橋本多佳子様 / 海燕 - 硬き角あはせて男鹿たたかへる
4.)

男鹿はどちらかが引くまで、硬い角を互いにつき合せて力比べをします。

ただし、角突き合いは力比べであって相手を傷つける事を目的としない。

お互いに相手十分の体制を許して競う、それでこそ力比べは成立します。

人間は相手の隙を窺い、破壊力の強い武器で相手の止めを刺そうとする。

不意打ちする気なら、細く鋭利な角を持ったほうが有利に働くでしょう。

だけど、真正面から全力で堂々と押し合う鹿には硬い角が必要なのです。

つまり、硬い角をつき合わせて押し比べする男鹿の力比べなのでしょう。

そんな正々堂々とした男鹿流儀なら、男は妻や家族に暴力を振るわない。

多佳子様が夫に従順だったとしたら、それは安心して過せた事の証です。


多佳子様は夫・豊次郎氏をどのように思ってらっしゃったのでしょうか?}

この句を読んだ瞬間、私は多佳子様の想う男性観に触れた気がしました。

文化に理解ある紳士、世間に顔の利く有能な実業家、多佳子様の庇護者。

もちろん、多佳子様に理解ある夫であり、子に優しい父だったでしょう。

そして信頼する多佳子様に己の弱さを見せる事を少しも恐れなかった夫。

それだけでもう理想の愛妻家として世間的には十分通用するに違いない。

しかもこれは封建的な感覚がまかり通っていた時代の日本の家庭でした。

外で卑屈な手段を使わない人は家庭においては謹厳実直かもしれません。

少し窮屈な豊次郎氏だったとしても、多佳子様は十分に自由を得て幸せ。

いえ、夫のために多佳子様の自由を使えるなら、それは実に幸せでした。

(海燕・昭和十年以前の句)