朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

1937年に日中戦争が勃発すると、国内の炭鉱は、多くの労働者が戦争にかり出されたこと、また新規の労働者を国内で確保することが困難になってきたことから深刻な労働力不足に陥りました。そのため石炭鉱業連合会など炭鉱の業界団体は、それまで日本への渡航が制限されていた朝鮮人の「移入」を政府に要請しました。


1938年には「国家総動員法」が公布され、翌年1939年7月には同年度の「労務動員実施計画綱領」が閣議決定され、その中で移入朝鮮人の数は8万5千人と定められました。この9月から「募集」方式による朝鮮からの動員が始まります。


・「募集」(1939年9月〜1942年2月)


「募集」は、厚生省から認可を受けた雇用主が朝鮮総督府に申請し、朝鮮総督府および地方行政各局によって募集地域・人数が決定し、その決定に従って現地での募集を始める、という方式でした。現地では企業から派遣された募集係と現地の面長や面の役人、および警察官が実務に当たりました。


1939年頃の朝鮮では、日本による植民地支配下の厳しい地主制により、多くの貧しい小作農民が苦しい暮らしを余儀なくされていたことに加え、死者を出すほどの大旱魃にも見舞われていました。そのため、募集が始まった当初は応募者が殺到しました。しかし、主な動員先が危険を伴う炭鉱であったこと、動員先の過酷な状況が次第に知れ渡っていったこと、さらには朝鮮半島内での余剰労働力が減少する一方で日本への動員数が増加していったことで本来の方法では募集が困難になってきました。そのため、動員の強制性も徐々に増大していきます。





戦争が拡大・継続される中、日本での朝鮮人労働力の需要がますます高まる一方で、朝鮮半島でもまた、鉱工業や農業の増産のための労働力を確保する必要があったため、朝鮮人労働者の送出はますます困難になっていきました。そこで「募集」方式の代わりに実施されたのが「官斡旋」でした。


・「官斡旋」(1942年2月〜)


「官斡旋」について簡単に説明すると、朝鮮人の送出する朝鮮総督府側の役割が「募集」より強化されたものです。総督府の主導の元、地方行政や警察、関係機関が密接に協力して動員候補地や労働者の選定を行いました。


しかし前述の通り、朝鮮の余剰労働力は減少し、また朝鮮人労働者の動員に対する忌避意識も高まってきました。そのため、動員の強制性(権力を背景にした恫喝や脅迫など)も強まり、物理的暴力による連行も頻発していくようになります。また、割当を満たすため、本来ならば除外されるはずの身体虚弱者や老人までも連行されるようになっていきました。


・徴用(1944年9月〜)


1944年9月からはそれまでの「官斡旋」と併せ、本格的な徴用(朝鮮ではこれ以前も、軍要員には徴用が適用されていました)が実施されることになりました。これは拒否すれば懲役・罰金が課せられる、法的強制力を伴うものでした。この時期は警察の動員などもより強化されましたが、朝鮮人側の徴用忌避や逃亡、あるいは暴動などの抵抗もあり、多くの場合、労働者確保の予定数を達成することが出来ませんでした。また1945年になると日本船舶に対する米軍潜水艦の攻撃は苛烈さを増し、朝鮮―日本を繋ぐ関釜連絡船の運航が困難になり、3月以降は朝鮮から日本への労働者送出は停止したようです。しかしそれでも1944〜45年の間に「徴用」によって朝鮮から日本へおよそ21万人の朝鮮人が連行されたとみられます。

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