遺跡は、
二本松城?の入り口に
二本松藩?第7代藩主
丹羽高寛?が、家臣で
儒学者?の
岩井田昨非?の献策により、一夜のうちに自然石(
花崗岩?)の露出面に、藩士の戒めとして
爾捧爾禄民膏民脂、下民易虐上天難欺(爾(ナンジ)ノ捧、爾ノ禄ハ、民ノ膏、民ノ脂ナリ、下民ハ虐ゲ易キモ、上天ハ欺キ難シ
の16字を4字4行に刻ませたものである。
藩政改革?と綱紀粛正の指針を示したものとされ、「寛延己巳之春三月」とあることから
己巳?の年、
寛延?2年3月(
西暦?では
1749年?の4月から5月にかけて)の建造である。