フランスの宗教改革運動は16世紀初頭、聖書の再検討などをおこなう人文主義者や
福音主義者?の活動からはじまった。1520年代になると、ドイツで始まった
マルティン・ルター?の教えがフランスにつたわって同調者があらわれ、改革派の運動は知識人や手工業者、さらには貴族の間にも拡大した。ヴァロワ朝のフランス国王
フランソワ1世は姉
マルグリット・ダングレームとともに、当初は改革派に好意的だった。しかし、30年代半ばから、ソルボンヌとパリ高等法院が改革派の弾圧を開始すると、フランソワ1世も弾圧政策に転じた。
フランス出身の人文学者で神学者
ジャン・カルヴァンが1536年に『キリスト教綱要』を出版した。これにより、新教徒はカルヴァン派を中心にカトリックと明瞭に袂を分かった。1540年代になると、ジュネーヴを中心に活躍していたカルヴァンによる信仰生活における規律や訓練を重視する教えがフランスに普及し、フランスの改革派の大部分がカルヴァン派となった。
1547年、
アンリ2世が即位すると、パリ高等法院には火刑法廷が設置されて、カルヴァン派信徒は異端として火刑に処せられた。
蓄財と勤労を正当化するカルヴァン派の教えは、都市部の商工業者に支持されていったが、改革派の運動には一部の貴族も加わり、激しさを増す弾圧にもかかわらず、強力な組織力をもって王国に深く浸透した。
1559年にパリでひらかれた第1回全国改革派教会会議に参加した教会はわずか15だったが、2年後の第2回会議は2000以上にものぼった。
改革派(プロテスタント)はカトリック側から
ユグノーと呼ばれた。「ユグノー」(huguenot)という言葉はドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、「盟友」の意味)から生まれたもので、元来は旧教徒によるカルヴァン派新教徒に対する蔑称である。この派に属するものには新興の産業市民層が多く、かれらは宗教上の寛容のみならず、三部会の定期的召集を要求し、封建貴族的なカトリック教徒と対立した。改革派教会会議が開催されると、カトリック教会と改革派教会は、教義も組織も別個のものとしていっそう対立が激化した。
新旧両派の対立は、おりからの名門貴族間の権力抗争に取り込まれた。従前より、ヴァロア王家は名門貴族間の微妙なバランスのうえに君臨していたが、1559年、アンリ2世が事故で急死し、15歳の
フランソワ2世が即位すると、新王の外戚(王妃
メアリ・スチュアート?の親戚)にあたるギーズ家が勢力を拡大して、その均衡は崩れた。ギーズ家一党が熱狂的なカトリックであったことから、これに対抗してブルボン公やコリニーら反ギーズ派の貴族たちが新教徒と手を結び、ここに新旧両派の信仰上の対立は一挙に政治対立の意味合いを帯びることになった。また、これら大貴族は配下にたくさんの中小貴族をかかえ、そこに宮廷顕職をめぐる争いが加わったため、著しく軍事化の様相を示した。
1560年、
コンデ親王ルイをはじめとするプロテスタントは、熱狂的なカトリック教徒で弾圧側の中心であった
ギーズ公フランソワを襲い、国王
フランソワ2世ら王族を奪取して王を拉致しようとしたが、計画が事前に察知されていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われた(
アンボワーズの陰謀)。これは摂政
カトリーヌ・ド・メディシスが、ギーズ公の勢力を殺ぐためプロテスタントを利用しようと企図して失敗したものといわれる。同年、夭逝したフランソワ2世の後を継いだ弟
シャルル9世の即位とともに再び摂政となった王母カトリーヌは新旧両教徒の均衡のうえにたって寛容政策を進めたが、両者の対立は激しくなるばかりであった。
1562年、シャルル9世と母后カトリーヌは宰相
ミシェル・ド・ロピタル?とともに新旧両教徒の融和を図り、プロテスタントの集会や私邸内での礼拝を認める
一月勅令(サン・ジェルマン勅令)(フランス初の信教の自由に関わる法令)を発布したが、対立を回避することができず、ギーズ公による
ヴァシーの虐殺を機に36年におよぶ内乱状態が起こった。