旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - マルグリット
マルグリット・ド・ヴァロワ(Marguerite de Valois, 1553年−1615年)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘。フランス王フランソワ2世シャルル9世アンリ3世の妹であり、ナヴァル王アンリ(のちのフランス王アンリ4世)の王妃。王妃マルゴ(La Reine Margot)と称され、デュマの歴史小説『王妃マルゴ』のヒロイン。

生い立ち

マルグリットは1553年5月14日、パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーの城でアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女として生まれた。ニックネームの「マルゴ」は、のちにフランス国王となったフランソワ、シャルル、アンリらの兄たちによって名づけられたという。幼い頃から際立つ美貌とギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、「宮廷の華」として誰もが憧れる絶世の美女として成長した。

デュマ『王妃マルゴ』では、兄フランソワ王の政界工作のためフランドルに赴いた際、ネーデルラント総督ドン・フアン・デ・アウストリアを魅了し、ドン・フアンに「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」という科白を語らせている。

政略結婚

マルグリットには大勢の男性が求婚したが、彼女が結婚したいと願ったのはギーズ公アンリであった。しかし、彼女の母カトリーヌは、激化するカトリックとユグノーの宗教対立を解消するために、彼女をユグノーの指導者ナヴァル王子アンリ・ド・ブルボンに嫁がせようと、アンリの母でナヴァル女王のジャンヌ・ダルブレと交渉を行っていた。

当初、カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレも、宗教対立の解消という母后カトリーヌの意向に同調し、縁談がまとまった。しかし、そのジャンヌ・ダルブレは1572年6月9日に急死する。一説にはカトリーヌによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われ、ブルボン枢機卿が、ノートルダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりにのっとって、花婿花嫁を結びつけた。この時マルグリットは19歳、アンリ・ド・ナヴァルは18歳であった。

しかし、婚礼の6日後の8月24日、ギーズ公アンリと母后カトリーヌによってサン・バルテルミの虐殺が発生する。マルゴとアンリの婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー達は次々に惨殺され、夫となったアンリ自身も幽閉された。

1576年、アンリ・ド・ナヴァルがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄のアンリ3世の許に一人取り残された。そののち、マルグリットは夫アンリの許に送り届けられたが、それぞれに愛人がいて、夫婦仲は冷え切っていた。華麗な男性遍歴で知られたマルグリットは、現代的には一種の恋愛依存症ととらえられることが多い。マルグリットは病に伏したのち、1582年に再びパリの宮廷に戻ったが、兄アンリと仲違いをして再び宮廷をあとにした。

結婚の解消と晩年

1589年、兄アンリ3世が暗殺によって急死し、夫アンリ・ド・ナヴァルがアンリ4世としてフランス王位に就いた。マルグリットとの間に子供はなく、仲も疎遠であった。王位に就いてもパリ入城を果たせないアンリ4世は「王国も兵士も金もない王、妻もない夫」と自嘲のことばを述べている。

夫アンリは、マルグリットとの結婚を解消し、カトリックへの改宗を勧めた若き愛人ガブリエル・デストレとの結婚を望んだが、こののちガブリエルが病死し、メディチ家のマリー・ド・メディシスとの結婚話が持ち上がった。ガブリエルとの結婚には反対したマルグリットもマリーとの縁談には理解を示し、1599年、アンリとマルグリットの2人は正式に結婚を解消した。

結婚解消後も、アンリ4世一家との関係は良好だったという。特にアンリ4世とマリー妃との子であるルイ13世を可愛がり、自身の館と領地を遺贈した。1615年?5月27日、62歳で死去。ヴァロワ家直系の血統はここに途絶えた。

脚注

  • 本来、この項目は「マルグリット・ド・ヴァロワ」とすべきであるが、同名の記事にフランソワ1世の姉でジャンヌ・ダルブレの母マルグリット・ド・ヴァロワがあり、ここでは単に「マルグリット」とした。

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