旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - ルイ13世
ルイ13世(1601年−1643年、在位1610年−1643年)は、ブルボン朝2代目のフランス国王。アンリ4世マリー・ド・メディシスの長子。

生涯

1610年父王が暗殺されると8歳で王位についたが母后が摂政となり、1614年成人したのちも政治から遠ざけられた。そのいらだちで母后のお気に入りであったコンチニーの暗殺を導いたが、国王と母后の骨肉の争いは1631年までつづいた。コンチニー暗殺後は自分の配下リュイヌの権力濫用を被った。

宰相リシュリューとの長い信頼関係は1624年から始まり、この年から国務会議に入った。以後、ルイ13世は、ユグノーの反乱、大貴族の反抗、三十年戦争への介入そして農民一揆の激発という困難な治世期を彼の献身的な政務によって乗りこえていく。

リシュリューは王国の隆盛と国王の尊厳の確立を目ざして王の信頼にこたえ、王はまた宮廷の数々の陰謀(有名なものに30年11月10日の「斯かれた者たちの日」事件がある)にもかかわらず、彼を信頼し続けた。ルイ13世は健康に恵まれず、臆病であったが、自己の義務と権威については細心の注意を払い、王国を聖母マリアに捧げるほどの信心家でもあった。

国内ではプロテスタント勢力の打破に努めて1629年その牙城であったラ・ロシェルを陥落させ、対外的には反ハプスブルク家の立場から三十年戦争に介入してアルトア、アルザスの大部分、ルシヨンを征服した。

彼は1615年スペイン王女アンヌ(アンヌ・ドートリッシュ)と結婚したが、国王の性に対する憶病心は王太子(将来のルイ14世)の誕生を20年以上も遅らせる結果となった。ルイ14世の誕生は1638年であり、この23年にわたる王太子の不在が、王弟で推定継承者のガストン・ドルレアンに希望を抱く貴族たちの陰謀を助長し、大貴族の反抗を頻繁に引き起こすこととなった。

しかし、ルイに次いで1640年のフィリップの誕生は王政を堅固にした。ルイ13世の治世は民衆運動が激発した時代でもあり、フランス南西部からノルマンディーそして南フランスへと広がって混乱に満ちた統治期であった。「国家理法」を是とする彼のめざすものは国王の尊厳と王国の隆盛の確立であったが、反リシュリューの陰謀の多発にもかかわらず、国王は死ぬまで彼に対する信頼を変えることはなかった。リシュリューの指導力によってそのつど困難を脱し、絶対王政の生みの苦しみの時代を生き抜き、リシュリュー死後はその政策を維持して王国の統治に努めた。