旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - ユグノー戦争
ユグノー戦争(ユグノーせんそう、仏:Guerres de religion「宗教戦争」)は、16世紀後半のフランス王国国内を二分した宗教戦争。1562年から1598年にかけて断続的に8回の戦闘が起こった。この戦争において、カトリック側はローマ教皇やスペインの援助を得、ユグノーはイギリス、ドイツ、スイスの力を借りて戦うことが多かったため、内乱は国際的戦争の色彩を帯びて深刻をきわめた。ユグノーからカトリックに改宗したアンリ4世の発したナントの勅令?により終息した。

戦争の背景

フランスの宗教改革運動は16世紀初頭、聖書の再検討などをおこなう人文主義者や福音主義者?の活動からはじまった。1520年代になると、ドイツで始まったマルティン・ルター?の教えがフランスにつたわって同調者があらわれ、改革派の運動は知識人や手工業者、さらには貴族の間にも拡大した。ヴァロワ朝のフランス国王フランソワ1世は姉マルグリット・ダングレームとともに、当初は改革派に好意的だった。しかし、30年代半ばから、ソルボンヌとパリ高等法院が改革派の弾圧を開始すると、フランソワ1世も弾圧政策に転じた。

フランス出身の人文学者で神学者ジャン・カルヴァンが1536年に『キリスト教綱要』を出版した。これにより、新教徒はカルヴァン派を中心にカトリックと明瞭に袂を分かった。1540年代になると、ジュネーヴを中心に活躍していたカルヴァンによる信仰生活における規律や訓練を重視する教えがフランスに普及し、フランスの改革派の大部分がカルヴァン派となった。

1547年、アンリ2世が即位すると、パリ高等法院には火刑法廷が設置されて、カルヴァン派信徒は異端として火刑に処せられた。

蓄財と勤労を正当化するカルヴァン派の教えは、都市部の商工業者に支持されていったが、改革派の運動には一部の貴族も加わり、激しさを増す弾圧にもかかわらず、強力な組織力をもって王国に深く浸透した。1559年にパリでひらかれた第1回全国改革派教会会議に参加した教会はわずか15だったが、2年後の第2回会議は2000以上にものぼった。

改革派(プロテスタント)はカトリック側からユグノーと呼ばれた。「ユグノー」(huguenot)という言葉はドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、「盟友」の意味)から生まれたもので、元来は旧教徒によるカルヴァン派新教徒に対する蔑称である。この派に属するものには新興の産業市民層が多く、かれらは宗教上の寛容のみならず、三部会の定期的召集を要求し、封建貴族的なカトリック教徒と対立した。改革派教会会議が開催されると、カトリック教会と改革派教会は、教義も組織も別個のものとしていっそう対立が激化した。

新旧両派の対立は、おりからの名門貴族間の権力抗争に取り込まれた。従前より、ヴァロア王家は名門貴族間の微妙なバランスのうえに君臨していたが、1559年、アンリ2世が事故で急死し、15歳のフランソワ2世が即位すると、新王の外戚(王妃メアリ・スチュアート?の親戚)にあたるギーズ家が勢力を拡大して、その均衡は崩れた。ギーズ家一党が熱狂的なカトリックであったことから、これに対抗してブルボン公やコリニーら反ギーズ派の貴族たちが新教徒と手を結び、ここに新旧両派の信仰上の対立は一挙に政治対立の意味合いを帯びることになった。また、これら大貴族は配下にたくさんの中小貴族をかかえ、そこに宮廷顕職をめぐる争いが加わったため、著しく軍事化の様相を示した。

1560年コンデ親王ルイをはじめとするプロテスタントは、熱狂的なカトリック教徒で弾圧側の中心であったギーズ公フランソワを襲い、国王フランソワ2世ら王族を奪取して王を拉致しようとしたが、計画が事前に察知されていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われた(アンボワーズの陰謀)。これは摂政カトリーヌ・ド・メディシスが、ギーズ公の勢力を殺ぐためプロテスタントを利用しようと企図して失敗したものといわれる。同年、夭逝したフランソワ2世の後を継いだ弟シャルル9世の即位とともに再び摂政となった王母カトリーヌは新旧両教徒の均衡のうえにたって寛容政策を進めたが、両者の対立は激しくなるばかりであった。

1562年、シャルル9世と母后カトリーヌは宰相ミシェル・ド・ロピタル?とともに新旧両教徒の融和を図り、プロテスタントの集会や私邸内での礼拝を認める一月勅令(サン・ジェルマン勅令)(フランス初の信教の自由に関わる法令)を発布したが、対立を回避することができず、ギーズ公によるヴァシーの虐殺を機に36年におよぶ内乱状態が起こった。

戦局の推移

カトリック側の指導者にはギーズ公、アンヌ・ド・モンモランシー元帥らがおり、ユグノー側には、ブルボン公、コンデ親王ルイ、コリニーらがいた。王母で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスは中立をたもち、両派の均衡の上に王家の威信をたかめようとし、数次にわたって寛容令を公布してユグノーに自由をあたえようとした。しかし、王家はしだいにカトリック側に近づくようになった。

戦いと和議が繰り返されるなかにあって、1572年、両派の和解のために画策された新教徒の総帥アンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)と、王妹マルグリット・ド・ヴァロワとの結婚式は、ギーズ公アンリら旧教派による新教徒殺戮に利用され、両派の対立は頂点に達した(サン・バルテルミの虐殺)。この虐殺は地方にも広がり、新教徒およそ8000人が殺されたが、新教徒は「暴君放伐論」を唱えて抵抗運動をゆるめなかった。

その後、カトリック側は、過激派と穏健派とに分裂し、前者は1576年ギーズ公家の一党を中心にカトリック同盟(リーグ)を結成して、異端撲滅をとなえた。後者は信仰上の対立よりも王国の統一と政治的安定を重視してポリティーク派(政治派)とよばれ、都市のブルジョワや高等法院の司法官などの間から提唱者があらわれ、その代表的思想家にジャン・ボーダン?がいた。内乱の混迷が深まると、ポリティーク派は、その影響力をしだいに大きなものにしていった。

このような状況のなかにあって、カトリーヌを中心とする王家に新旧両派を加えた三勢力の争いは、1585年に始まるいわゆる「三アンリの戦い」となって現れた。この過程でギーズ公アンリ、ついで国王アンリ3世が暗殺され、1589年アンリ・ド・ナヴァルがアンリ4世として即位した。

ブルボン家の新王アンリは、国内の分裂および外国とくにスペインとローマ教皇庁の干渉に直面して、93年カトリックへ改宗した。これはポリティーク派の支持を得、翌年2月にはパリ入城を果たし、1598年ナントの勅令?を公布して信仰の自由を保障し、ここに内乱は終わりを告げた。

ユグノー戦争は、新旧両派の信仰上の武力抗争という形をとりながらすぐれて政治的な抗争でもあり、新興ブルジョアジーの台頭や新旧両派をそれぞれ支援する外国の思惑もあって複雑な様相を呈した。この戦争の結果弱体化した王権の回復を求めて、アンリ4世は絶対王政確立のための再建に着手することになる。

8次の戦闘

第1次(1562年 − 1563年)

1562年3月、ギーズ公フランソワがヴァシーでプロテスタントを多数虐殺し、これ以後、内乱状態となった。ギーズ公を中心にしたカトリック側はパリを拠点とし、コリニー提督を中心にしたプロテスタントはオルレアンを拠点として、各地で戦闘を行った。アンリの父ナヴァル王アントワーヌは最初プロテスタント側だったにもかかわらずカトリーヌ・ド・メディシスによってルーヴルに軟禁されているうちに、色仕掛けでカトリックに改宗させられ、カトリック軍の大将として戦いに参加して戦死した。1563年、ギーズ公フランソワがオルレアン攻囲戦のさなか戦死。プロテスタントに一定の信仰の自由を認めるアンボワーズの勅令?が出され、休戦となった。

第2次(1567年 − 1568年)

1567年、ブルボン家のコンデ親王ルイがシャルル9世の奪取を謀るが失敗。これをきっかけにプロテスタントが蜂起してパリを包囲。シャルトルを勢力下に置いた。9月29日には聖ミカエルの日事件が起きている。1568年3月23日にロンジュモーの和議が結ばれ、それまで両派の融和政策を進めてきた宰相ロピタルは罷免された。

第3次(1569年 − 1570年)

1568年、スペイン領ネーデルラントでオランダ独立戦争が勃発し、フランスのユグノーはカルヴァン派を支持する態勢をとった。摂政カトリーヌ・ド・メディシスはこれを阻止するために、同8月、ユグノーに対する弾圧を開始した。1569年、コンデ親王ルイとガスパール・ド・コリニー提督に対する襲撃計画があり、ふたりは反カトリックのイングランドと結んでラ・ロシェルに籠城して抵抗して、第3次ユグノー戦争が始まった。

1569年3月13日のジャルナックの戦いでは、ブルボン家のコンデ親王ルイとコリニー提督のひきいる新教徒軍が、王弟アンジュー公(のちのアンリ3世)の指揮する国王軍と衝突した。アンジュー公の勇猛な戦いぶりは評判になった。彼は同年のモンコントゥールの戦いでも、騎馬隊の先陣に立って戦闘に加わり、勝利に貢献した。

ジャルナックでの戦闘ではコンデが捕らえられ処刑された。そののち、コリニーは反逆罪とされ、財産没収の処分を受けたが、南フランスで新教軍を再編し、勢力を挽回しつつ北進した。カトリーヌはユグノーとの和平を望み、翌1570年8月、サン・ジェルマンの和議が結ばれてコリニーに対する判決は取り消され、宮廷に復帰した。

第4次(1572年 − 1573年)

1572年8月、新旧両派の和平のためにアンリ・ド・ナヴァルと王の妹マルグリットとの結婚式が挙行されるが、カトリック側がコリニー提督をはじめ婚儀のためにパリに集まってきたプロテスタントおよそ4,000人を大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)、地方にも広がって内乱状態になる。双方の憎しみは頂点に達し、スペインが旧教徒を、イギリス・オランダが新教徒を援助した。ユグノーにとって青天の霹靂となったこの事件は、このあと「暴君弑逆(しいぎゃく)説」という抵抗権思想を生み出す引き金となった。1573年ブーローニュの和議?が結ばれる。

第5次(1575年 − 1576年)

1574年にシャルル9世が死去し、弟のアンリ3世が即位。1575年9月、王位継承権を持つアランソン公フランソワ(アンリ3世の弟)がルーブル宮殿から逃亡し、プロテスタントと結んでフランス南西部に勢力を持った。また1576年、幽閉されていたナヴァル王アンリがナヴァルに逃亡、プロテスタントに再改宗した。1576年、アンリ3世とアランソン公はボーリューの和議?を結び、三部会の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であるとみられたため、王の政策に対する不満が高まり、同年11月、ギーズ公アンリを中心に反王権も辞さないカトリック同盟が結成されることになった。

こうして、プロテスタント側は主に西南部、カトリック側は主に東部を基盤にして対峙した。同時に、ギーズ公の強硬路線についていけないポリティーク派とよばれるカトリック温和派が生まれた。

第6次(1576年 − 1577年)

1576年、全国三部会?が開かれたが、カトリック勢力が多数を占め、信教の自由の項目は破棄された。アランソン公は一転してプロテスタントの拠点を攻撃し、多数の住民を虐殺した。1577年9月、ベルジュラックの和議が結ばれて第6次ユグノー戦争が終結した。

第7次(1579年 − 1580年)

「恋人たちの戦争」とも称される。1577年のベルジュラック和約ではユグノー側への宗教的寛容は全体的に大きく後退した。これに不満な一部の急進的なプロテスタントは、1579年コンデ公アンリをかついで反乱を再発させたが、失敗に終わった。1580年フレックスの和議?が結ばれた。

第8次(1585年 − 1598年) 三アンリの戦い−アンリ4世即位

1584年、王位継承権を持つアランソン公が死去し、ブルボン家のナヴァル王アンリが王位継承者となった。1585年以降、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、プロテスタントのナバラ王アンリの3者が争う状況となった(三アンリの戦い)。

旧来からの名門貴族の特権の擁護を主張するギーズ公と国王との距離はしだいにはなれた。パリではギーズ公を支援するカトリック同盟が勢力を持ち、カトリックとプロテスタントの間で不穏な状況となった。1588年5月、王位継承を狙うギーズ公がパリに入ったのに対して、アンリ3世が軍隊を集めると、市民はバリケードを築いて対抗した(バリケードの日事件)。市民の支持を失ったアンリ3世はパリを脱出し、シャルトル、ルーアンなどへ移った。

12月にアンリ3世の刺客がギーズ公とその弟のルイ枢機卿を暗殺。カトリック同盟に対抗するため、アンリ3世とナヴァル王アンリは提携した。自己の信奉する宗派の勝利よりも、国内の統一と安定を重視する国王の姿勢は、ポリティーク派と基本的に同じものであった。しかし、1589年8月、熱狂的なドミニコ会士ジャック・クレマン?によりアンリ3世も暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。

フランスの王位継承法によってナヴァル王アンリ(アンリ4世)は王位を継承することになったが、カトリック同盟はこれを認めず、ブルボン枢機卿(アンリ4世の父ナヴァル王アントワーヌの弟)を擁立した。アンリ4世は同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功したが、肝心のパリを陥落できなかった。とはいえ、包囲戦により多数の餓死者が出たため、次第にカトリック同盟に対する反感や厭戦気分が高まった。パリのカトリック同盟内のスペイン勢力、貴族、それにパリの自治制を主張する民衆組織との内部対立をとらえ、1593年7月にアンリはカトリックへの改宗を発表。翌1594年、シャルトル大聖堂で正式に戴冠式を行ったのち、平和的にパリに入った。彼は国内のカトリック勢力をつぎつぎに帰順させ、1598年に4月にナントの勅令?を公布した。

内乱の終結と意味

アンリ4世は、長い交渉をふまえてナントの勅令に署名した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認めたもので、フランスにおける宗教戦争はここに終息した。プロテスタントはその場所を制限されたとはいえ、信仰と礼拝の自由を認められたのである。この際の、アンリ4世の立場も基本的にはポリティーク派の立場であったといえる。

ユグノー戦争によって明らかになったことのひとつは、王国の政治指導者にとっては宗教上の立場はあまり重要でなく、国王の任務は王国の政治的統一と社会的安定を維持することにある、ということだった。宗教改革の意義のひとつはここにあった。また国内的には、名門貴族を代表する家系がこの騒乱を通じて衰退し、ひいては旧来からの貴族層全体の影響力が低下した。以後国王は、高等法院の司法官など、売官制によって上昇した新興特権層に支援されるようになった。

関連項目

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