【シンフォニー】//ヒルシャー、オリガ、トリエラ
        //【】// General,Humor, //2008/03/26




   【シンフォニー】


 持ち主の性格を示すようにきちんと整頓されたデスクの上に、二枚のチケットが置かれている。
何の気なしにそれに目を止めたオリガは眉間にしわを寄せて溜め息をつくデスクの主に声をかけた。
「コンサート…第九ですか? この時期に珍しいですね」
「君は興味があるかい? それなら、良ければ一枚もらってくれないか」
「いいんですか、ヒルシャーさん? 誰かと一緒に出かける予定だったんじゃ……」
「いいんだ、断られてしまったから。無駄にしてしまうのも勿体ないしな」
 気落ちしているのに無理に笑って見せるヒルシャーのその表情に、ロシアの元諜報員は苦笑した。
「……トリエラにふられましたか」
 流星雨観測の夜、彼のフラテッロがベートーヴェンの交響曲第九番   『歓喜の歌』を歌っていたことは、
彼と共に少女たちを引率したアルフォンソから聞いている。
   義体にしておくのが勿体ない、あれはさぞかしいい女になるだろうに。
笑いながら言った同僚の言葉を、少し複雑な思いで聞いていたのをオリガは思い出す。
 成長しない機械の体と、大人へと移り行く思春期の心。
その折り合いをつけるのは、義体たちに施された洗脳   『条件付け』だ。
いまだ幼いその手を血に染める罪悪感、生まれてから今まで歩んできたはずの道のりを知らない不安感   
任務遂行の邪魔になるそれらの感情は彼女たちから排除されている。
「気にするな」という幾重もの刷り込みによって、少女たちは悩むことすら忘れさせられて生きているのだ。

 だが、目の前の男は薬物投与によるこの洗脳に否定的だ。
彼が担当する義体の少女トリエラには最小限の条件付けしか行われておらず、
ために反抗的とも思える態度をとる少女とのコミュニケーションに、彼は始終苦労している。
条件付けを補う一つの手段としてヒルシャーが音楽療法に取り組んでいる、と言う噂はオリガも耳にしているが、
このチケットもその一環だったということだろうか。
「僕が大人気なかったんだ。『それが命令なら』と彼女に言われて、つい腹立たしくてね」
 無理強いするつもりはない。興味がないなら構わないと、突き放してしまったのだと言う。
どうにも不器用なこのドイツ人は、そうして後からどっぷりと後悔をしている訳なのだ。
「もう少し、搦め手で攻めるべきだったかも知れませんね」
 いささか呆れ気味にオリガは言った。
何も彼女が歌っていた曲そのものがメインになっているコンサートに誘わなくても良いだろうに。
トリエラの性格から言えば、そんな反応が返ってくることは容易に想像できる。
「そうだな。僕の配慮が足りなかった、ということなんだろう」
 男は寂しげに笑うと、チケットを一枚取り上げオリガに差し出した。
「迷惑でなければ受け取ってくれないか。
僕のような無粋者の隣席ではつまらないかもしれないが」
 勿論こちらの勝手で押しつけるのだからチケット代はいらない、と男は言い添える。
こういう気遣いはできるのにねえ。乙女心の機微に疎いドイツ男を気の毒に思いながらも、
好意はありがたく頂戴することにする。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「当日は劇場まで送るよ。仕事が終わったら迎えに行こう」
「いえ、そこまでしてもらわなくても……」
 言いかけてオリガは思い直した。
「私が駐車場に行きますよ。ただでチケットをもらった挙句エスコートまでしていただいては、
プリシッラあたりに何を噂されるか分かったもんじゃありませんから」
 冗談めかして言うオリガの言葉にヒルシャーは赤面する。
「すまない。本当に、どうも僕は女性に対する配慮が足りないようだ」
「礼儀正しさは人一倍ですけどね」
 男性的な造作に似合いの晴れやかな笑顔を見せて、ロシア人は男からチケットを受け取った。






 政府機関でありながら“定時上がり”などとは無縁の社会福祉公社だが、一応目安の就業時間は設定されていて、
幸運な課員はそろそろ帰宅の途に着き始めている。
担当官の事務仕事を手伝っていたトリエラも、定刻で仕事を終わらせた真面目なドイツ人と別れ、
自分の部屋のある義体棟へと向かっていた。
「トリエラ」
 普段あまり関わりのない大柄な女性課員に声をかけられ、少女はいぶかしげに振り返る。
「オリガさん? 何でしょうか」
「あなた、今夜は暇?」
「……特に予定はありませんが」
「じゃあ、ちょっと私の代理を頼めないかしらね」
「代理?」
 不信気に眉を寄せて見返す少女に、オリガは封筒を手渡す。
「クラシックのコンサート。せっかく誘ってもらったのにどうにも仕事が終わらなくてね。
無駄にするのは勿体ないから、あなた代わりに行って来てちょうだい」
「なぜ、私に?」
 差し出されるまま封筒を受け取ってしまったトリエラは困惑する。
「アルフォンソに聞いたのよ。あなたは音楽が好きそうだから」
「ああ、あれは……」
「駐車場でもう待ってるはずだから、急いで行ってあげて」
 少女の肩を軽くたたき、オリガはオフィスへときびすを返す。
「待ってください、担当官に無断で外出する訳には……」
「ヒルシャーさんなら大丈夫よ。楽しんできて」
 片手を上げて笑ったロシア人はそのまま快活な靴音を立てて歩き去ってしまった。
後に残されたトリエラは突然の出来事にやや呆然としている。
何事につけ先手を取られることにあまり慣れていない優等生は、
それでも気を取り直して事態の収拾に努めようと忙しく思考をめぐらせた。

 日頃ヒルシャーのサポートを勤めているアルフォンソならば、まあ知らない顔ではない。
ヒルシャーが許可したのはその辺もあってのことだろう。
彼がクラシック音楽のコンサートに、それもオリガを誘って行くとは意外な気もするが。
 服装は…このままでも良いだろう。
野暮で無粋な担当官に用意されたいつものスーツにネクタイ姿が、こんな時には役に立つ。
欲を言えばスラックスでなくスカートで行きたかったけれど。
でも一応、せっかくの音楽会なのだから髪くらいおろして行く方が良いだろうか。
……いや、側頭で結上げた髪にはくせがついているからそれを整えていたのは時間がかかる。
結局のところ、このまま出かけた方が良さそうだ。

 考えをまとめながらトリエラは足早に駐車場へと向かう。
正直、思いがけず本物のオーケストラの演奏を聴けるとあって心は浮き立っていた。
 以前ヒルシャーに音楽会に誘われたこともあった。
だがその時は、自分が無防備に歌を歌う姿を見られていた気恥ずかしさが先に立って
つい反抗的な物言いをしてしまい、結局その提案はお流れになった。
彼も気分を害したらしく、その後は話題に上ることもなかったのだが。

 担当官の怒ったような、それでいて悲しんでいるようにも見えた表情を思い出すと少し胸が痛んだ。
彼が自分のためを思ってした気遣いだというのは分かっている。
ただ、トリエラはなかなかそれを素直に受け止めることができない。
 自分は、たとえ最小限とはいえ公社の洗脳を受けた義体だ。
彼に対するある種の愛情めいた感情が本当に自分のものなのか、それとも公社に強要されたものなのか
   それを見分ける術はない。
いつも心の片隅に刺さっているその小さな棘は、彼に対する自分の感情に素直になることをためらわせる。
 頭をひとつ振ってトリエラはそのとめどもないいつもの思考を追い出した。
とにかく急がないと。人を待たせているのだから。





 やや息をはずませて駐車場へとたどり着いたトリエラは、しかしそこに思いがけない人物の姿を目にして立ち尽くした。
相手もこちらに気が付いて、驚いたように声をかけてくる。
「トリエラ? どうしてここに。寮に帰ったんじゃなかったのか」
「……ヒルシャーさん」
 やられた。
トリエラは苦笑した。元諜報員の策略に見事にしてやられた。
考えてみれば彼女は『誰が』待っているのかは一言も言っていない。
前後の会話からトリエラが勝手にアルフォンソが待っているものと思い込んだだけである。
参ったなあ。額に手をやりながら、トリエラはヒルシャーの問いに答えた。
「私は代理です。オリガさんの」
「代理? …ああ」
 こちらもロシア人の策にまんまとのせられたことに気付き、少女と同じように苦笑した。
「そういうことか」
「そういうことですね」
 少し頬を赤らめて答える少女に、男は軽く咳払いをしてたずねる。
「それで…その、どうなんだろうな。音楽会には付き合ってもらえるのかな」
「代理で、よろしければ」
 さすがの朴念仁も今度は対応を間違えることはなかった。
「勿論、問題ないよ。では行こう」


 そうして彼の愛車はいつもと同じ人物を乗せ、いつもとは違う目的でローマの街へと走り出した。



  ≪Das Ende≫

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