旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集) - 三アンリの戦い
三アンリの戦い(1585年−1589年)とは、ユグノー戦争における終局面。カトリック教徒で王権のもとに中央集権化をすすめようとするフランス国王のアンリ3世と、ユグノー(カルヴァン派)をひきいるブルボン家のアンリ(アンリ4世)、カトリックであるが王権の強化に反対するギーズ家のアンリ(ギーズ公アンリ)の3人のアンリによる戦いのことである。

対立の構図

この対立は、
  • アンリ3世…カトリックで、王権のもとに中央集権化をすすめようとする国王アンリ(1551年−1589年)
  • ギーズ公アンリ…熱烈なカトリックではあるが王権の強化に反対するギーズ公家のアンリ(1550年−1588年)
  • アンリ4世…ユグノーをひきいるブルボン家のナヴァル王アンリ(1553年−1610年)
による三つ巴の戦いであった。

なお、三アンリはともにシャルル9世の宮廷に育った、おたがい幼な友だちの関係にあった。マルグリット・ド・ヴァロワからみれば、アンリ3世は兄、ギーズ公アンリは一時的に愛人、アンリ4世は夫である。

推移

1584年、国王アンリ3世の弟アランソン公フランソワの死にともなって、ヴァロワ家の王女マルグリットを妻としていたブルボン家のナヴァル王アンリはサリカ法典にもとづいてフランス王位の筆頭継承者となった。しかし、ユグノーであるかれは国民の過半数の支持を集めることができず、反プロテスタント感情も高まって、カトリック同盟のリーダーであるギーズ公アンリもまた王位をうかがっていた。

ギーズ公ひきいるカトリック同盟はパリ市民の強い支持を得て、1585年3月にはフランス北部の主要都市を占領する軍事行動に出た。第8次ユグノー戦争とよばれるこの軍事行動が「三アンリの戦い」のはじまりとなった。

1587年に起こったクートラの戦いでは、イングランドやデンマークなどの後援を受けたブルボン家のアンリが国王軍に勝利し、有利な状況にあった。翌1588年12月、国王アンリ3世は、同じ旧教徒でありながら政治路線の異なるギーズ公アンリとその弟ルイ枢機卿を、近衛兵を差し向けて暗殺し、ユグノーとの共同戦線を形成しようとした。ブルボン家のアンリも身の危険を感じてパリを脱出した。

しかし1589年1月には、国王アンリ3世もカトリックの修道士でドミニコ会に属していたジャック・クレマン?に暗殺され、ここにヴァロワ朝は断絶した。その結果、ブルボン家のアンリが唯一の男系王位継承権者となって、同年、アンリ4世として即位することとなった。しかし、カトリックが多数をしめるフランスにあって、新教徒の王の誕生は必ずしも順調にすすんだわけではなかった。新王アンリによってナントの勅令?が発せられる動機はここにあった。

アンリ4世は、戦後の復興と経済成長を成し遂げ、フランス絶対王政の基礎をつくったが、かれもまた狂信的なカトリック信者ラヴァイヤック?の凶刃に倒れた。三アンリはいずれも暗殺者の手にかかったことになる。

関連項目

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