殿にいた王のもとへ届けられた。その翌日、1599年4月10日、ガブリエルは25歳の若さで死去した。アンリにはこの訃報はガブリエルのもとへ向かう途上に知らされた。
王の悲しみは深かった。毒殺されたという噂も広がっていた。アンリ4世は黒衣をまとって喪に服したが、愛妾を亡くしてこのように服喪したフランス王はアンリが唯一の例である。王はガブリエルを王妃として弔った。
こののち、アンリ4世はマルグリットとの結婚が解消され、
1600年、アンリ4世の新しい正妻としてメディチ家出身の
マリー・ド・メディシスがむかえられた。