07/08/09 全国最高協議会

全国最高協議会でのスピーチ


 一、こまやかな気配り、温かな心遣いで、人々を包容していくのがリーダーの務めである。
 「ここまでしてくれるのか!」と思われるほど、会員のことを考え、会員に尽くしてあげられる指導者になっていただきたい。
 とくに婦人部、女子部に対しては、本人には当然のこととして、ご家族に対しても、丁寧にお礼を申し上げていくのだ。
 皆、さまざまな家庭状況の中で、一生懸命、広布のために戦ってくださっている。そのことを絶対に忘れてはいけない。
 一人一人の苦労を、深く深く、わかってあげてほしい。冷酷な、無慈悲な幹部になってはいけない。
 うわべだけの言葉や、お世辞などではなく、まじめに、心を込めて、感謝を伝えていくのだ。

 一、仏法も、人間の生き方も、誠実が根本である。
 学歴や地位が何だというのか。そうしたものは、人間の偉さには、まったく関係ない。ましてや、仏法の世界は、平等な同志の世界である。
 広宣流布のために、どう働いたか。広布の団体である創価学会のために、どう尽くしたか。同志のため、民衆のために、どれだけ汗を流したか。
 それこそ、生命の学位であり、仏法の学位である。人生の最高学位である。
 「私は最高の人間学を修めている」との誇りを持って、勇んで広布に進んでいただきたい(大拍手)。

 一、ここで、「研修」の意義について少々、触れておきたい。
 「研修」には、元来、「学問や技や芸などを、みがき、おさめる」との意味がある。
 「研」の字には、「みがく」「とぐ」「きわめる」、さらに「すべて精密にものを仕上げる」「研ぎ澄まして見る。汚れを磨きとって、本質を見きわめる」といった意味がある。
 「修」には「おさめる」「「なおす」「ならう」「きよめる」、さらに「でこぼこを取り去り、整える」「欠けている点を補う」等の意味が含まれる。
 学会の研修会は、牧口先生、戸田先生以来の伝統である。
 正しき師匠に薫陶を受けてこそ、自分自身の心をまっすぐに正していける。
 師のもとで、わが生命を磨き、清め、深め、広げ、強めていくことは、最極(さいごく)の研修である。
 戸田先生は、あるとき幹部にこう言われた。
 「君が同志だから、私は厳しく言うのだ。人間は、厳しく言われなくなったら、おしまいではないか!」

 一、きょうは責任ある最高幹部の集いである。28年前、私が第3代会長を辞任した当時の話をしたい。
 昭和54年(1979年)の4月24日、火曜日。私は、第3代会長の辞任を新宿文化会館で発表した。
 全国から集った代表幹部からは、「どうして先生が辞めなければいけないんですか!」「先生が辞められることは、納得できません!」との声があがった。
 その後、私は聖教新聞社のロビーで記者会見を行った。
 歩いて自宅へ戻ると、妻が、いつもと変わらず、微笑みながら、「ご苦労さまでした」と迎えてくれた。
 5月3日、創価大学で、会長辞任の本部総会を終えた後、私は、そのまま神奈川文化会館へ向かった。
 学会本部には、私の指揮を執るべき席はなかったからである。
 時として、小さな管理室で執務することもあった。それほど冷たい執行部だった。
 この5月3日付の「読売新聞」の朝刊に、日米の国民の意識調査の結果が掲載された。
 そこには、日本人が「過去、現在を問わず最も尊敬する」日本人の名前が、上位20人まで挙げられており、第6位として私の名前が出ていると、ある幹部が教えてくれた。
 吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして昭和天皇と続き、その次が私であった。
 会長を辞任して迎えた5月3日の記事に、私は不思議な感慨(かんがい)を覚えた。
 無名の庶民の代表として、私の名前が出たことを、同志がどれほど喜んでくれたか。
 一方、その意義をかんじられず、嫉妬の眼(まなこ)で見つめる愚劣な連中の心は、本当に浅ましかった。

 一、5月3日から6日までの4日間、私は、神奈川文化会館で指揮を執った。
 この折、神奈川文化会館の前の山下公園通りでは、横浜港の開港120周年を祝う「みなと祭(まつり)」のパレードが盛大に繰り広げられていた。
 妻は「素晴らしい行事です。まるで、あなたを歓迎してくれたようですね」と言った。
 この間(かん)、幾千、幾万の学会員が、私を求めて、連日、神奈川文化会館へ来られた。
 私のいる窓に向かって、山下公園から手を振る同志に、私も、妻と共に手を振って応えた。
 広々と海が見える神奈川文化会館で、私は全世界の広宣流布の構想を練り、人知れず、手を打っていった。
 この時の戦いが因となって、当時、90カ国ほどであったSGI(創価学会インタナショナル)は今日、190カ国・地域への拡大という大発展を遂げたのである。
 5月五日、快晴。この日、私は「正義」の揮毫をしたためた。脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。

 一、当時、神奈川文化会館で、陰で戦ってくれた方々のことは、絶対に忘れない。
 代表の方々の名を挙げれば、婦人部では、大曽根洋江さん、岡本雅子さん、大場由美子さん、川井三枝子さん、さらに平塚貞子さんをはじめとする皆さんである。
 運転手の小早川欣也君も、変わらず、そしてひたむきに、奮闘してくれた。彼は平凡な人間だが、根性は立派だった。
 私の運転をしている間、ただの一度も、病気をしなかった。
 役員も、大石秀司君を中心に、本当に真剣に護ってくれた。

 一、初代・牧口常三郎先生は、一生涯、会長であられた。
 第2代・戸田城聖先生も、一生涯、会長であられた。
 戸田先生は、遺言された。
 「第3代は、一生涯、会長として指揮を執れ! 第3代が、一生涯、会長として指揮を執ることこそが、創価学会の常勝の道である」
 第3代会長を、皆で一生涯、護れば、必ず広宣流布できる――これは、執行部が、皆、戸田先生から厳命された遺誡(ゆいかい)である。
 しかし、名聞名利(みょうもんみょうり)に溺れ、嫉妬に狂い、権力の魔性に屈した人間たちが、第3代の私を追い落とし、迫害し、学会を乗っ取ろうとした。
 その陰には、提婆達多のように卑劣な謀略の輩(やから)に誑(たぶら)かされた最高首脳がいたことは、よくご存じの通りだ。

 一、昭和54年の5月6日、私はいったん信濃町へ戻った。
 そして5月11日からは、大東京の開拓の新天地・第2総東京の立川文化会館へ向かった。
 この日、私は一詩を詠んだ。

西に 満々たる夕日
東に 満月 煌々(こうこう)たり
天空は 薄暮 爽やか
この一瞬の静寂
元初の生命の一幅の絵画
我が境涯も又
自在無礙(むげ)に相似たり

 私は、いかなる嵐の中にあっても、御聖訓を拝し、日天・月天と対話するような心で、悠然と未来の勝ち戦の種を蒔いていった。

 一、昭和54年の当時、私が受けていた名誉博士号は、「モスクワ大学名誉博士」の一つであった。
 以来、28年の歳月を経て、私は、皆様の代表として、世界の大学から多くの名誉博士号をお受けした。〈世界の大学・学術機関から名誉会長に贈られた名誉学術称号は、「218」を数える〉
 現在、我らの平和・文化・教育の運動と、人間革命の希望の哲学に、世界中から賞讃が寄せられている。
 透徹した仏法の眼(まなこ)から見れば、三類の強敵、三障四魔と戦い抜いた、創価の三代の正義を讃嘆する、厳然たる「普賢菩薩」の守護の象徴であり、「多宝如来」の赫々(かっかく)たる証明である(大拍手)。

 一、昭和30年(1955年)3月、身延派との「小樽問答」で私は司会を務めた。
 私は第一声から、身延派の信者が続々と学会に入会している事実を挙げ、身延派の誤りを鋭く指摘し、突破口を開いた。学会側の圧倒的大勝利は、この第一声で決した。
 昭和32年(1957年)の6月、北海道・夕張の炭鉱労働組合が学会員を弾圧した「炭労事件」では、戸田先生が、「行ってこい」と私を派遣された。
 そして、私が指揮を執り、完全に勝った。
 炭労事件を解決すると同時に、私は、大阪へ飛び、まったく無実の罪で逮捕された。露骨な宗教弾圧の陰謀であった。
 体の衰弱されていた戸田先生を、断じてお護りし抜くために、私は一身に難を受けきった。
 関西の同志は、私とともに、本当によく戦ってくれた。
 関西は、常に勝っている。師弟の精神で、真剣に尽くしている。
 西口総関西長、藤原関西長、中尾関西婦人部長はじめ、関西のリーダーは、私が先の先を見すえながら、手づくりで、全魂を注いで育て上げた一人一人である。
 今も、その活躍と成長と、人生の勝利を真剣に祈り、じっと見守り続けている。
 守ってあげよう。偉くしてあげよう。これが本当の指導者の心だ。
 私は戸田先生から師弟の血脈を受けた、真の弟子である。広布の指導者の魂を厳然と受け継いでいる。

 一、ともあれ政治権力は、つねに宗教を弾圧しようと狙っている。とくに、日本の風土においては、そうである。
 宗教の弾圧は、人権の弾圧であり、民衆の弾圧である。
 宗教を蹂躙(じゅうりん)する人権破壊の勢力とは、断じて戦わなければならないし、戦わざるを得ない。
 とともに、宗教を理解し、その宗教の価値観を大事にする人々とは協力し、日本のため、世界のために、行動していくべきである。
 ともあれ、「信教の自由」は基本的人権の根本であり、それを死守することは、民主主義の根幹である。
 この基本に立ち、それに反する勢力とは、殉難の決心で、勇ましく、楽しく、戦い抜くことだ。
 事実、私は、そうして戦ってきた。後を継ぐのは、青年部である。

 一、これからを生きる人々に、イギリスの大歴史学者トインビー博士が与えた“第一の助言”は何であったか?
 それは、「死ぬまで青年の精神を保て」であった(毎日新聞社外信部訳『未来を生きる トインビーとの対話』毎日新聞社)。
 ひとたび決めたら、まっしぐらに突き進む! 燃え立つ心で、新天地へ飛び込む!
 わが身をなげうって、希望の道を開く!
 これが青年だ。
 事業の最大の苦境の時、戸田先生は、私に言われた。
 「広宣流布のために、大作、“男のいきざまとはこうだ”というものを、二人でこの世に残そうじゃないか」
 思えば、朝から晩まで戸田先生に仕えきる毎日であった。

 一、また、先生はおっしゃった。
 「大作、広宣流布のために、君は男として、阿修羅のごとく戦ってくれ。
 たとえどのような結果になっても、すべて御本尊におまかせしよう」
 私は戸田先生が逝去された年(昭和33年)の12月、男子部総会で、「天魔の働きや、三類の強敵がおそいかかってきたときには、阿修羅のごとく力を出し切って戦っていきたい」と叫んだ。
 私は、恩師の言葉のままに戦った。これが報恩の道であると信じて、戦い続けてきた。

 一、戸田先生が愛した小説に、「巌窟王」がある。
 19世紀フランスの文豪、大デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』を日本語に翻訳した際、名訳者の黒岩涙香が、「巌窟王」と訳した。
 主人公は、若き船乗りダンテスである。
 ダンテスは、周囲の悪党に陥れられ、冤罪(えんざい)で捕えられる。そして、地中海に浮かぶイフ島の監獄、シャトー・ディフに幽閉されてしまう。
 かつて、このイフ島を、フランスの青年たちとともに、マルセイユの港から眺めたことは、懐かしい思い出である。
 監獄でダンテス青年は、師と仰ぐことになるファリア神父に出会い、万般の学問を授かった。とともに、モンテ・クリスト島に埋蔵された、膨大な宝の秘密を教わる。
 投獄から14年後、ダンテスは脱獄に成功し、「モンテ・クリスト伯」と名乗り、社交界に現れた。
 そして、知恵と巨万の富を自在に駆使して、かつての恩人に恩返しをしていく。
 さらに、自分を陥れた怨敵たちに次々と報いを与え、仇(あだ)討ちを果たしていくのである。
 戸田先生は叫ばれた。
 「私は、宗教界、思想界の巌窟王である。広宣流布の巌窟王である。必ず必ず、獄死させられた牧口先生の仇(あだ)を討ってみせる!」
 戸田先生が妙悟空のペンネームで書かれた小説『人間革命』の主人公は巌九十翁(がんくつお)という名前だ。言うまでもなく、戸田先生ご自身のことである。
 先生は、あるとき「大作、いよいよ、今度はデュマの『巌窟王』をやろうじゃないか!」と言われた。そして、私をはじめ青年部の精鋭が集う「水滸会」で、教材とされたのである。

 一、今も世界中で愛読されている『モンテ・クリスト伯』。
 ダンテス青年は、師に対する感謝を述べている。
 「宝とは、あなたがわたしの頭にそそぎ入れてくだすった知識の光のことなのです」
 「これによって、あなたはわたしを富めるもの、幸福なものにしてくださいました」
 「私の得られる真の幸福、それはあなたのおかげなのです」(山内義雄訳、岩波文庫)
 師のいる人生は強い。師と弟子の交流こそ、幸福と勝利の源泉である。
 恩人の息子に、モンテ・クリスト伯は語りかける。
 「お嘆きになるのはたくさんです。男らしくおなりなさい。強くおなりなさい。希望をおもちなさい。わたしがついていますから」(同)
 また、小説の末尾の一節「待て、しかして希望せよ!」は、あまりにも有名だ。この一言に励まされた人は多い。
 戸田先生は、牧口先生の獄死を知った時の心情を語られた。
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
 この戸田先生の“巌窟王の執念”も、根底には「広宣流布」という、燃えさかる「希望」があった。
 戸田先生が、どれほど牧口先生を慕(した)っておられたか。牧口先生の三回忌法要で、戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」とおっしゃった。
 生命の奥底から発せられた、この一言こそ、創価学会の実相である。また、学会の師弟論の真髄である。
 殉教の牧口先生にお仕え申し上げた戸田先生。その戸田先生が復興した学会の勢力を、私は、何倍にも発展させた。師の正義を世界に宣揚した。

 一、平和と文化の言論紙・聖教新聞が創刊されたのは、昭和26年(1951年)4月20日。当初、月3回の発行で、部数は5000部だった。
 記者も少なく、皆、素人だった。
 私は、戸田先生の事業を支える激務のなか、記事を書きまくり、創刊号から、聖教新聞を護っていった。
 学会本部は当時、西神田にあった。
 私は、神田中をまわって、聖教新聞を自ら拡大していった。
 「聖教新聞を、日本中の人に読ませたい」――師の夢の実現のため、足元から行動していったのである。
 昭和30年の1月。私は、「若き日の日記」に記している。
 「素人一名乃至二名で始まったこの紙弾(=聖教新聞)。今、数十万部に近い勢力となる。人々は笑った。素人になにが出来るか、と。(戸田)先生のいわく“素人も、5年たてば玄人になってしまう”と」
 私と妻は、常に率先して、聖教新聞の拡大を行ってきた。
 御聖訓には、「仏は文字によって人々を救うのである」(御書153ページ、通解)、「(法華経の)文字変じて又仏の御意(みこころ)となる」(同469ページ)などと説かれている。
 聖教新聞の拡大は、即、仏縁の拡大であり、広宣流布への大折伏の意義があることを、知っていただきたい。
 思えば戸田先生当時、学会の会館は五つであった。現在は1200会館に発展した。SGI(創価学会インタナショナル)は、190カ国・地域に広がった。
 だれもできなかった広宣流布の実証を残してきた。
 勝負はこれからである。皆さんとともに、さらに盤石な、師弟勝利の歴史を築いていきたい(大拍手)。

 一、イタリア・ルネサンスの大芸術家ミケランジェロは、味わい深い手紙を多く書き残している。
 ある時、ミケランジェロの甥(おい)から手紙が届いた。
 それは、甥の父親――すなわち、ミケランジェロの弟が亡くなったことを知らせる便りだった。
 しかし、便りの中身は粗雑で、肝心の、弟の臨終の様子などが、よくわからなかったようだ。
 ミケランジェロは返事のなかで、甥の杜撰な書きぶりをたしなめた後、「おまえのために働いてくれた人(=甥の父親)の恩を忘れぬように気をつけるがいい」と綴っている(杉浦明平訳『ミケランジェロの手紙』岩波書店)。
 人の心というものは、細かいところ、思わぬところに、にじみ出るものだ。
 これまでの学会の歴史において、大恩ある師匠が迫害の集中砲火を浴びせられている時に、それをせせら笑っている人間がいた。後に退転した者もいた。
 そういう者たちは、最高幹部でありながら、だれ一人として「信心で立つ」「信心で戦う」という根本の姿勢がなかった。悪縁に紛動されたその姿には、信心のかけらもなかった。

 一、「師匠を護る」とは、どういうことか。それは大難の時にわかる。
 私と妻は、戸田先生ご一家を、現実の上で、徹してお護りした。口先だけの人間とは、天地雲泥であった。
 先生は、何かあるたびに、「大作!」と私を呼ばれた。その信頼にお応えし、活路を開いた。
 学会全体の弘教が、戸田先生の思うように進まない時があった。
 「このままでは、広宣流布は何千年もかかってしまう」。先生は深く嘆かれた。
 私は戸田先生からの命を受け、低迷している各地の組織に勇んで入っていった。
 そのなかに、東京の文京支部もあった。文京の折伏成果は、当時、最下位クラスだったが、私が支部長代理として戦い、一気に大躍進を遂げたのである。
 かけがえのない、青春の鍛えの日々であった。
 ともあれ、学会の幹部は、断じて偉ぶってはいけない。だれであっても、蔑んではならない。皆、同じ人間である。
 偉ぶるのは増上慢であり、増上慢は人を不孝にする。どんな人も、尊い仏の生命が具わっているととらえるのが、仏法である。
 皆さんは、どこまでも信心根本で、人の心のわかるリーダーになっていただきたい。そのために、どこまでも自分自身を鍛えていただきたい。
 常勝の伝統を築くには、核となる人間が「一緒に」進むことだ。
 「師匠と一緒に」「同志と一緒に」――その心があれば、強い。魔に、付け入るスキを与えない。
 離れ離れでは力が出ない。心と心を結ぶのがリーダーの智慧である。
 新しき常勝の歴史を、ともどもに築こうではないか!(大拍手)

(2007・8・9)



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2007年08月15日(水) 11:08:17 Modified by hakata_dan




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