ゴーサーラは、万物はその細部にいたるまで宇宙を支配する原理である
ニヤティ?(
宿命?)によって定められているとして、人間の
意志?にもとづくあらゆる行為を否定し、徹底的な宿命論を説いた。その主張の本質は「人間の努力は無駄である」というものであったため、ブッダやマハーヴィーラによって厳しく批判された。
ゴーサーラによれば、いっさいの生きとし生けるもの(
衆生?)が
輪廻?の生活をつづけているのは「無因無縁」なのであり、またかれらが清らかになって、解脱するのも無因無縁である(中村、1968)。言い換えれば、
存在?が堕落する原因や動機というべきものはなく、原因も動機もなしに堕落するし、存在の純粋さも同様であって、そこにも原因や動機はなく、これらなしに存在は純化されうる(『サーマンニャーパラ・スッタ』より。エリアーデ『世界宗教史3』、2000年)。すなわち、この思想は仏教思想の根本たる
縁起?の説とは真っ向から対立する。生きとし生けるものには、支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況と本性とに支配され、いずれかの状態において苦楽を享受する。つまりは、人が同じことをしても結果が異なることがあるのは、運命によるものなのであり、行為そのものには運命を変える力がなく、行為それ自体に善悪もなく、それに対する報いもまた存在しないのである。
意志にもとづく行為は成立しえないのであるから、輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯(
六道?)をたどって清められ、やがて
解脱?にいたる。「840万大劫」(大劫=マハーカルパ、
Mahakalpa はインドにおける、きわめて永い宇宙論的な時間の単位。成住壊空の1サイクルで80回の
劫?(中劫)よりなる)とよばれる計り知れない長大な年月のあいだ、賢者も愚者も流転し輪廻して苦の終わりに達するのであり、その期間、
修行?によって解脱に達することは不可能である。ゴーサーラは、あたかも糸玉を投げると解きほぐされ、糸がすっかり解け終わるまで転がりつづけるように、賢き者も愚かな者も定められた期間の間は生々流転をつづけ、最後は何の努力もなく、自然に解脱にいたると主張した(釈迦は、この徹底した決定論を犯罪的なものだとみなし、同時代人のなかでゴーサーラを最も激しく攻撃した。エリアーデ『世界宗教史3』、p.125)。
こうしてゴーサーラは、当時、汎インド的に信じられていた「
業?」の思想を否定し、行為以外の何かが結果を決定しているとし、それは神ではないとした。神では結果の多様さ、特にその不幸な状態を説明できない。それはまた、自然の本性でもない。また、仏教などが説くカルマ(行為の結果)でもありえず、「宿命」(ニヤティ)と呼びほかないものであり、人は宿命との合一がなされたとき成功するのであり、宿命のみが人の幸福や不幸のありようを説明するのだと説いた。