朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

金達善氏(1941年、17歳で北海道の静狩鉱山に連行される)の証言



一九四一年の九月のことです。当時、一七歳だった私は、慶尚北道尚州郡の小さな農家の次男でした。ごく普通の農民のせがれとして野良で働き、家事をみる毎日の生活を送っていました。そんなある日、面事務所からひとが来て、北海道な鉱山で働かないかということでした。私は農作物も順調に実っておりましたので、噂では死ぬほどつらい思いをするという日本の鉱山くんだりまで働きに行くこともないと、面事務所のひとにことわりました。事実“募集”に応じて日本に行ったひとの手紙や、消息は非常に悪いものでしたので、日本に行きたいというひとはほとんどいなくなっていました。面事務所の書記は「男子が二人以上の家からは一人は募集に応じてくれなければ困る。あなたのところは三人も男手があるのだからなんとか一人は出てくれ」ということでしたが、父が「北海道という所は寒いところだし、鉱山の労働も厳しいそうだからそんなところに息子はやれない」と口論になりましたが、結局、すでに“募集”で日本に行っても、こき使われるだけだと噂は広まっていましたので、父も私を日本に送り出す気持はなかったのです。そんなことがあって数ヵ月後、旧の八月一五日のことです。朝鮮では旧の八月一五日は先祖を祭る行事を各々の家で盛大に行い、全土が祝日になりますが、その日、私は、朝方従兄の家によばれに行くつもりで家を出ました。従兄の家は私のところから八キロメートルも離れていたでしょうか……その隣村にあったので、隣村に行く道をてくてく歩いていると、うしろからひとを荷台に乗せた貨物自動車が来て、私の前を通りすぎ、そして急停止しました。見ると、トラックの荷台には七〜八名の朝鮮人が不安そうに顔をこわばらせ坐っており、日本人も何人か見えました。そのトラックから年配の男と若い二人の日本人が飛び降り、私のほうにかけつけて来て、どこに行くのかと詰問するように聞きますので「隣村の従兄の家に行く途中だ」と答えました。すると年配のほうの男が「それでは貨物自動車で送ってやろう」と言い、トラックに乗れと言いましたが、私は従兄の家は近いから歩いて行くと答えると、「いいから、乗れ」と無理矢理にトラックの荷台に乗せてしまいました。トラックが走り出してからも不安になり、すぐに降ろしてくれるように頼んだのですが、日本人はニヤニヤ笑って答えようともしません。そのうちに隣村に入る道の前をスピードをあげて走り去ってしまったので、このままではどこに連れられて行くかわからないと思い、必死になって降ろしてくれるように頼みました。それでも降ろしてくれそうもないので、トラックから飛び降りようとすると、若い日本人が何かわめいたかと思うと、ピシ、ピシとビンタを張りました。驚いて何事かと思っているうちに、またビンタを張られました。何が何だかわからないうちに彼らの出張所になっている旅館に連れて行かれ、旅館の部屋に監禁されてしまい、その翌日、元山行の列車に乗せられて、元山から船で北海道に連れられてきました。


金賛汀「証言朝鮮人強制連行」(1975年、新人物往来社)p15〜16

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