平田篤胤は、
安永?5年8月24日(
1776年?10月6日)に
久保田藩?の久保田城下(現秋田市)下谷地町に
佐竹氏?家臣大和田清兵衛の四男として生まれ、寛政・享和・文化・文政年間に
本居宣長?の
復古神道?を体系化した。時代は
日本列島?近海に異国船が出没し、
幕藩体制?も動揺し始めた頃にさしかかっていた。
篤胤はまた、「
最後の審判?」の影響を受けた幽明審判思想やアメノミナカヌシを創造神とする
一神教?的な教説を展開して、のちに明治期の
国家神道?の成立、さらには昭和期の軍国思想にも影響をあたえた。
膨大な著述で知られる彼は名声を博し、また、門人も増えるいっぽうであったが、一方では、その熱烈な
尊王論?や過激な
儒教?攻撃が
江戸幕府?に忌避され、
天保?12年、著書刊行差し止めのうえ郷里秋田へ追放された。2年後の天保14年閏9月11日(
1843年?11月2日)、久保田城下の中亀町の自邸で68歳の生涯を終えた。この時点での篤胤の門人は553名であり、のちに「篤胤没後の門人」を名乗った人は1,330名に達するといわれる。
篤胤の墓は
遺言?により、秋田市手形の
丘陵?上に設けられた。切石を二段積としてほぼ方形の墓域とし、
墓石?は自然石の表面に「平田篤胤奥墓」と刻したものを墓碑としており、篤胤死去当時のものである。石の
玉垣?を設けた墓域の入口には、木造と石造の
鳥居?が各1基ずつ建てられている。