1584年、国王アンリ3世の弟
アランソン公フランソワの死にともなって、ヴァロワ家の王女マルグリットを妻としていたブルボン家のナヴァル王アンリは
サリカ法典にもとづいてフランス王位の筆頭継承者となった。しかし、ユグノーであるかれは国民の過半数の支持を集めることができず、反プロテスタント感情も高まって、
カトリック同盟のリーダーであるギーズ公アンリもまた王位をうかがっていた。
ギーズ公ひきいるカトリック同盟はパリ市民の強い支持を得て、
1585年3月にはフランス北部の主要都市を占領する軍事行動に出た。第8次ユグノー戦争とよばれるこの軍事行動が「三アンリの戦い」のはじまりとなった。
1587年に起こった
クートラの戦いでは、イングランドやデンマークなどの後援を受けたブルボン家のアンリが国王軍に勝利し、有利な状況にあった。翌
1588年12月、国王アンリ3世は、同じ旧教徒でありながら政治路線の異なるギーズ公アンリとその弟ルイ枢機卿を、近衛兵を差し向けて暗殺し、ユグノーとの共同戦線を形成しようとした。ブルボン家のアンリも身の危険を感じてパリを脱出した。
しかし
1589年1月には、国王アンリ3世もカトリックの修道士でドミニコ会に属していた
ジャック・クレマン?に暗殺され、ここに
ヴァロワ朝は断絶した。その結果、ブルボン家のアンリが唯一の男系王位継承権者となって、同年、
アンリ4世として即位することとなった。しかし、カトリックが多数をしめるフランスにあって、新教徒の王の誕生は必ずしも順調にすすんだわけではなかった。新王アンリによって
ナントの勅令?が発せられる動機はここにあった。
アンリ4世は、戦後の復興と経済成長を成し遂げ、フランス絶対王政の基礎をつくったが、かれもまた狂信的なカトリック信者
ラヴァイヤック?の凶刃に倒れた。三アンリはいずれも暗殺者の手にかかったことになる。