【霜】  //ヒルシャー、トリエラ
          // 【】 //General, //2011/02/15


   【霜】

 冷え込みの増した早朝、大抵の人間はまだ暖かなベッドでの眠りを楽しんでいる時間に、
足音を立てぬようにひっそりと一人のドイツ人が駐車場へ向かう。
 朝方の気温が氷点下まで落ち込むこの季節、愛車にはびっしりと霜が降り、
車体の色を白く変えている。車内に鞄を置いた男はエンジンをかけて暖気を回すと、
運転席の足元からスクレーパーと吸水布を取り出した。
真っ白になっている灯火類のカバーの霜から順に、ミラー、サイドウィンドウ、フロントガラスと、
丁寧に霜を掻き取り布で拭いていく。
 運転席側から届く範囲の霜をきれいに落とすと、男は反対側に回った。
窓の下部は暖気で少し溶け始めているが、上部はまだ固く凍っている。
彼が慣れた手つきで掻き落としていく薄く張った氷の下からは傷ひとつないガラスが現れ、
低い位置から差し込む朝日が反射する。
母国を離れ、日々異国の言葉を話し異国の文化の中で生活する彼にとって、
ドイツ製の愛車を良好な状態に保つことは、ある種のアイデンティティの表出なのだろう。
 ただしそんな彼でもひとつだけ、助手席の窓にある小さな傷だけは、
それがついた日から今まで修繕をしたことがない。
ガラス用の研磨剤で磨けばすぐに分からなくなってしまうその傷は、
ヒルシャーにとってささやかな思い出の印であった。


 あれは彼のパートナーである少女が義体となってから初めて迎えた冬だった。
 あの日もこの車には真っ白に霜が降りていた。
積み込みに手間のかかる荷物があった彼は少女にスクレーパーを渡し、
彼女が乗る側の窓をきれいにしておくように指示した。
 少女は渡された道具をしばし見つめて考え込んだ。
思えば彼女は寒さになじみのない国の生まれだったのだから無理もない。
だが飲み込みの良い少女は道具の形状から用途を察して、
硬質ゴムでできたへらを窓ガラスに押し当て引き下ろした。
 キイッと響いた嫌な音にヒルシャーが振り返ると、
青い目を大きく見開いた少女がスクレーパーを手にしたまま硬直している。
 どうした、と問いかけると少女は男を振り返り、すみません、と緊張した声で答えた。
窓に傷をつけてしまいました。スクレーパーを手に握りこんだ彼女は担当官の叱責を覚悟してそう報告する。
 男は荷物を足元に下ろし助手席側に回った。
窓ガラスを見れば霜がこそげたわずかな隙間に真新しい傷がある。
愛車の傷に一瞬目をむいた彼だったが、ややうなだれた少女の様子に思い直し
角度と力加減に気をつけるよう注意するだけに留めた。
 はいと返事をして彼女はまた窓に霜取り用の道具を押し当てたが、今度はそれを引き下ろすことを躊躇している。
筋力を強化された体の力加減にまだ自信がなかったのかもしれないが、
男にはその様子が、再度失敗をして叱られることを怖がっている小さな子供のように見えた。
 先ほどのいささか大人気なかった自分の反応のせいかと反省した彼は、少女の手の上に自分の手を置いた。
驚いた表情で振り向いた彼女に、一緒にやってみるから覚えなさいと言い、
少女の手ごとスクレーパーを握ってゆっくりと下方へ移動させ始める。
 冬の澄んだ空気に氷を削る音が響く。
段々と広がるガラス面に映る少女の真剣な表情を見つめながら、
自分の掌に納まってしまう少女の手の小ささに、男は守るべき存在を深く意識した   



 あれから三回目の冬が巡り、もう彼女が男の車に傷を付けることはない。
優秀な生徒に彼が直接手を取って何かを教えることもなくなった。
 白い息を吐きながら愛車の霜を落とし終わったヒルシャーは、給水布を軽く絞り水を切る。
あの頃からずっと使い続けている道具を運転席の下にしまい車に乗り込むと、
助手席に置いた座学の資料で膨らんだ鞄を確認し、男はパートナーの待つ公社へとハンドルを切った。


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