アザー サイド オブ ミラー その三 作者:森羅
俺は半ば蹴破るようにして部室の扉をブッ飛ばした。
「鏡、あるかっ!?」
息を切らせながら俺は訊く。確か部室に鏡はあったはずだ。
しかし俺の質問に答えてくれたのは、朝比奈さんの「あ、ありますー」という可愛らしい声でもなく、長門の「・・・ある」という無感情な声でもなく、ましてや古泉の「ええ、ありますよ」という腹立つイケメンボイスでもない、三人揃っての無言だった。そりゃそうだろう。仲間の一人が気が狂っちまったように部室のドアをぶち破って来て、その上、命を狙われている某国の大統領のような顔をして「鏡、あるかっ!?」なんて訊かれたら、こいつは相当ヤバいとか思うに違いない。
何十秒か過ぎたところで、ようやく朝比奈さんが我に返ったように言った。
「あ、あのぉ、ど、どうしたんですかぁ?ま、まず何をするか教えてくれないと・・・」
「事情は後で説明します。それで鏡はどこです?」
俺は部室に入って辺りを見回した。冷蔵庫、カセットコンロに薬缶、本棚、コスプレ衣装が並ぶハンガーラック、本棚、その他諸々・・・。やたらと余計な物があったが、なぜか鏡だけはなかった。この肝心な時に限ってどこに行っちまったんだ。
「そこにあった鏡なら、今さっき涼宮さんが撤去しましたよ」
古泉が微苦笑しながら俺に言った。何だと?それじゃあ、ここに鏡はないのか?
「そういうことです。あなたが何をするつもりなのか知りませんが、それが鏡がなければできないことなら、ここに鏡はないので実行することは不可能という訳です」
いちいちご丁寧に説明してくれなくても解る。
「そうですか。それではあなたの頭が本格的にどうにかなってしまったようではないようですね」
それはどういう意味だ。
「先ほど涼宮さんが鏡を撤去しに来た時に言ったんですよ。今日のあなたの頭はどうかしてしまっている、鏡を見て、自分ではない誰かがいると言っているので鏡は見せてはいけない、とね」
あの女、なんつーこと吹き込んでるんだ。俺の頭がイカレてるって朝比奈さんが信じたらどうする。いや、朝比奈さんだけじゃない、長門や古泉まで信じちまったら、俺はかなり可哀想な奴になっちまうじゃねえか。
「俺の頭はどうにもなってない。どうにかなってるのはアイツの方だ。またあの力で変なことを起こしやがった」
「どんなことです?」
「ハルヒが言った通りだ。鏡の『向こう』に人が見える」
俺が言うと、古泉は微苦笑したまま肩をすくめた。
「『鏡に映った』自分、ではないのですか?」
「少なくとも、『鏡に映った』自分じゃないな。いやまあ、自分は自分なんだが・・・性転換してるんだ」
古泉の表情が凍りついた。そりゃそうだ。俺が性転換してるってことは当然、こいつも性転換してるってことになるんだからな。
「・・・なるほど。さすが涼宮さんです」
古泉がもう一度肩をすくめる。一体何に納得したのかは知らんが、とにかく俺は鏡が必要なんだ。
「そう言われましても、鏡は涼宮さんが撤去してしまったものしかありませんので、僕はどうにもできない状態なんですよ。手鏡も持っていませんしね」
「誰もお前に要求してねえよ。長門はどうだ?手鏡とか持ってないのか」
長門は読んでいた分厚い洋書から目を離し俺の方をゆっくりと向いて、
「持っていない」
と、一言。持ってないのは解ったが、何でこいつはわざわざ俺を見ながら言うんだろうね。別に本から目を離さなくてもいいと思うんだが。
「そ、そうか、もういいぞ」
「そう」
長門は三ミリほど頷いて再び黙々と本を読み始めた。
「さて・・・」
俺は小声で呟いた。状況を整理するとこうだ。
俺は『向こう』の『俺』―――つまりキョン子と部室の鏡を使ってもう一度会うことにしている、はずだ。だが、部室にあったはずの鏡は俺の頭が狂っていると勘違いしたハルヒによって撤去されてしまった(迷惑なこった)。手鏡という手は、俺はもちろん、長門も古泉も手鏡を持っていない。
キョン子に、会えない。いや、俺が会いたいのは『向こう』のSOS団員だ。
どうしたものか。
ん?そう言えば誰か忘れている気が・・・。
「あのー・・・」
突然、朝比奈さんがおそるおそる手を挙げながら声を発した。
「えっと、その・・・、あの・・」
朝比奈さんは客に頼んだ料理とは違うものを出してしまったウエイトレスのような顔をして、俺をちらちら見ている。
何か俺、マズイこと言いましたか・・?
「いえ、そうじゃないんです・・・」
朝比奈さんはそう言って俯いてしまった。
俺はいよいよ心配になってくる。本当にマズイことは言っていないのだろうか。もし、朝比奈さんを泣かせたら、俺はナイアガラの滝から飛び降りることにしよう。その前に北高の男子全員の手によって殺されるだろうけどな。
「きょ、キョンくんっ」
「はい?」
「じ、実は私、手鏡持ってるの!」
「・・・・・はあ・・・。ありがとうございます・・・」
何かと思えばそんなことですか、朝比奈さん。
俺がどういう顔をしていたのかは解らないが、少なくともいつもの顔ではなかったらしく、朝比奈さんはおどおどしながら俺に訊いた。
「お、怒った・・・・?」
「いえ、全然。そんなことで怒ったりしませんよ」
俺は苦笑する。それを見て、朝比奈さんは「よかったぁ・・」と言って、何やら自分の鞄の中を探り出した。おそらく手鏡を探してくれてるんだろう。朝比奈さんが優しい上級生でよかったとつくづく思うね。ハルヒみたいな横暴な奴だったら、「そんな下らないことであたしの手鏡を使うなんてアンタ何様よ?」とか何とか言って貸してくれそうにないからな。
やがて朝比奈さんは鞄からピンク色の花柄の手鏡を取り出して、極上スマイルを浮かべながら渡してくれた。
「どうぞ。大事に使ってね」
いや、別に壊すようなことにはならないと思いますが・・・という言葉は口には出さない。
「ありがとうございます」
俺はお礼を言って、手鏡の薄い蓋を開けた。
その瞬間、
『ん?繋がった・・・のか?』
鏡の『向こう』から女の声がした。続いて髪をポニーテールに結び、北高の制服の上から黒いカーディガンを着た人物が現れる。キョン子だ。
「そのよう・・だな。大丈夫か、キョン子」
俺が訊くと、キョン子は夏休み最終日に宿題の存在を指摘された中学生のような顔をした。
『大丈夫だけどさ、あんたまでそのあだ名で呼ぶのか』
「ハルヒコとやらがお前のことを『キョン子』呼んでいたから、俺もそう呼ばせてもらうことにした。俺はお前の本名を知らないからな」
俺の本名から考えれば大体の見当はつくがそこは黙っておこう。
『それにしても遅かったな。いや、まあ、あたしがもう一回部室で会おうなんて言ってないから仕方ないのかもしれないけどよ』
キョン子が俺から目を逸らしながら言う。
心配しなくとも、俺がお前に会うのが遅くなったのは、お前の所為じゃないぞ。悪いのは部室にあった鏡を撤去しちまったハルヒだ。
『鏡を撤去?何でだよ?』
キョン子は言葉遣いに合っていない、きょとんとした顔で訊いた。その反応っつーことは『あっち』の部室には鏡がちゃんとあるんだな。
なるほど、『俺サイド』の世界と『キョン子サイド』の世界は完全にシンクロ状態ではないらしい。もし、完全にシンクロしていたらどうなるかって?そんなもん言わんでも解るだろ。大変なことになるんだよ、ほら、イロイロとな。
俺は内心ホッとしながら、呆れた表情を浮かべて説明した。
「えーっとだな、俺がハルヒに頭がイカレてるって言われて帰られたのは話したよな。それはお前も同じだ。だがな、キョン子。『こっち』の団長様は、ただ平団員の俺に呆れて帰った訳じゃなかったんだ。俺の頭がこれ以上イカレさせないためか知らんが、部室から鏡をなくそうとしたらしい」
『ふーん・・・、なるほどね。まあ大体解った』
大体なのか。
『それよりさ・・・』
キョン子は急に話題を変えた。視線はなぜか俺の後ろに行っている。
『その・・あんたの後ろにいる男子は誰だ?』
「なにぃっ!!??」
ギョッとして振り返ると目の前に、ツチノコを見つけた未確認生命体探索隊隊長のような顔をした古泉がいた。顔が近い、寄るな、触るな、息を吹きかけるな。
俺は相当嫌そうな顔をしていたようで、古泉は俺を見て苦笑した。
「お前、いつからそこにいたんだ」
「あなたが鏡に独り言を言い始めた辺りです」
「お前から見たら俺がぶつぶつ独り言を言っているように見えるかも知れんがな、俺は『向こう』の『俺』―――つまりキョン子と会話してるんだ。俺がお前に気づいたのも、こいつが俺の後ろにいる奴は誰だって訊いてきたからだぞ」
俺は右手で古泉の顔を押しのけながら言う。『向こう』が見えない奴らにしてみれば、俺が鏡と会話しているのは相当イタイ奴に見えるんだろうな。ほら、実際に朝比奈さんの顔が引きつっているじゃないか。
「あ、朝比奈さん?違うんです。俺は鏡の『向こう』にいる奴と会話してるんです。決して、独り言をぶつぶつ言うようなイタイ人間じゃないですからね・・?」
「は、はい・・。別にあたしは気にしてませんけど・・」
そう言いながら目を逸らしていくのはなぜですか。
俺が朝比奈さんに弁明の余地を要求しようとしていると、古泉が俺の右手をはがしながら言った。
「冗談ですよ。僕にはその鏡の『向こう』が見えませんが、あなたのことは信じます。しかし・・、一つだけおかしなことがあります。もしこれが涼宮さんの仕業だとして、なぜ、あなたを除いての僕たちSOS団員には見えないのでしょうか?」
そんなもん知るか。知ってたら真っ先に教えてるさ。大体、俺だって今さっきからこうなってんだぞ。だからイマイチ状況が把握できてねえんだ。
「おや、そうなんですか」古泉がわざとらしく意外そうな声を上げる。「僕はてっきり、朝からこの状態であなたが精神的に参ってしまっているのかと思いましたよ」
こいつ、悪気があって言ってるんだよな?
『・・・あのさぁ、あたしのこと絶対忘れてるだろ』
突然キョン子が不機嫌そうな声で言った。実は本気で忘れていたんだが、これを言ってキョン子は許してくれるだろうか。
『それで結局、そいつは一体誰―――』
―――なんだ、とキョン子が言いかけたその時、
「きゃああああっ!」
朝比奈さんの恐怖に満ち溢れた叫び声が、俺の耳にどんな音よりも先に入ってきた。音速で振り向いた俺の目に映ったものは、一点を凝視している朝比奈さんと、黒光りしている害虫だった。
「ごっ、ゴキブリですぅっ!」
そう叫んだ朝比奈さんは、そのまま床に座り込んでしまった。その朝比奈さんに黒い悪魔が忍び寄る!
大袈裟すぎるって?そんなことないね。俺の朝比奈さんにあの害虫が一ミリでも触れたら、俺は核兵器を使って、こいつを駆除するだろうからな。
「大丈夫ですか、朝比奈さん!おい、古泉!何か叩くもん持ってこい!」
「了解しました」
俺の命令に古泉は素直に従い、すぐさま新聞紙か何かを探し始める。だが、その間にも事態は進行していく。
「ななな何かこっちに来てますよぉ!」
「くそっ、間に合わねえ!こうなっちまった以上、上履きで・・」
「上履きでその生命体を抹殺した場合、あなたの上履きには生命体の卵や内臓が付着する恐れがある。推奨はしない」
長門が誰に対して言っているのか解らないような口調で言った。そんなところで本読んでないで、こいつも少しは手伝って欲しいぜ。
「それは地味に嫌だが、今はそんなこと言ってる場合じゃねえ!」
『ちょ、ちょっと、おい!何やってんだよ!』
キョン子の慌てたような怒っているようなよく解らない声が聞こえたが、あいつにはもう少し待っていてもらおう。すまん、もう一人の『俺』。
「キョンくぅーん!」
「喰らえこの野郎!」
『・・・・・おっ、お前らなぁ!人の話を聞けえーーーーっ!!』
まったく、この会話は緊張感があるのかないのかはっきりして欲しいな。
2009年11月14日(土) 16:19:11 Modified by ID:kUasrCBzAw