朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

資料3・朴五龍氏の証言1


一九四四年五月二十八日のことです。苗代をつくるために、父と二人で田圃に行った。

(中略)

「種モミを取って来るから、水加減を調節しておいてくれ」

父はそういい残して、家に帰ったまま田圃に帰って来ないのです。ちょうど朝の十時頃だったと思うが、妙な予感がして急いで家に帰ると父の姿がない。

(中略)

父を探しに家を出ようとすると、近所の老婆が顔色を変えて歩いて来るのに出くわしました。

「五龍よ、お前の父さんは巡査に連れて行かれた。今は面事務所にいるよ」

私は、その場に座り込むほどのショックを受けました。そのことを母に知らせる暇もなく、汚れた服のまま、私は四キロある面事務所まで走って行きました。

そこには私と同じように、急を聞いて駆けつけた人々が大勢集まって、遠巻きに見守っていました。父はやって来た私に気づくと、右手を上げて、向こうへ逃げろというような合図をしました。その時、そう何時までも逃げることは出来ないと、覚悟を決めて父の側に行きました。

それを見つけた面倒事務所の書記が来て、

「五龍、貴様は逃げてばっかりでひどい奴だ。もう、この辺りで覚悟をしたらどうだ。貴様も親父と一緒に内地へ行け!」

二人一緒に行かせかねない様子でした。

「私は大同炭鉱に行ったじゃないか(引用者注・朴五龍氏は1940年、13歳の時、朝鮮北部の大同炭鉱に募集で連行された。満期の二年が過ぎても帰されなかったため、貯金や給料もそのままにして逃亡した)。もういいはずだ」

「お前はそこを脱走したじゃないか。今度は徴用だから覚悟をしてもらおうか

「仕方がない。しかし、父だけは絶対にやらないと約束してくれ。でないと家が困るじゃないか」

私は父を日本に行かせまいと、何度も念を押しました。面書記と面巡査の卑怯なやり方に無性に腹が立ちましたが、父を人質に取られているので止むをえません。下手に騒ぎ立てると大変です。

(中略)

よく見ると、私のような十代の若者は一人もいません。みんな突然の徴用で、不安を隠し切れずに震えていました。私も田圃から上がったままなので足は泥だらけです。百姓姿で、素足の人も何人かいました。みんな生け捕りにされたのでしょう。

「消された朝鮮人強制連行の記録―関釜連絡船と火床の坑夫たち」(林えいだい/明石書店、1989)p180〜181

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