頑迷で極端な新旧両派に対する第三勢力で、主として知識人、役人、司法官などによって構成された。国民が王権のもと結集することによってこそ、平和的な解決が可能であると主張し、またそうすることによってカトリックと
ユグノーとの共存の可能性を探った。
ユグノー戦争の後半期にはいって内乱が泥沼化するなかで、カトリック教徒のあいだにも、
ギーズ公アンリの不寛容な政策はかえってフランス王権の弱体化をもたらすものとしてこれに反対する穏健派を生じた。すなわち、王国の統一のためには新旧両教徒は教理の違いを超えて平和的に共存すべきだとの声が高まったのである。この思想は、絶対王政の理論家ジャン・ボダンの『国家論』に鮮明に表れている。
1580年に初版が刊行された『
エセー』の著者でモラリストのモンテーニュは政治的な発言を避けたが、その姿勢は党派をはなれ、くもりない目でみずからを見つめようとするもので、ポリティーク派とのあいだに相互の影響をみてとれる。自身はカトリック信者であったが、モンテーニュは、そこをはなれた省察をこころみて「良心の自由」を擁護した。
三アンリの戦いにおける
アンリ3世の行動、また、
アンリ4世自身のカトリック改宗、
ナントの勅令?の発令などの行動もポリティーク派の求めるところにしたがったものであるといえる。即位したものの5年におよび国内外の反対派と戦い、ようやく
カトリック同盟の軍に勝利したアンリ4世は、
1594年、カトリック軍最後の牙城パリの包囲を再開したが、このとき
フェリペ2世が派遣したスペイン軍の不意打ちにより退却した。しかし、この戦いにみられたスペインの領土拡張欲とフランス王国崩壊への危惧がポリティーク派にとって有利に働き、新王のパリ入場を実現させるに至った。