07/08/06 全国最高協議会

全国最高協議会でのスピーチ


 一、はじめに、上半期の全同志の奮闘に、最大に感謝申し上げたい。
 本当に、ご苦労さまでした。ありがとうございました(大拍手)。
 また、伝統の夏の最高協議会の開催、ご苦労さまです。
 広宣流布のために、次の戦いを、しっかりと勝つように、心一つに打ち合わせを進めてまいりたい。
 「勝つ」ことが、全会員の喜びであるからだ。
 そしてまた、「勝つ」ことが、広宣流布が進むことであるからだ。
 仏法は勝負である。勝たねばならない。
 勝つことで、子孫末代も幸福になる。
 勝ち抜いた福徳は、親から子へ、そして未来へ永遠に伝わっていくのである。
 さあ、創立80周年(2010年)へ新たな出発である。
 断じて勝とう! そのための最高協議会である(大拍手)。

 一、「真剣」と「誠実」は勝利である。
 「真剣」とは、環境や状況がどうあれ、わが責任を果たし抜くことである。
 「誠実」とは、だれが何と言おうが、自分が犠牲になって、勝利に尽くしていくことである。
 その通りに、私は行動してきた。
 最も大変なところで、常に勝利の証しを打ち立ててきた。

 一、「要領」と「口先」は敗北である。
 叱ったり、号令をかけるのは、指導者ではない。親分だ。
 苦労は自分が背負って、皆は楽にさせてあげる。
 学会を守る。一生懸命に戦ってくださっている会員を大事にする。
 それが指導者である。この「正しき道」を最高幹部がつくっていってもらいたい。
 人を動かそう、人にやらせよう――その怠惰な命は叩き切っていく以外にない。根本の魂を変える以外にない。
 人の心をつかむ人が、指導者である。
 皆を喜ばせてあげる。
 元気にさせてあげる。
 それが本当の指導者である。
 指導者は同志に好かれることが大事だ。
 「いつもありがとうございます!」「本当にご苦労さまです!」と頭を下げて、同志を讃え、感謝を伝えていくことである。
 広布に戦う学会員ほど、尊い存在はない。
 だれもが等しく大切な「仏子(ぶっし)」である。
 この尊き同志を守ろう! 真剣な同志に応える戦いをしよう!――その心がある人が伸びていくのだ。
 反対に、同志を軽んじたり、広布の和合僧である学会を私利私欲のために利用する人間の末路は厳しい。
 御聖訓に説かれている通りだ。

 一、「『師弟』を知った人は、真実の人間である。
 まっとうな人間の世界は、すべて『師弟』があるのだ。
 そして、その人は、勝利の人生を歩む。
 『師弟』をおろそかに者は、畜生の世界である」
 これが牧口先生、戸田先生の確信であられた。
 私も青年時代から、戸田先生に仕え切った。
 戦後間もなく、戸田先生の事業が挫折。
 再建の見通しはなく、大勢の借金取りに追われ、先生のご心痛は、どれほどであったか。まさに地獄であった。
 その時、私が一人、獅子奮迅で立ち上がり、戸田先生の事業を支えた。
 何カ月も月給はもらえない。
 もらえないどころか、私が何とか工面(くめん)して、また、私と妻の実家にもお願いして、戸田先生をお守りしたのである。
 それから考えれば、皆は恵まれている。
 偉大な戸田先生を貶(おとし)めようと、悪意のウソを書き立てる人間もいた。
 戸田先生を師匠と思えない慢心の幹部もいた。
 そうした輩と、一切の妥協なく、戦い抜いたのも私である。
 私は祈った。
 ――広宣流布の真実の指導者は、戸田先生しかいらっしゃらない。
 断じて戸田先生に次の会長になっていただくのだ。
 そのためなら若い私は、どんなに犠牲になってもかまわない。
 絶対に私が戸田先生を会長にするのだ――と。
 そして、昭和26年(1951年)の5月3日、戸田先生は、晴れて第2代会長に就任された。
 先生は勝った!
 弟子も勝った!
 先生は、すべて分かっていてくださり、「悪いな、大作。ありがとう、大作」と涙を流されたのである。
 さらに私は、生涯をかけて、戸田先生の偉業を全世界に宣揚してきた。
 古代ローマの哲学者セネカは綴(つづ)った。
 「賢者が偉大である理由は何か。偉大な魂をもっているからだ」(大芝芳弘訳『セネカ哲学全集6』岩波書店)と。
 創価学会の偉大なる「師弟の魂」を、心賢き皆さんに受け継いでいただきたいのである。

 一、青年時代、私は戸田先生のもとで多くの古典や文学作品を学んだ。吉川英治氏の『三国志』も、その一つである。
 ある時、先生が「諸葛孔明の、あの言葉はよかったな」と言われて、次の一節を紹介されていたことがある。
 「言葉をもって励まして、初めて責任も一層強く感じ、相手の認識も新たにすると申すものです」(講談社)
 孔明が、主君である劉備元徳に対し、部下への接し方について述べた言葉である。
 「大丈夫だろう」「わかっているだろう」では危ない。大事なことは明快に声に出して伝える。励ましを送る。
 そうであってこそ、相手は深い責任感に立って、最高の力を発揮することができるのである。
 私は「その通りだと思います」とお答えした。
 どんな時でも、文学や哲学をめぐって、師弟の語らいは花が咲いた。
 知っていることは、すべて教えておきたい――先生は、そういう思いで私に万般の学問を授けてくださった。日々の語らいも、すべてが訓練であった。本当に偉大な師匠であった。
 青年を育てる。青年を偉くしていく。それが本物の指導者である。
 戸田先生は、徹して青年部を大事にされた。婦人部を大切にされた。
 若い人や女性を手下のように使って、軽んじる――それは真実の指導者とはいえない。

 一、中国の古典である『貞観政要(じょうがんせいよう)』には、こう記されている。
 「始めにおいて勤めなければ、終わりに悔いることがありましょう」(原田種成著『新釈漢文大系第95巻』明治書院)
 何事も、真剣に努力して取り組まなければ、満足する結果を得ることはできない。最後は後悔しか残らないであろう。
 特に青年部の皆さんは「私は全力を尽くした」と言える、完全燃焼の青春を生き抜いていただきたい。

 一、現在、全国の会館や研修道場では「夏季フリー研修」が活発に行われている。
 また、各地で人材グループなどの代表による研修が予定されていると、うかがっている。
 夏の研修会は、創価学会の偉大な伝統となっている。
 牧口先生の時代には、昭和11年(1936年)8月に、第1回創価教育学会修養会(研修会)が開催された。
 以後、牧口・戸田両先生が投獄される前年の昭和17年の夏まで、毎年、行われたのである。
 この研修会では、朝はラジオ体操を行ったり、夜は座談会を開催したりするなど、心身練磨の研修が活発に進められた。牧口先生にとって、本山(大石寺)で開催する研修会は、烈々たる「破邪顕正」の闘争の場であった。
 昭和16年の研修会では、牧口先生は「法罰論(ほうばちろん)」を誹謗する宗門の坊主の邪義を、厳しく破折されている。
 先生は、宗門の坊主の臆病な主張を破折して、師子吼しておられた。
 「御本尊は偉大な力がおありになる。罰なくして、大利益があるわけがない」
 「御本尊をじっと拝んでみよ。『若(も)し悩乱せん者は頭(こうべ)七分(しちぶん)に破(わ)れん』との御本尊のおおせが聞こえないか。御本尊が罰をおおせではないか」
 烈々たる大確信の叫びであった。
 私たちには、偉大な御本尊がある。
 行き詰まったら、まずは題目をあげることだ。祈って、最高の智慧を湧きいだす。そして行動していく。
 乗り越えられない困難など、絶対にないのだ。

 一、戸田先生もまた、出獄された翌年、昭和21年8月に戦後第1回となる学会の夏期講習会を開催された。
 ここでは御書講義、質問会、座談会などが行われている。
 以後、逝去(せいきょ)の前年となる昭和32年の夏まで、毎年の伝統として、こうした講習会を実施された。
 この夏の研修を一つの前進のリズムとして、75万世帯の弘教達成への上げ潮はつくられていったのである。
 さらに戸田先生のもと、男子部の精鋭による「水滸会」の野外研修が行われたことも忘れ得ぬ思い出である。〈昭和29年9月、奥多摩の氷川キャンプ場、昭和30年6月、山梨の河口湖・山中湖で〉
 私は、こうした伝統をさらに発展させ、夏の研修や夏期講習会を通して、人材の育成に全力を注いできた。

 一、水滸会の野外研修の際、キャンプファイアーの燃え盛る炎を指さされ、戸田先生はこう語られた。
 「この燃える薪(たきぎ)は、私たちの生命である。そして信心の炎であり、学会精神である」
 先生は、一回一回の研修に全魂を注いでくださった。“広宣流布の炎”を断じて青年に託すのだとの思いで、一つ一つ訓練してくださった。
 先生のご指導は、すべてが遺言のごとく、私の胸に焼き付いている。
 また、同じく野外研修の際に、バンガローや旅館では勤行・唱題が思うようにできないことから、「将来、思う存分に、信心と人生の鍛錬をする所が必要である」と述べておられた。
 現在、日本中、そして世界中に、数多くの学会の会館や研修道場が設立されている。
 私が、こうした施設の建設に力を注いできたのも、恩師の願を実現したいとの思いからであった。
 いよいよ“鍛えの夏”本番である。
 まずは最高幹部が団結し、新たな勝利のために真剣に協議していくことだ。もう一度、原点に立ち返って、自身の信心を磨き抜いていくことだ。
 充分に英気を養いつつ、さらなる前進への万全の土台を築いてまいりたい(大拍手)。

 一、「今こそ勇気が、今こそ確固たる心が必要だ」(大芝芳弘訳『セネカ哲学全集6』岩波書店)
 古代ローマの詩人ウェルギリウスの言葉である。
 人生には、さまざまな試練の時がある。
 広布の途上には、いくつもの困難な山がある。
 そこを勝ち越えれば、新しい世界が、大きく広がっていく。未来が、晴れ晴れと開けていく。
 そのために、最も大切なものは何か。
 それは「勇気」である。
 逆境に揺るがぬ「確固たる心」である。

 一、アメリカの人権闘争の指導者、マーチン・ルーサー・キング博士は、公民権運動の歴史を大きく開いたモンゴメリーのバス・ボイコット運動で、ともに戦ってくれた同志を見て、こう語った。
 「断乎とした勇気よりもすばらしいものは世に何もない」(雪山慶正訳『自由への大いなる歩み』岩波書店)
 いわんや私どもには、究極の信仰がある。宇宙大の仏法を持(たも)っている。何も恐れる必要はない。
 強く、強く、生き抜いていくのだ。攻撃精神を忘れてはならない。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「闘争を開始するからには、それだけの準備と決意と闘魂をもって、断じて勝つのだ!」
 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは叫んだ。
 「未来は、私たちの今の行動にかかっている」
 「未来」のために「今」を勝とう! ともに、心新たに出発しよう!(大拍手)

 一、私は現在、アルゼンチンの人権の闘士で、ノーベル平和賞を受賞したエスキベル博士と対談を続けている。〈題名「人権の世紀へのメッセージ――“第三の千年”に何が必要か」。『東洋学術研究』で連載中〉
 博士は、女性の役割を重視し、SGI(創価学会インタナショナル)の女性の活動にも、平和建設への大いなる希望を見いだしてくださっている。
 対談で、博士は述べておられた。
 「不正義に対する女性の怒りほど強いものはありません」
 「女性が沈黙を破り、良心によって立ち上がれば、世界がよりよい方向へ変わっていくことは間違いありません」
 学会はさらに、婦人部、女子部が、大いに力を発揮できる環境をつくっていかねばならない。
 女性が伸びれば、学会は、もっと発展する。広布は拡大する。
 皆が同志として互いに尊敬し合い、楽しく前進していくのだ。
 一方、偉ぶる人間に対しては、厳しく戒めていかなければならない。
 大聖人は、池上兄弟に仰せである。
 「二人が一体で進む姿には車の両輪のようなものである。鳥の二つの翼のようなものである」(御書1108ページ、通解)
 異体同心の団結で進もう! 頑張ろう!(大拍手)

 一、先日、フィリピンの国立南東フィリピン大学から、「名誉教育学博士号」授与の決定通知をいただいた。心から感謝申し上げたい(大拍手)。
 〈同大学のオルティス学長は語っている。
 「池田博士への名誉学位記の授与は、世界に向けての博士の有益なご貢献に対する賞讃にほかなりません。博士の国籍は『世界』であり、博士を顕彰させていただくことは、わが大学の最高の栄誉です」
 名誉会長が受けた世界の大学・学術機関からの名誉学術称号は、現在、218にのぼっている〉
 知性の世界からの顕彰は、最高の誉れである。
 私は、各国からの栄誉を、その国からの信頼の証しとして謹んで拝受している。
 また、それぞれの国で、懸命に社会貢献に尽くしておられるSGIの同志の励みとなれば、本当にうれしい。

 一、青春時代、私は学校での勉学を断念せざるを得なかった。師匠・戸田先生をお守りするために、すべてを捧げて尽くしたのである。
 戦後の最大の苦境の中で、戸田先生は、「私のそばにいてくれ」と言われた。そして、「そのかわりに、俺が全部、教えてやろう」と言ってくださった。
 そのお言葉通り、毎週、日曜日になると、先生のご自宅に呼ばれ、一対一の講義を受けた。勉強の合間には、先生自ら食事を用意され、ふるまってくださることもあった。
 私は、この「戸田大学」で、あらゆる学問を教わった。
 やがて日曜日だけでは時間が足りなくなり、戸田先生の会社で、毎朝の講義が行われるようになった。それは、先生のご逝去の直前まで続けられた。
 戸田先生は、ご自身の命を削られるように、自分の持てるすべてを、弟子である私に授けてくださったのである。
 師匠とは、なんと、ありがたいものか。師弟とは、どれほど麗しいものか。
 世界から贈られる知性の栄冠は、「戸田大学」で受けた訓練の結晶である。そう私は確信している。
 これが創価学会の師弟である。
 私は、戸田先生を仏のごとく敬い、先生に仕え抜いた。
 だれが大聖人の御遺命のままに、広宣流布を推進しているのか。だれが三類の強敵と戦っているのか。それは戸田先生だ! この偉大な師匠を命にかえてもお護りするのだ!
 それが私の固い決意であった。
 「先生!」「先生!」と叫んで最後の最後まで生き抜く。これが真の弟子の姿である。
 「私の人生は、良き弟子を持って、本当に幸せだった」
 戸田先生は、そう言ってくださった。

 一、戸田先生は、広宣流布の未来のために、一人一人の幸福のために、青年を徹底して訓練してくださった。
 「人材は訓練しなければ人材とはならない」
 これは、恩師・戸田先生の、絶対の確信であられた。
 こうも言われていた。
 「訓練なくして、偉大な人生を歩んだ人は一人もいない」
 「訓練を受けた人間、苦労した人間しか、信用できない」
 「苦労したほうがいい。苦労したほうが幸せである。全部、自分のためになる。苦労しない人は、鍛えられず、必ず最後は弱き人間になり、不孝に堕ちる」
 まったく、その通りである。
 人よりも苦労した人、求めて訓練を受けた人、その人が最後に光る。幸福をつかんでいける。
 訓練である。訓練を受けていない人は、いざという時に、力を発揮することができない。
 では、真の訓練とは何か。それは、信心を磨くことである。
 折伏の力、対話の力を鍛え抜くことが、最高の訓練である。
 戸田先生は言われていた。
 「信心、折伏、人材としての訓練や指導を、きちんと受けた者は、皆、立派に伸びている」
 「金剛石(ダイヤモンド)は、磨かなければ、それが金剛石であることすら、分からない。真剣勝負で、信心を磨くことだ。そうすれば、無量の福運を積むことは間違いない」
 信心を貫いた人は、まさに、ダイヤモンドのごとき不滅の大福運をつかんでおられる。
 反対に、責任ある立場にいながら、地道な信心の訓練を避け、戦いから逃げて、ずるがしこく振る舞う。そうした輩は、必ず、惨めな転落の人生となっている。
 もしも、そのようなリーダーが増えてしまえば、学会は衰退してしまう。断じて、そうさせてはならない。
 戸田先生は叫ばれた。
 「大聖人の弟子は師子王の子の如し」
 「師子の子は、鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」
 学会は、師子の集いである。
 困難があるほど強くなる。圧迫されるほど勢いを増す。それが、師子の生き方である。
 断固として一人立て!
 「師子奮迅の力」を出せ!
 強き心を奮い起こし、わが「勝利劇」の火ぶたを切ってまいりたい(大拍手)。

(2007・8・6)



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2007年08月14日(火) 15:14:32 Modified by hakata_dan




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