【ピュア・バニラ】] //ビーチェ、ベルナルド
        // 【】 // Humor, //2010/08/13


【ピュア・バニラ】


 ローマ地方裁判所に程近い通り。まぶしい日差しは夏のものだが吹き抜ける風が涼を呼ぶ。
その風を正面から受けながら一人の少女がてくてくと道を歩いていた。
音楽プレイヤーのイヤホンを耳に掛け、風にひらひらと泳ぐ栗色の髪は
襟足につかない程度にまっすぐ切りそろえられている。
前髪は短く、広いおでこが子供らしい。
 ヴィオラのケースを左手に下げたその少女は、
出迎えの車でも探しているのか道路わきに並ぶ縦列駐車に視線を向けて歩いていたが、
ふと足を止めて楽器ケースを歩道に下ろしてしゃがみこむ。
編み上げ靴の紐が緩んだようだ。
 可憐なワンピース姿にはやや不似合いのしっかりとした編み上げ靴は、男兄弟のお下がりだろう。
おなかの前にある丈夫そうな緑のウェストポーチが邪魔にならないように片膝を立て、
小柄な身体に似合いの指が力加減を試すように慎重に靴紐を引っ張る。
 靴紐を直した少女は何気なく傍らに止まっていた車の後部バンパーに手をつき、
それを支点にして立ち上がった。少女の体重がかかり、車のサスペンションがしなる。
 ――と、勢いよく車のドアが開いた。
「何してやがるテメェ!?」
 麻のジャケットにサングラスの厳つい男に怒鳴りつけられ、一瞬パニックに陥ったのか
少女の表情は固まっている。
「何だあ?このガキ」
 近付いてくる男に、財布が入っているらしいウェストポーチを押さえた少女は軽く後ずさった。
運転席からもう一人が声をかける。
「おい、騒ぎを起こすな」
「……すみません。立とうとして車に触って――」
「ああ?」
 目の前に立ち居丈高に聞き返した男の声に少女の言葉は途切れ、
顔を上げないまますんすんと鼻を鳴らし始める。
「―――ち、泣き出しやがった」
「騒ぎを起こすなと言ってるだろう!――悪かったな嬢ちゃん、コイツ車に傷が付くとブチキレんだよ。
ほら、いいからさっさと帰んな」
 小さな声ではい、と答えた少女は歩道に置いていた楽器ケースを手に取り、小走りに車の側から立ち去った。
小柄な子供の姿は通行人にまぎれてすぐに見えなくなる。
 先ほどの車輌から1ブロックほど後方まで戻ると、迎えの車を見つけたらしい。
少女が近付いたありふれたワゴン車には片耳にイヤホンをかけた人影がある。
車内の人物は少女の姿を認めると助手席の窓を開けた。
少女は特段嬉しそうな顔もせず、男を見上げると口を開いた。
「ベルナルドさん、確認しました」
「おう。ご苦労さん、ビーチェ」




「車輌のナンバーは監視カメラで推定されたものと同じです。爆薬の臭いは取れません
でした。車から降りてきた男はジャケットの中にガンホルダーを吊っていました。銃種は不明です」
 嗅覚を強化された少女は表情を変えないまま淡々と報告する。
「そっか。まあ、いかにも陽動くせえあからさまな監視をしてる連中だ。端から物証は期待してなかったさ。
――しっかし下手な言い訳だな。あの車の汚れっぷりじゃ、小キズひとつで100マイル先まで追っかけるタイプにゃ見えねえよ」
 耳かけ式のイヤホンに偽装した集音マイクで少女と不審者のやり取りを聞いていた担当官はそう言うと、
小型の無線機を手にし待機している課員に連絡を取る。
「ベルナルドだ。車輌ナンバーは確認した。持ち主の割り出しを頼む」
『――了解』
「……さて、地元警察に問い合わせが済むまで小休止だな。
ビーチェ、あそこにジェラート屋の車があるだろ。好きなものを買ってきな」
「私には、好きなものは特にありません」
「怖いオッサンにいじめられた『妹』が泣いて帰ってきたら、甘い物のひとつも買ってやるのが
兄貴<フラテッロ>の勤めってモンなんだよ。いいから行ってこい。ああ、タボールは置いてっていいぞ」
「はい」
 少女が車の床に置いた弦楽器のケースがごとりと重そうな音を立てた。
高級楽器メーカーのロゴが入ったそのケースは、良く見なければ分からないが
金具が正規のものよりも頑丈な物に交換されている。
――重量が3.6キロを越える軍用小銃を収納するにはヴィオラケースの掛け金や蝶番はあまりにも華奢すぎるのだ。
 同様に拳銃を収めたウェストポーチも内側にホルダーを仕込み、バックルは金属製のものだ。
こちらも予備弾装を含め1キロあまりだが、人工の筋骨格で補強された少女の身体の動きはそれらの重さをまったく感じさせない。
担当官から小銭を受け取ると、ひらりと身をひるがえして10メートルほど先に停車している移動式店舗に向かって駆け出す。
 男はその後姿を見ながら任務前に少女と交わした会話を思い出していた。
『―――おい、ベアトリーチェ、クローチェ事件は知ってるか?』
 おしゃべりな担当官は、振り返った彼の義体が返答するのを待たずにぺらぺらと説明を始める。
もっとも同じ姓を持つ同僚との関係については言及しない。
『極右勢力撲滅の急先鋒だったクローチェ検事とその家族が、五共和国派によって車ごと爆殺されたって事件さ。
首謀者は未だに捕まっていねえんだがな』
 先日、その事件関係者の裁判を担当する検事が爆弾テロによって殺害された。
今回の任務はその後任の担当検事ロベルタ・グエルフィの警護であり、
ヒルシャー・トリエラ組とサンドロ・ペトラ組のフラテッロはそれぞれの義体が変装し、
SPとして直接対象を警護する手はずになっている。
『……で、化け様のないお子様組は外環の監視だ。
まだ暑いってのに外回りに当たっちまうとはツイてねえな、ビーチェ』
 大げさに肩をすくめてにやりと笑う担当官に、少女は無表情のまま少し首をかしげる。
『装備はHGとSMGでいいですか』
『ああ、マイクロウージーは市街戦にゃ向かないからな。タボール21あたりがいいだろ。
俺はネゲフを持ってくからよ。まあそんなもん使わないで済めばそれに越した事ぁねえがな』

―――今日のところはネストを確認して終りかね。銃火器持ってのピクニックにしちゃあ平和な日だな。
 不審車輌に向けた無線・携帯電話の電波を傍受するため盗聴器は、
ベアトリーチェが不審者と接触した後も沈黙を保っている。
 『子供を暗殺要員に使う政府組織』の存在は
テロリストの間に確証のない噂としてまことしやかにささやかれている。
それは潜入捜査にあたっている公安部員からの報告でも上がっていることだ。
それでいて何の動きもないというのは噂も知らない素人なのか、
陽動ゆえの警戒心の薄さか、それとも盗聴を警戒しての対応か。
どちらにしても監視を始めたばかりの今の時点ではまだ判断をつけるべきではない。
 コツコツと窓を叩く音に男が振り返れば栗色のおかっぱ髪が目に入る。
「ベルナルドさん、戻りました」
 少女は不審車輌の確認を報告した時と変わらぬ口調で言う。助手席の扉を開け
小銭の残りを受け取りながら、男は少女の手にしたやわらかいイタリア風アイスクリームに軽く眉を上げる。
「なんだ、バニラなんかで良かったのかよ。他にも色々種類があっただろうが」
「これが一番単純な匂いだったんです」
「…そっか」
 嗅覚を強化された彼女にとって、それぞれの味をよりはっきりと主張させるための香料は邪魔なものでしかない。
義体の能力は本人が集中しなければフルに発揮されることはないが、それでも普通の人間よりは敏感だ。
あの移動店舗はバニラが “売り” のようだが、彼女が気に入ったのなら使っている香料も天然のものなのかもしれない。
だとすれば真っ白なジェラートに点々と見える細かな黒い粒はバニラビーンズなのだろう。
 もっとも条件付けによって感情の起伏が抑えられているベアトリーチェには、
彼女自身が言っていたように物事に対する好悪の感情はない。
“気に入った” と言うより “一番身体に悪影響が少ないもの” という判断に基づいいて選択したにすぎない。
 無論担当官であるベルナルドはその事を承知しているはずである。
しかし気に留めていないのか故意なのか、先程の『泣いて帰ってきた』――実際は泣いていたのではなく
臭いを確認していただけなのだが――にしてもそうだが、この男はしばしばそういった言い回しを用いる。
 ベルナルドは助手席で無心にジェラートを舐めている少女に話しかける。
「おいビーチェ、『王様のアイスクリーム』って話知ってるか」
「いいえ」
「昔々、まだジェラートがなかった頃に、冷やした生クリームがお気に入りの王様がいてな。
ところがある夏の盛り、井戸水がぬるまっちまって生クリームが冷やせねえ。
王様お楽しみのドルチェが間に合わなかったら大事だ。
そこでコックの娘が氷の上で牛乳缶を転がして冷やしたら、これが偶然固まった。
そいつがアイスクリームの始まりって訳だ」
 もちろん砂糖や卵も入れるだろうが、要は攪拌しながら冷やすってのが肝だな。
無口な少女が返答するのはいつも大抵質問か命令に対してのみで、
今も担当官のおしゃべりには相槌も打たないが、男は身振り手振りをつけながらぺらぺらと話し続ける。
「今度寮で作ってみろよ。―――そしたら、余計な匂いのしねぇ美味いジェラートが食えるぜ」
 そう話を締めくくった担当官に、少女ははい、と答えた。
 返事をしたって事は今のは命令だと受け取ったのかね。
半眼を閉じた少女がまるで科学の実験か何かのように軽量カップで生クリームの量を確認する姿を想像して、
ベルナルドは陽気な笑い声を上げた。
少女は担当官が笑っている理由が分からず、ジェラートを舐めながら不思議そうにその様子を見ている。
 ベアトリーチェには好悪の感情はない。
それでも手にしたジェラートはすでに3分の2が姿を消している。
―――これで嫌いってこともないだろうよ。
「無事に戻れりゃ、帰る途中で料理の本とバニラビーンズでも買ってやるよ」
 陽気な男の言葉にベアトリーチェはありがとうございますと答える。
少女の白い歯がまた甘い香りのするジェラートにかぶりつき、
男の耳にコーンが砕けるパリッという音が小気味よく響いた。


<< Das Ende >>
2010.08.06.






トップページ

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

編集にはIDが必要です