マルグリットには大勢の男性が求婚したが、彼女が結婚したいと願ったのは
ギーズ公アンリであった。しかし、彼女の母カトリーヌは、激化するカトリックと
ユグノーの宗教対立を解消するために、彼女をユグノーの指導者ナヴァル王子アンリ・ド・ブルボンに嫁がせようと、アンリの母でナヴァル女王の
ジャンヌ・ダルブレと交渉を行っていた。
当初、カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレも、宗教対立の解消という母后カトリーヌの意向に同調し、縁談がまとまった。しかし、そのジャンヌ・ダルブレは
1572年6月9日に急死する。一説にはカトリーヌによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われ、ブルボン枢機卿が、ノートルダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりにのっとって、花婿花嫁を結びつけた。この時マルグリットは19歳、アンリ・ド・ナヴァルは18歳であった。
しかし、婚礼の6日後の8月24日、ギーズ公アンリと母后カトリーヌによって
サン・バルテルミの虐殺が発生する。マルゴとアンリの婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー達は次々に惨殺され、夫となったアンリ自身も幽閉された。
1576年、アンリ・ド・ナヴァルがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄のアンリ3世の許に一人取り残された。そののち、マルグリットは夫アンリの許に送り届けられたが、それぞれに愛人がいて、夫婦仲は冷え切っていた。華麗な男性遍歴で知られたマルグリットは、現代的には一種の恋愛依存症ととらえられることが多い。マルグリットは病に伏したのち、
1582年に再びパリの宮廷に戻ったが、兄アンリと仲違いをして再び宮廷をあとにした。