社会福祉公社技術部保管庫 - 【甘い罠】
【甘い罠】//トリエラ、ヒルシャー、ジョゼ、エッタ
        //【】// Humor,//【スウィート キッチン】後日談//2008/05/06




   【甘い罠】


 ヘンリエッタがハンディミキサーを買ってもらったと言うので、今日はクラエス先生の料理教室が開催されることとなった。
本日のメニューは大雑把に作る程美味しいと言われるスコーンと、付け合わせのホイップクリームに苺ジャムである。
スコーンをオーブンで焼き上げる間に、早速ヘンリエッタが真新しい電動泡立て器の威力を試し始める。
 そんな少女たちの楽しげな笑い声が響く調理場を一人の男が覗き込み、声をかけた。
「トリエラはいるかな?」
「あ、ヒルシャーさん」
「! ヘンリエッタ!」
 不用意に手元の調理器具を持ち上げたヘンリエッタの行動に、とっさにトリエラは自分の担当官の前に立ちふさがった。
高速で回転する泡立て器に撥ね飛ばされた生クリームが少女の顔面を直撃する。
「トリエラ?! ごめんなさい!」
「……う〜冷たい…。ヘンリエッタ、駄目じゃないか気を付けなくちゃ」
「ごめん……」
「いいよ、今度から気を付けて。   ヒルシャーさん、汚れませんでしたか?」
「ああ、僕は大丈夫だ。君は……」
 振り返った少女の無事を確認しかけて、何故かヒルシャーは絶句した。
不信気に眉を寄せる少女の褐色の肌に、ホイップされかけてもったりと重くなった白い液体が
ゆっくり流れ落ちてゆく。
「ヒルシャーさん?」
   急な出張になったので、明日の僕の講義は休講になる。
各自ジャンさんの指示に従うように。以上だ」
「あ、はい。分かりました」
 どこか泳いだような視線で用件を伝えると、それじゃあ、と妙にぎくしゃくとした動きで男は調理場を出ていった。
見送ったリコが不思議そうに言う。
「ヒルシャーさん、どうしたんだろう。熱でもあるのかな? 顔赤かったね」
「さあ。何だろうね」
 手の甲で拭った生クリームをぺろりと舐めて、そのすさまじい甘さにトリエラはまた顔をしかめた。





 急な出張のために必要な情報を確認し2課のオフィスに戻ったジョゼは、
何やら遠巻きに奥の様子をうかがう課員たちの姿に眉を上げた。
「どうかしたのか? アマデオ」
「いや、それがその……」
 問われた課員はオフィスの一角にちらりと視線をやる。
同じ方向を見やったジョゼは、う、と一瞬ひるんだ後状況を理解した。
 きちんと整頓された机の前に、ページを開かないままの書類を睨んでいるドイツ人の姿がある。
デスクに肘をついた片手を額にやり眉間に深い立て皺を刻んだ彼は、『苦悩』と題された彫像のように微動だにしない。
普段でもさほど陽気な質ではない彼だが今日の暗さは尋常ではない。
隣席のアルフォンソはあまりの居心地の悪さにすでに逃げ出した後だ。
 できうることならば自分も逃げたいところだが、明日の出張の同行者とあっては打ち合わせをしないわけにもいかない。
知らない内に押し付けられていたババ札に内心ため息を付きながら、ジョゼは努めて明るくドイツ人に声を掛けた。
「やあ、ヒルシャー」
「……ああ、ジョゼさん」
「どうしたんだ? 終末の予言書でも開いたような顔をして。周りが怯えてるぞ」
「いや…何でもありません」
「何でもないって顔じゃないぞ」
「いえ…本当に何でもないんです。極めて個人的なことで……。
ただ…自分で自分が許せないだけなんですよ……」
 そう言ってヒルシャーは重苦しいため息をついた。
深く深く自己嫌悪の底なし沼に沈んでいる生真面目なドイツ人の様子に、
この落ち込み様は十中八九彼のフラテッロに関することに違いあるまいと踏んでジョゼは話に水を向ける。
「なんだ、またトリエラともめたのかい?」
 瞬間、これ以上落ち込むこともなさそうだと思えた男の表情が、更に一段階暗くなる。
 しまった。これは地雷を踏んだか。
男性課員からいささかの侮蔑と嫉妬をもって“優男”と揶揄される、ジョゼのやわらかな造作の顔が微妙に引きつった。
「彼女は……気付いていないと思います。僕の側の問題なんです……。
あんな事に動揺してしまうなんて……」
 おいおい、頼むからこんな所で懺悔を始めないでくれ。
男の言うあんな事がどんな事なのか、酒の席ならつつき回して肴にするのもいいだろうが、
課員全員が書類の防護盾やPCモニターのバリケードの隙間から注視しているこの状況で聞きたくはない。
 傍観者の立場でならばいつものことだろうと笑っていられるが、
相談相手として他人の兄妹喧嘩の渦中に巻き込まるのは御免こうむる。
どうにか戯れ言にまぎれさせてこの話題を終了させようと、殊の外明るい口調でジョゼはヒルシャーの言葉に応じた。
「気付かれていないなら幸いだな。何が原因だか知らないけれど、そのまま隠し通せばいいじゃないか。
だがそんな顔をしていると、君が問題を抱えていることがばれてしまうぞ。
彼女は賢いから、男の下心には敏感だ」
 以前にも言った軽口を笑って言の端にのせたジョゼは、次の瞬間、己の軽率さを激しく後悔した。
 『苦悩』から『絶望』へとレベルアップした生ける彫像が今度は組み合わせた両手の間に顔を埋め、
地獄の底をさまよう亡者もかくやと思われる陰々滅々とした溜息をつく。
「…………」
「…………」
 作戦に失敗したジョゼに周囲の視線が痛い。
「……とりあえず、仕事の話をしようか」
「……そうですね」
 主が逃走した隣席に腰掛け書類のファイルを開いた不運な優男に、
いや、むしろ責任取ってそいつを外に連れ出せよと全員が声に出さずに突っ込んだ。



 周囲から冷たい視線の集中砲火を浴びながら陰鬱なドイツ人との打ち合わせを終え、
ようやくオフィスから撤退したジョゼはもはや満身創痍である。
同僚から移されたように疲れたため息を付くジョゼに、遠慮深げに名を呼ぶ少し幼い声がした。
「あの、ジョゼさん」
 視線を下げれば殺伐とした風景に咲く一輪の可憐な花----そんな風情で彼の『妹』が廊下の端に立っている。
「やあ、ヘンリエッタ。いい匂いだね」
「はい!クラエスに教わって、皆でスコーンを焼いたんです。
あの、昨日ジョゼさんにいただいたハンディミキサーで、ホイップクリームも作りました」  
 担当官の一言に、ぱあっと表情を明るくして少女は小さなバスケットを差し出した。
「そうか、それじゃあ天気も良いことだし、表の芝生で一緒にお茶でも飲もうか」
「はいっ」
 ジョゼが本日二つめの深く大きな墓穴を掘ったことに気付くのは、それから5分後のこととなる。



 翌日。
一晩中自己嫌悪の泥沼から抜け出せず背景に暗雲を背負ったままの陰気なドイツ人と、
一晩経っても消えない破壊的な甘味のあまり苦虫を噛みつぶしたような顔になっている優男は、
無言のまま連れだって公社本部を出発した。
 そしてこの災厄の女神に気に入られてしまった不幸な二人組は、
本部でいかなる深刻な事態が起こったのかと、来訪先のフィレンツェ支部の人間を不安と混乱に陥れたということである。


   《だす えんで》

     BGM // ルロイ・アンダーソン 『プリンク・プレンク・プランク』