「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペは
カトリック?による国家統合を理想とした。本人も熱心なカトリック教徒であった。本家オーストリアのハプスブルク家の皇帝(フェリペからは叔父にあたる)が、
プロテスタント?勢力と迎合し、その信仰を許可(
アウグスブルクの宗教和議?)したことに対し不満を持ち、「カトリックの盟主」たらんことを自認したといわれている。
スペイン本国では、議会や都市や封臣の特権が取り消されたのみならず、宗教裁判によるプロテスタントの根絶が図られた。さらに宗教裁判はアンダルシア地方ではイスラム教徒にも向けられた。
1559年には
禁書目録?が公布され、指定された大学以外の大学でスペイン人が学ぶことも、一時的にではあるが禁止された。またフランスの
ユグノー戦争にも介入し、カトリック側を支援した。
このような異端不寛容的政策に対して、
1568年には
ネーデルラント?の反乱が、スペイン南部アルプハラース山地で
モリスコ?(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こった。アルプハラースの暴動は約2年間つづいたが、フェリペは反徒を大量虐殺したのみならず、北部地方のイスラム教徒を追放した。
フェリペ2世にとって、イスラム教徒の迫害は反イスラム十字軍の再開を意味していた。スペインは北アフリカのイスラム教国からつねにその商業を脅かされていたので、こうした迫害はスペインの国益にもかかわることでもあった。北アフリカでは、フェリペはモロッコにあるセウタ、テトアン、メリリャの各要塞を占拠していた。しかし、地中海から
オスマン帝国?の海軍を駆逐することには失敗した。
1560年、ジェルバの戦いでは大きな打撃を受け、
1571年には
レパントの海戦?で一矢を報いることができた。
レパント海戦では、異母弟
ドン・フアン・デ・アウストリア?をヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命してオスマン海軍に勝利した。また、
1579年にはネーデルラント南部諸州(現在のベルギー)を八十年戦争(オランダ独立戦争)から離脱させ、
1580年にはポルトガル王国を併合してスペイン最大の版図を獲得した。インディアス(新大陸)、
フィリピン?、
ネーデルラント?、
ミラノ公国?、ブルゴーニュ家領(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、
ナポリ王国?(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、
マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えた。
しかし、
1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする見方もある)。
1588年、フェリペは北部諸州を支援している
イングランド?をたたくために
無敵艦隊?を派遣したが、逆に敗退を喫した(
アルマダの海戦?)。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ始め、貴族位や領主権などの売却や、
1590年にはミリョネス新税を導入している。この頃にはスペイン領アメリカからの貴金属の着荷も最大になったが、軍事費増大による国庫の破綻は防げず、
1596年に大規模なバンカロータを行わざるを得なかった。さらに同年から約3年にわたってペストが流行。スペイン帝国に盛期をもたらしたフェリペ2世が死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていた。