朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

一年まえだった。林は全羅南道、谷城郡、悟谷面の生家に母と二人でくらしていた。

ある日、まだ夜明けまえ、林の家の板戸がけたたましく、うちたたかれた。おきだすひまもなくうちがわからかけたかんぬきがとんで戸があけられると、そこには日本人の憲兵と、駐在の警官と、徴用令書をもって顔をこわばらせたひとりの同胞――朝鮮人の面長がたっていた。かれらはなきさけぶ林の母をしりめに、林をそとにつれだした。警官にまもられたトラックが部落のはずれにまっていた。そこには、林とおなじ年ごろの仲間たちが、もう十数人ものせられていた。そのトラックがとまると汽車が待っていた。汽車がとまると船が待っていた。船がとまるとまた汽車が待っていた。そのたびに殖えていった仲間たちが、今度はへりはじめた。あるものは大阪で、あるものは東京でおろされ、ある者たちは、どことも知れぬ小さな町におろされた。それでも花岡でおろされた総数は百名近かった。そのなかには、七ッ館で死んだ李や金もはいっていた。

(「地底の人々」民衆社版p131)



ここで仁村が大声をたてるということは今夜の七ッ館閉鎖作業を、けっきょくにおいて放棄することに通じていた。かれはさいごまで面子にしばられた。飯場警戒、――しかも、四百人の強制徴用の朝鮮人坑夫をあいてに「増産戦」を指導している第五寮の飯場警戒として、また、産業報国会の一委員として、仁村はこの場で、たとえ定吉に息の根をとめられても、音だけはあげたくなかった。

(「地底の人々」民衆社版)

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