旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - コンデ公アンリ
コンデ公アンリ(アンリ1世・ド・ブルボン=コンデ、Henri Ier de Bourbon-Condé、1552年−1588年)は、第2代コンデ公。ユグノー戦争におけるプロテスタント(ユグノー)の首領のひとり。アンリ・ド・ナヴァル(アンリ4世)の従弟にあたる。

生涯

1552年12月29日にコンデ親王ルイとルシー伯女エレオノール・ド・ロワイエの子として生まれる。

1560年、父コンデ親王ルイをはじめとするプロテスタントは、熱狂的なカトリック教徒で弾圧側の中心であったギーズ公フランソワを襲い、国王フランソワ2世ら王族を奪取して王を拉致しようとしたが、計画が事前に察知されていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われた(アンボワーズの陰謀)。こののち、1562年にギーズ公フランソワによるヴァシーの虐殺が起こり、ユグノー戦争がはじまった。アンリは父同様ユグノー派の一員としてユグノー戦争を戦った。

最初の妻はマリー・ド・クレーヴ?(1553年−1574年)であった。1女(カトリーヌ)をもうけている。なお、マリー・ド・クレーヴはカトリーヌ・ド・クレーヴの妹であり、ギーズ公フランソワの子ギーズ公アンリと結婚している。

1569年、コンデ親王ルイとガスパール・ド・コリニー提督に対する襲撃計画があり、ふたりは反カトリックのイングランドと結んでラ・ロシェルに籠城して抵抗して、第3次ユグノー戦争が始まった。3月13日のジャルナックの戦いでは、コンデ親王ルイとコリニー提督のひきいる新教徒軍が、王弟アンジュー公(のちのアンリ3世)の指揮する国王軍と衝突し、ここで父コンデ親王は捕らえられ処刑された。アンリは、即座にコンデ公の爵位を相続した。

1573年、マリー・ド・クレーヴは21歳の若さで死去し、2度目の妻シャルロット・ド・ラ・トレモイユ(1568年−1629年)をむかえた。シャルロットとの間には1男(アンリ)1女(オラニエ公妃エレオノール)をもうけている。

1576年には全国三部会?が開かれたが、カトリック勢力が多数を占め、信教の自由の項目は破棄された。それまでユグノーと組んでいたアンリ3世の王弟アランソン公は一転してプロテスタントの拠点を攻撃し、多数の住民を虐殺した。1577年9月、ベルジュラックの和議が結ばれて第6次ユグノー戦争が終結した。しかし、この和約ではユグノー側への宗教的寛容は全体的に大きく後退した。これに不満な一部の急進的なプロテスタントは、1579年、コンデ公アンリをかついで反乱を再発させ、第7次ユグノー戦争が起こった。この反乱は失敗に終わり、1580年フレックスの和議?が結ばれた。

コンデ公アンリは三アンリの戦いのさなかの1588年3月5日に死去した。なお、息子(アンリ)は彼の死後に誕生したため、出生と同時に第3代コンデ公を継承、コンデ公アンリ2世と称した。

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