黄金溶液〈下〉03

 女王は近衛兵のほとんどを遠巻きに控えさせているとはいえ、マザリーニやアニエス、ルイズや才人を周囲に置いている。
 それに対しトライェクトゥムの領主は一人きりである。その伴った兵たちがフネに乗りこんだところで、アンリエッタが彼を呼びおろしたのだった。
 彼の一見して落ち着きはらっているが裏側に緊張の透けてみえる表情を、アンリエッタはよくよく見つめる。

(わたくしに薬を盛ったのは、ほんとうにクリザリング卿だったのかしら?)

 今回の事件にはさまざまに不可解な部分が残っている。
 あの森林管理官が、少なくともかつてアンリエッタに懸想していたことは間違いないようであり、それを考えれば彼が薬を盛ったとしてもおかしくないのかもしれないが。
 だが心のどこかが納得していなかった。

 結果としてクリザリング卿には何も残らなかった。
 一方のラ・トゥール伯爵は、アンリエッタが何も言わなければ、このまま当初の予定通りの全てを得るはずである。
 この港や、〈永久薬〉を使った風石はもうないがそれ自体でもかなりの資産である船団は代王政府に接収され、トリステイン王政府の口利きをえてラ・トゥール伯爵の事業に融資されるだろう。

 看過するには、彼一人が得をしすぎている。
 だから、彼女はラ・トゥールを呼んで、その反応を見ているのだった。
 彼女はまがりなりにもこの男の主君であり、反逆行為の存在は原則として許すわけにはいかないのである。

(でも……印象だけで言えば、彼が犯人であるとも思えないわ)

 今、泰然をよそおいながらこちらの様子をうかがうラ・トゥールの表情には、アンリエッタに対するわずかな警戒はある。不安もある。
 だが、自分自身にいだくやましさの色は見当たらないのだ。
 むろん直感で決めるのは間違っているにしても……そもそも事件にいだく釈然としない思い自体が、現時点で根拠のないものである。

 アンリエッタは判断に困り、横のマザリーニを助けを求めるように見た。
 ほれ薬の一件を聞いた宰相もまた、考えこむそぶりを見せていたが、年若い弟子が視線をむけてきたとき、ふいに強い眼光をもって見返した。
 マザリーニがそっと、アンリエッタの手に紙片をすべりこませてきた。女王はそれを一瞥する。

“商談を受けたとだけいいなさい”

「陛下……?」

 ややためらいがちにラ・トゥールが声をかけてきた。
 すこし考えたあと、アンリエッタはごまかすように笑みをつくった。

「いえ、このたびはご苦労さまでした。事業についての提携は予定通りお受けします」

 ラ・トゥール伯爵がぱっと喜色満面になる。

「陛下! それでは昨夜の晩餐の席で語ったことをも、お聞きいれくださるのですな」



(ええと、なにを要求されていたかしら?)

 晩餐のときはぼんやりしていた女王はやや慌てたが、心得たものでマザリーニがすぐ口をだした。

「ああ、事業を潤滑にすすめていただくため、貴君にトライェクトゥムの大権をゆだねよう。
 武装権、市場の開催権、下級裁判権などの権利の多くを、王政府の保証書により市参事会から正式にラ・トゥール家に戻そう。
 ただし、市政の決定のすべてには市参事会の同意が必要であることは言っておきますぞ」

 恐縮しながらも、隠しきれない喜びをたたえてラ・トゥール伯爵がタラップを上がった後、アンリエッタはマザリーニに向き直った。

「……枢機卿、説明していただいてもよろしいかしら」

「なんなりと」

「あなたの言うとおりに、ラ・トゥール伯爵を問いつめることは避けました。
 けれど、それでよかったの?」

 ラ・トゥールに好感をもてなかったらしいアニエスが、同意するような目をした。 
 マザリーニはうなずく。

「いまさらあの男を問いつめて、われわれが何を得るでしょうか?
 すくなくともこの先、あの男はわれわれに忠実だと言えますよ。
 じつのところ、ラ・トゥール伯爵のトライェクトゥムにおける支持は微妙な地盤の上にあります。市参事会のなかには彼に対立する者もおおいのです。
 彼はみずからの地歩をかためるため、王政府との結びつきを強めようとするでしょう。われわれに忠実に仕え、商売であがる利をもたらすでしょう」

「そのために、彼が王権に侮辱を加えたのかもしれないことを見過ごすのですか?」

「世にあらわにならない侮辱は、王が守るべき名誉にとって存在しなかったと見なしてもかまわないのですよ。そして彼が犯人だったにせよ、この先決してそれを口にすることは無いでしょう。
 陛下、悔しいかもしれませんが、あなたの災難についてはこのまま無かったことにするのが賢明です。むろん調査は続けるにしても。
 それに、私個人の印象ですが、彼があなたに薬を盛ったとは思えません。ラ・トゥール伯爵は自分を勇敢かつ鷹揚な人物によそおっていますが、根っこのところでは王威にひれ伏す型の貴族です」

「それは、わたくしも感じたけれど……では、彼に都市の大権を許したことはどうなのです?
 数代前に実権をうばわれたラ・トゥール家が、王家のお墨つきをえて復権したことは、あの誇り高い自治都市の市民感情をそこなうかもしれないわ。
 商提携するだけならともかく、王家がそこまで認める必要があったのかしら……トライェクトゥムの市民よりなる参事会は長く王家の味方だったのに」

「いえ陛下、いまのラ・トゥール伯爵はすでに市参事会の筆頭役人、つまり市長ですぞ。
 これまで王政府の名において参事会に認めていた特権を、その代表であるあの男個人にゆだねる行為は、今となっては単なる事実追認にすぎません。
 毒食らわば皿まで、ですよ。われわれがトライェクトゥムの実力者である彼をはっきり支持すれば、彼は都市を完全に掌握できます。王政府は忠実かつ強力な臣下を手にいれます。
 彼は平民を愛するような人間ではなさそうですが、得にならぬことはしますまい。以降は虐政をしかぬよう、王家がつねに見ていることを知らせておけばよろしい」



 いちおうの納得はしたものの、不満げな表情にアンリエッタはなっていたようだった。
 マザリーニが懇々と言いきかせてくる。

「またラ・トゥールは、改革を行おうとしている一点では、あなたの行おうとしている政治に合致する人物ともいえます。
 トライェクトゥムで改革を拒み、既得権にしがみついている層には平民がおおいのですよ。意外でしたかな? 彼はそれらの平民には敵かもしれませんが、新しい風をもたらそうとしていることに違いはありません。
 めぐりめぐって改革の成果を世に印象づけ、われわれの手駒として王権の強化に役だってもくれるなら、それは結果としてこの国のためになるでしょう。
 最後にこれが重要ですが、ここ最近あなたの施政において、平民に傾きすぎていた天秤をこの件でやや貴族のほうに戻したと見てとって、貴族たちは安心するでしょう」

「……わかりました」

 いまだすっきりしない感はあるものの、アンリエッタはひとまず引き下がった。
 ここしばらくの国政では、自分の意向を通しすぎたという負い目もあった。

 彼女はマーク・レンデルに向きなおる。

「森番殿、今回のことでは大いに助けられました。あなたの助力に王政府は報いるつもりです。
 トリステインではいま、指揮官も平民からなる軍隊を育てています。聞くとあなたはアルビオン王軍で訓練を受けことがあるとか。本来は火器をあつかうそうですね。
 トリステインに来てみませんか? 新設軍の軍事顧問として席を用意しますわ」

「陛下……もったいないお言葉ですが、私は粗野な野人でして。森のほうが性に合っているのです」

 苦笑気味にことわられ、アンリエッタは「そうですか、無理にとはいいませんが」とやや気落ちした。
 マーク・レンデルがひざまずいた。

「陛下、感謝を申しあげねばならないのはわれわれのほうです。
 本来なら陛下の言葉に逆らうべきではありませんが、いま少しこの森で惨害の後始末をせねばなりません。
 塔の残骸を完全に焼きこぼちます。それがウォルターの望みでもあるでしょうから。あいつを許せなくとも最後にそのくらいはしてやりたい。その後は領民を呼びもどして村を復興させなければ。
 ですが、陛下になにか苦難あれば馳せ参じて微力をつくすことを約束します」

 ありがとう、と答え、アンリエッタは次にアニエスに向きなおった。

「隊長殿も、ほんとうにご苦労さまでした。
 なにか報告があるかしら」

「はい。クリザリング卿の富についてです。その財を成したやり方は奇妙なものですが、それより気になるのは、それがどこへ行ったのかです。
 先年の秋の事件とかかわりあるかもしれません。
 ですが、いまは陛下もお疲れではありませんか?」



「気にしないで……いえ、そうね、いったん帰国してから詳しく聞きましょう。
 サイト殿。ルイズ」

 最後に彼女は、才人とルイズに向きなおった。
 屈託なく、とはいかないらしい。声が硬い。

「ルイズ、ありがとう。あなたの活躍は聞きました、あなたはやはり頼りになるわ。
 サイト殿には本当に、あの、ご迷惑を……」

「いえ、大したことでは……」

 昨日の昼とおなじく、妙にぎこちなく視線をそらしあう才人とアンリエッタの様子に、ルイズがじーーーっと注視している。
 ルイズは深呼吸の後、声をかけた。

「あの、姫さま」

「あ、な、なにかしらルイズ」

「ちょっとお話しても?」

「も、もちろん……いえ、待って、それも帰国してからゆっくり聞くわね。
 いまはその、みんな疲れていることですし。あなたたちにも一度戻ってからきちんとお礼をするわ」

 妙にあわてつつアンリエッタはスカートをつまんで、そそくさとタラップを上がっていった。

「に……逃げたのかしら」

 後ろ姿を見送りながら、呆然とルイズがつぶやいた。
 なんとも口をだしかねている才人は、かたくなに沈黙を保っている。

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 数日後。
 トリステイン北東部の低湿地帯。
 堤防、灌漑、堰などによって水が人工的に制御されてきた地方。
 陽光が水にきらめく大河のほとりを、馬に乗ったラ・トゥール伯爵の一行は進んでいる。

 ゲルマニアの奥から端を発し、とうとうたる流れとなってトリステインを通り、大海にそそぎこむ大河。
 河畔には国境をまたいでいくつもの都市が点在し、物流きわめて盛んであり、商業は殷賑をきわめている。
 なかでも最大の都市トライェクトゥムをかこむ五重の堅牢なる城壁が、ラ・トゥール伯爵の目前にせまっていた。



 トライェクトゥムの市の紋章は、「ハンマーと鉄床」である。
 遠い昔にラ・トゥール家が、王家に都市領主としての実権を剥奪され、市政が市民参画の参事会による自治に代わったとき、王にうったえた市民をまとめたのが鍛冶職人組合だったのだ。

 むろん平民が公職につくことがおもてむき禁じられているトリステインでは、参事会の上層部はほとんどが貴族か聖職者である。
 しかし、独特の選挙方式でこれまでは、平民が陰ながらの選挙によって役人を選んできたのだった。
 それも現参事会筆頭役人、かれアルマン・ド・ラ・トゥールがすでに終わらせた制度となっていたが。

 水のたたえられた堀の大きな石橋を歩く。
 市の入り口、ハンマーと鉄床の紋章がきざまれた、幾重にも連なるアーチ門の下に達する。
 ラ・トゥールはちらと横目で、馬をならばせている秘書を見て鼻を鳴らした。

「下りろ」

 ぞんざいに言い捨て、率先してみずから機敏にひらりと馬から身をおどらせた。
 秘書はおどおどしていたが、素直にしたがって下りた。
 下馬した瞬間、体をひるがえしたラ・トゥールの拳がとび、その鼻をつぶしていた。

 鼻血をこぼして殴打によろめく暇もなく、都市領主の太い腕が、若い秘書の胸ぐらをつかみ、レンガの城壁におしつけた。
 血走った目が、顔の下半分にだらだらと血をながす秘書の顔をにらみつける。

「ふざけているのか、貴様? 森を逃げているとき、あの平民どもは陛下に薬が盛られている云々と会話していた。その後、陛下は私をうたがったんだぞ。
 おまえだろ? なにをした、あの晩餐の席で? ワインを注いでいたのは貴様だったんだ。
 私が秘書の責任をとらされたらどうするつもりだったんだ、ええ? なめた真似をしやがって。この私を裏切りやがって。
 誰の差し金だかわかっているんだぞ、あの狐野郎だ、ベルナール・ギィだ。違うか?」

「違わんな」

 春の陽ざしのなか、木枯らしより冷たい声がラ・トゥールの横手から届いた。
 ゆっくりとラ・トゥール伯爵はそちらに目をむける。

「ベルナール」

 彼の長年の政敵がそこにいた。
 僧服をまとった、少壮の年齢の男。ひげはなく頭もそっており、冷厳たる面持ち。
 周囲が冬に戻ったかと錯覚させるような声。その雰囲気はタバサに少し似ている。
 トライェクトゥムでもっともラ・トゥールを警戒させ、その知識の量と冷えた思考において衆に冠絶している者。

「離してやれ、アルマン。おまえの言うとおり、責任はわたしにある」



 秘書は、血をふきこぼす鼻を押さえて、憎しみに満ちた目でラ・トゥールを見ていた。
 ラ・トゥール伯爵はその視線にこたえることもなく現れた男、市参事会に顧問として席をえているベルナール・ギィに向かってせせら笑った。

「ウォルター・クリザリング自身が陛下に薬を盛ったにしては妙だったからな。何者かがあいつと私に罪を着せようとしているかと思ったんだよ。
 となると、ワインの給仕をまかせていたこいつが怪しいに決まってる。脅して訊きだすつもりだったが、ご丁寧に糸をひいた本人が出てきてあっさり自白するとは予想外だった。
 ベルナール、これでお前は破滅だ。トリステイン国王に毒を盛ったのだからな」

「女王に毒を盛ったうんぬんは知らんな。
 まあ、『万事、協力者にしたがえ』と指示したのはわたしだが」

 ベルナール・ギィはそっけなくそう言い、手をあげた。
 杖を取りだしたラ・トゥールがなにか言うより先に、その背後から秘書がひろいあげた石で後頭部を強打した。
 絶叫して割れた頭を片手でおさえ、うずくまったラ・トゥールにベルナール・ギィは歩みより、にぎったままの杖を蹴とばして離した。

 頭部を血まみれにしたラ・トゥールは、見おろす者の一片の温かみもない瞳を呆然と見あげた。
 さらに気づく。
 アーチ門の向こう、市内部のほうから、いくつもの人影が現れていた。
 平民の商人、職人組合の親方たち。靴職人も毛皮職人も、ろうそく作り職人も油商人も、肉屋も仕立て屋も理髪師も。
 かれらに影の投票で選ばれた、古くからいた参事会員たちも。
 だれもが、冷酷な目で彼を見ていた。

「おい、貴様ら……私は参事会内での正式な投票で選ばれた、貴様らの正当な代表なのだぞ」

 クーデターを起こされたと知り、ラ・トゥールは信じられないというようにうめいた。幾筋もの血を顔につたわらせながら、激語する。

「しかも女王陛下の許しを得て、名実ともにそろった都市領主として帰ってきたのだぞ!
 その決定に逆らう気か! これは私に対するのみならず、国家に対する反逆だぞ」

「正式な投票とやらを行ったおまえの子飼い、または賄賂をうけとった参事会員たちなら、まとめて今朝方吊るしたよ。今は市庁舎の壁にぶらさがって、子供たちに石をなげつけられている。
 『組合親方連による参事会員選出』などの、長年の平民重視の慣習を無視して、金のばらまきと陰の暴力で権力の座にのぼりつめたのが、正当だろうか?
 まあ暗殺や脅迫については証拠はおまえにもみ消されてしまったし、慣習をやぶったのは法を犯したとはいえないが、ここに至っては、みなそこは問題にしていない。おまえは許せぬと意見が一致しているのだ。
 反逆でいいとも」

 あっさり認められ、かえってラ・トゥール伯爵の面に恐怖の色が浮かんだ。
 ベルナール・ギィの後ろでは、いっせいに都市の有力者たちが怒りの身振りをまじえて互いにしゃべりだしている。

「このラ・トゥールの野郎が示した『空路交易』の案に、王家が賛同したんだぞ!
 平民主体の船の水路交易から、風石と風魔法でうごく空のフネに重点がおかれるようになれば、おれたち都市民は長年にわたってつみあげてきた権益の枢要を奪われるってことじゃないか!
 王政府はそれを無視しやがった」



「ああ、だれもかれも恃むにたらん。ラ・トゥールを掣肘してくれることをお上に期待していたのに、王家にまでついに裏切られたとあってはな」

「我らを見放しただけではない、王政府はラ・トゥールの味方についたそうだ。きっと後日、罪を問うてくるだろう。
 トライェクトゥムは王家に深く干渉され、ほしいままに利権をむさぼられ、戦のときには真っ先に負担を課せられるようになる」

「こうなれば傭兵を雇おう。うちの息子も市民兵に志願すると言ってる。みずから戦ってこそ自治都市は尊厳を保てるんだ」

「まてよ、相手は襲撃してくる群盗とはわけが違うんだぞ。トリステイン王政府そのものだ。うかつに戦うわけにはいかんだろう」

 彼らの蜂の巣をつついたような議論のなかで、最後のせりふを聞きつけてラ・トゥール伯爵はとびついた。

「そ、そうだ、反逆の結果を考えていないのか! 王家を敵に回してどうなると思ってる、
 どれだけトライェクトゥムが富裕でも、一都市対一国で勝てるはずもないだろうが!」

 直後に、ベルナール・ギィの凍てつくような声が一同の上をながれる。

「いい機会だからみな聞け、するなら一都市対一国にはしない。
 『武器税』で、いま貴族たちは王家に反感をいだいている。最終的に、『国境をこえてまたがる河川都市連合、対、貴族の支持なき一王家』にもちこめばよい。
 女王の施行した武器税のため、王軍のみならずわれわれも出回った武器を安く買えた。在庫を処理してやるというだけで、ときにはただ同然で譲ってもらえた。武装も充実しているのだ。
 さて、だれか棺おけ職人を呼んでこい。作っておいた棺を届けさせろ」

「ああ、それならここに持ってきましたぜ」

 朗らかな声とともに、鉄の棺が縄でくくられてずるずると引きずられてきた。
 縄の端は牛にくくりつけられており、その牛の鼻面をさらにひいて歩かせている男は、片手の手首から先がなく代わりに鉤がついていた。
 その横で、竜にまたがってやってきた紫のローブの者が、「ここでは楽しいことをやっているようだなあ、〈鉤犬〉」とつぶやいた。
 緑色の小鳥が周りをとびまわっている。

 ベルナール・ギィ、都市トライェクトゥムでもっとも冷えていると言われる男は、恐怖の汗をうかべだした都市領主をあらためて見おろす。

「数百年前、ラ・トゥール家の当主たちは、反抗の色を見せた都市民を棺おけにつめこんで、生きたまま大河に沈めた。
 子孫の身で試してみるがいい、アルマン」

 引導を言いわたされたとき、絶句していたラ・トゥールの表情が変わった。
 恐怖と焦慮と憎悪を激情にかえて、ラ・トゥール伯爵は絶叫した。

「……この、分不相応に欲をだす平民ども! 平民にすりよる誇りをどぶに捨てた貴族どもに、くそ坊主!
 おまえら全部呪われろ、五体を裂かれて地獄に落ちろ……!」

 破れかぶれの悪罵を聞いて、顔色を変えたのは市民たちではなく〈鉤犬〉だった。
 かれは前に出ると、ラ・トゥールの腹を蹴りあげた。
 うめいて横転した彼の胃の上あたりを執拗に蹴りつづける。



「分不相応といったか? 俺たち平民だって儲けてなにが悪い? 働いてきずいた富のなにが悪い?
 六千年だ、六千年だぞ、貴族の圧政に呻吟し、富と力を奪われつづけて六千年だ!
 てめえらは生まれもった立場にものをいわせて、商売で成功した平民がいればなんやかやと理由をつけて臨時税を課し、借金して平然と踏みたおし、あげくのはてに根こそぎ利権を奪っていく!
 てめえらこそが地獄に落ちろ! 共和主義の勝利をそこから見ていろ」

 〈鉤犬〉のわめき声に対し、場の幾人かが顔をしかめた。
 ラ・トゥール反対派の古い参事会員たちである。かれらも一応貴族であり、平民と融和路線にあるとはいえ共和主義を受け入れていたわけではない。
 この一幕が目に入らないかのように、ベルナール・ギィがアーチ門から離れ、人々を無言で市外に呼ぶ。
 紫ローブの者をふくめ、数人が集まると彼は話しはじめた。

「政府の決定、アルマンを支持するというのはおそらく女王ではなく枢機卿マザリーニの判断だろうが、王政府の利のみを考えるならこれは本来間違ったものではない――
 これまでのように平民主体の都市自衛軍が、メイジ主体の貴族らの軍に実力で抗しても力及ばぬ、という条件下なら。
 その場合わたしとて、決起するのは危険と判断したろう」

 不安まじりの視線が、市の有力者たちからそそがれる。
 彼は「しかし」とふところから、小さな石を取りだした。

「ここに高い金をはらって買いあつめた希少な〈解呪石(ディスペルストーン)〉がある。
 なかんずく、この協力してくれる御仁の話では〈永久薬〉という存在と組み合わせることにより、魔法の発動を抑える効果は永続するという」

 紫ローブの者を、ベルナール・ギィは振りかえった。
 その者は微笑の波動をたゆたわせて、肩にかついだ革袋をしめしてみせた。その革袋は、かすかに内部からもれる鼓動を表面に伝えている。
 肩にとまった緑色の小鳥がrotと鳴く横で、フードの奥から声がつたわる。

「まあ、私にしても〈永久薬〉と〈解呪石〉を組み合わせる試みははじめてだが、じゅうぶんに成功するだろう。塔から持ち出すことがかなった種々のレポート、研究書のおかげで要点はかなり把握できた。
 基本は風石その他に効果を及ぼすときとかわらないようだ。手間は魔法人形に比べて非常に簡単でさえある」

 それを聞いてベルナール・ギィはうなずき、聴衆に向きなおった。

「この効果がおよぼされる範囲内で、王家と諸侯の主戦力であるメイジ兵についてはその脅威がほぼ取り去られるわけだ。これでわれわれは最低でも大河周辺において、対等の条件で戦うことができる。
 最終的に政治的妥協を目指すとしても、われわれはまず戦う必要がある。この先二度とあなどられぬよう、力を見せつける必要がある。
 そのための手段と好機がそろっているのだから、ためらう法はない」

 一度言葉を切る。
 それから、ラ・トゥール伯爵を蹴りつづけている〈鉤犬〉のほうに目をやる。

「さしあたり〈王権同盟〉に注意する必要がある。他国に援軍を頼まれてはならない。
 一両日中にゲルマニアでは東部で『たまたま』大貴族が皇帝に反乱を起こすだろう。トリステイン方面に兵を割く余裕はあるまい。
 ロマリアとはいくつもの都市国家と、商取引や銀行の融資を通じた関係があり、教皇庁以外はむしろわれわれの側に近い。ガリアのみが警戒すべきだが、これもうまくすれば組むことができる。
 もちろんわれわれ内部でも、王権同盟の敵視する共和主義者や新教徒に関することは注意して遠ざける、せめて隠しておく必要がある。まして、王家に顔を知られたおたずね者などはなおさらに」



 ちらと再度、紫ローブの者に目を走らせる。
 視線をうけた側は、「わかった」とうなずいた。

「けっこう。ではアルマンをそろそろ棺に入れよう」

 肉屋の親方が手を上げた。
 「河に放りこむ前に、棺を市中で引きまわすことを市民は望んでいる」との言に、ベルナール・ギィは霜がおりるような眼光を投げた。

「棺おけが壊れないとも限らんから引きずるのはすすめない。
 それでもやりたいなら好きにしたらよかろう」

………………………………………
……………………
…………

 ……トライェクトゥム伯アルマン・ド・ラ・トゥールが入れられた棺おけが、市内をねり歩くためにアーチ門内部に担ぎこまれるのを見送りながら、紫ローブがふと言った。
 並んで立っているのはベルナール・ギィのみである。
 後方には〈鉤犬〉と、ほか数人の下男が控えている。

「あの女王は、反乱が起きるとすれば諸侯からだと思っていて、自分が守ろうとしている平民の権力が強い都市からとは予想してないだろうなあ」

「なぜわれわれが、多大な損をこうむってまで彼女の理想につきあわねばならぬのだ?
 都市民以外の平民、たとえば農民などと一緒にされねばならぬのだ? ああいった読み書きもまともにできない愚かな者たちと、帳簿をつけている者らとを一緒にするのか?
 彼らを救うために改革が必要と。けっこうな話だ、ただし都市民の権益に手を出さないでやってくれということだ」

 ベルナール・ギィの言葉は、凍った刃のようだった。
 彼は続ける。

「王家と話し合う余地がないのはそこだ。女王陛下の考える『守ってやらねばならない民』は弱く被害者であり、羊のようにおとなしく素朴で、お互いに平等で仲むつまじくやっている民であろう。
 われわれ都市民は、われわれの利益を優先する。他者を押しのけてでも儲けたい。先祖からの権益を独占することを望む。現在の状態を保持することを望む。そのためには戦う。そして無教養な農民と同じだと思われたくない。
 われわれの利益のためには他の平民は犠牲になってもいいという、このような率直な心情に、彼女ははたして共感するのだろうか?」

 都市民の権益をそこなう改革も、改革の過程で王権が都市へ干渉してくることも、迷惑だ。
 そう言いきる男に対し、にやっと紫ローブのフードの陰で、期待通りといわんばかりの笑みがこぼれている。

「要は女王の政治がむかう先が気にいらないのだな。だから私と組んだわけだな、ベルナール・ギィ。
 女王がラ・トゥールと提携する方向に進んだことによって、都市民はおまえの思い通り暴発の方向に誘導された。
 おまえは内乱を起こし、この機会を利用して、都市の力を伸ばすことだけを考えているのだな」

 ベルナール・ギィはそれに対し鼻を鳴らした。



「貴君には貴君のもくろみがあったろう。それでも双方に利益があるなら手を組むことは自然な流れといえる。
 だがこの先のことについてはわたし及び参事会の決定にしたがってもらうぞ。
 さて、きちんと始末はつけていただこう」

 言い残して歩きだし、アーチ門をくぐって消えていく。
 紫ローブの者は、ひかえていた〈鉤犬〉に向きなおって言った。

「牛をここへ」

「牛、ですか?」

 首をひねりながら、〈鉤犬〉は牛を連れてきた。
 牛に先ほど棺おけを引かせて持ってきたのだが、今その棺は市の有力者たちがみずから担いで市内に戻っている。牛は用済みだった。

「牛などなにに使うんですかね?」

 その問いを無視して、残っていた二名の下男に「竜を」と声をかける。
 先ほどまで乗っていた竜がひかれてくる。
 わけがわからず見守る〈鉤犬〉の前で、二頭の獣に縄をむすびつけるよう下男に命じた紫ローブの者は、「コカトリス」と肩にとまっている小鳥を呼んだ。

「死ぬまで動かぬよう直立させよ」

 ぐりんと小鳥の首がフクロウのように回転し、その黒目がブドウのように大きく開かれた。
 小鳥の目に見すえられ、〈鉤犬〉はその場に固まった。直立不動の体勢。足が地面に固着されたように離れない。
 かつて忠誠の証として、この鳥に〈山羊〉たちともども自分の血をすすらせるよう言われて、首をひねりつつ従ったことがあった。
 かろうじて声は出た。だから〈鉤犬〉は顔をゆがめて叫んだ。

「待った! 待ってくれ、何をする気だ!」

 その首に、二本の輪縄がかけられた。
 一本は牛に。一本は竜につながり、それらの獣はたがいに反対方向を向いておとなしくたたずんでいる。
 下男が一名ずつその鼻面のあたりについていた。
 〈鉤犬〉の顔をのぞきこみ、紫ローブはくすりと笑った。

「残念だな、ベルナール・ギィは、あからさまな共和主義者はいるだけで迷惑だと言っている。とくに顔が割れているやつは危険だと。
 そういえば、おまえには先の秋の責任をとらせていなかった。〈山羊〉のやつは死んでいるのに不公平だろう?
 死んでみるのもきっと楽しいぞ、自分でやったことはないが」

 愕然としている〈鉤犬〉に、優しげな声を出す。



「もちろん、おまえがゲルマニアからかきあつめてきて待機させている共和主義者たちは使ってやるとも。
 〈カラカル〉に彼らの指揮をまかせることにする。情念だけが先行する役立たず共を、あいつなら獣に叩きなおせるだろうよ。いや、『戻す』かな」

 その言葉に、〈鉤犬〉は目をむいて悲鳴をあげた。

「あのような奴に、わが同志をゆだねると!?」

「あいつだって退屈しているんだ。
 先の秋は、おまえと〈山羊〉が口をそろえて反対したから同行させなかったが、本来、あいつほど私に近いやつはいないぞ。
 その戦闘理念が遺憾なく発揮されるのを見たい、だから今度こそ駒の役を与えてやるつもりでいる。
 今よりはじまるこの王侯のゲームで」

 〈鉤犬〉の首にかけられた二本の輪縄に手をのべて、ほっそりした指でいじりながら、紫ローブの者はおごそかなほどにもったいぶって宣告した。

「わたしはこのゲームに最善をつくすと約束するよ、〈鉤犬〉。
 この先に共和国が誕生するかどうかはどうでもいいが、王政の国土を壊乱することだけは引き受けてやるから。
 安心したろう? だから死ね。先の秋の失敗を、一足先にまっている〈山羊〉と嘆け」

 わたしは駒の失敗を、許しておいてやる気はないんだ。
 そうささやかれて、〈鉤犬〉は遅まきながら理解した。自分にその非情がむけられてから、ようやく。
 この人物は、彼が信じてきたような存在ではない。その非情さは、自分たち理想を追い求める者のそれと共通すると彼は思い、共感さえ覚えていたのだったが、違う。
 どこか似ていながらも決定的に違う。

 これは、理想をいだく革命家の苛烈さなどではない。
 これは――退屈を埋めるものを求める暴君の、愉悦まじりの残忍さだ。

「とはいえ、顔も見ずに従ってきてくれたことを思うと、少しは哀れをもよおすな。
 いい機会だから、見てみろ。どうせなら驚いてくれると嬉しい」

 彼の目の前で、紫のローブに手がかけられ、それがばさりと脱ぎ捨てられた。
 柔らかい栗色の髪が、さらりと風にほどける。



〈鉤犬〉はその者にとって、最後に理想的な反応を示したといっていい。
 彼はぽかんと口をあけ、首にかかっている二つの縄さえ忘れたように、呆然とその顔を見てつぶやいた。

「アンリエッタ女王?」

 脱いだ紫のローブの下には黒いドレス。
 黒は陛下に似合わない、と枢機卿マザリーニが評したことがある。
 だが、同じ顔を持ちながら、この魔法人形の一種、肉の器でできたホムンクルスには不思議と合った。
 外観は「オリジナル」と同じ、けれどその魂はまるで違う。
 白と黒ほどに違う。

 白昼の幽霊を見たような表情の〈鉤犬〉に答えず、彼女は市のアーチ門の上にあるトライェクトゥムの紋章を振りかえって言う。

「百合とハンマーの激突の下で、聖俗貴賎の区別なく、狼のように殺し疫病のように殺そう。
 水晶のゴブレットにたたえた紅の酒を乾し、ブロンズの水盤に血を満たそう。
 わたしはオリジナルと遊ぶことにする。これと同じ形をしたあいつの唇から――」

 細指でなぞる花弁のような唇が、三日月の形にゆがむ笑みをたたえた。

「滅亡哀歌を歌わせてやる。
 ダンス・マカブルを踊らせてやる」

 顔を前にもどし、言葉もない様子の〈鉤犬〉を見て、そのホムンクルスは失笑し、獣の手綱をにぎった者たちに合図した。
 ひかれる竜と牛が鈍重に、相反する方向に歩きだす。
 〈鉤犬〉が思いだしたようにわめき声をあげようとした矢先、ぴんと張った二本の縄がぎりぎりと強烈に首にくいこみはじめた。

 数歩下がって黒いドレスの彼女はそれを楽しげに見ていたが、やがて興味を失ったように目をついとそらし、細身を返してアーチ門へ向かいはじめた。
 紫のローブをばさりと羽織りながら、髪をなびかせ、喜色を玲瓏の面にはりつけて。緑色の小鳥がそのまわりを舞う。
 吟唱するように口ずさみ、どす黒く麗々と歩をはこぶ。

「さあ開幕といこうじゃないか。
 王侯のゲーム、殺戮、火炎と鋼のダンス。人の世が飽きず繰りかえす喜劇。
 戦、戦だ、乱痴気さわぎの血の宴だ。
 『かくて始原の昔より、かくて無数の星霜を、
  慈悲悔恨のゆるみ無く、修羅の戦いたけなわに――』」
2008年02月13日(水) 01:58:48 Modified by idiotic_dragon




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