これは入不二基義(いりふじ・もとよし)のWikiです




2019年全日本マスターズレスリング選手権大会・青のシングレット(左)が入不二


第18回 全日本マスターズレスリング選手権試合 F(61歳〜65歳)58kg 入不二第技邱


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告知
(以前に告知したものは、こちら→以前の告知にあります)

◎ 入不二基義『現実性の問題』(筑摩書房)
2020年8月8日発売

装幀と目次の紹介動画


筑摩書房 『現実性の問題』スペシャルページ




【2020年8月8日記】

◎ NPO法人スポーツ指導者支援協会作成の「ざまあみやがれ シニアアスリートの新しき挑戦 入不二基義編「レスリング」」が完成しました。


スポーツ経験のなかった大学教授が51歳にしてレスラーになった!
 
青山学院大学教授の入不二基義さんは、それまで格闘技の経験がないだけでなく、スポーツ経験もほとんどなかったが、キックボクシングで勝利をおさめた息子さんの姿を見て、レスラーを目指したくなったという。普通なら、50歳を越えて初めてレスリングの世界に飛び込むなどあり得ない話だろう。58歳になった今の目標は68歳まで続けることだというが、世代を超えた仲間との出会い、ライヴァルとの闘いをもっとも楽しんでいるのは、新しい世界に挑戦し続けている彼自身にちがいない。

【2017年4月23日記】


公開原稿
2018年東北大学入試 国語【一】コメントと解答例(©入不二基義)

機チ澗療なコメント
供セ笋硫鯏例と設問へのコメント
掘ヅ賈迷膤悗痢崕仟螳嫂泙塙嵒勝
検ジ軻匹砲弔い討離灰瓮鵐
(東北大の入試で使われた私の文章(「私たち」に外はない)を筆者自身が解説し、設問に答え、予備校が作成した解答例を検討するという「変な文章」です。)
「現実の現実性と時間の動性」 in 『哲学論叢』第44号, 2017(京都大学哲学論叢刊行会), pp.1-15.

編著『英語で読む哲学』(研究社)の「はじめに」の部分

「概念を動かしてみる」東京書籍 ニューサポート 高校国語vo.22 特集「大学への国語」

「映画『Love Letter』の図書室」(青山学院大学図書館報AGULI 86号(2009.11.01)特集「図書館での出会い」):『足の裏に影はあるか?ないか?』に載せたエッセイの補遺みたいなエッセイ  

「 中島敦『山月記』『名人伝』」(青山学院大学図書館報AGULI 75号(2006.11.1)特集「お薦めの本」): 野村萬斎らによる芝居「敦ー山月記・名人伝」を観た直後だったので書いたエッセイ     

「「語りえぬものを語る」ことで語られないこと―相対主義・他者・相貌・自由―」(What is not Spoken of in “Speaking of the Unspeakable”― Relativism, Others, Aspects, and Freedom―)<哲学雑誌『語りえぬもの』(有斐閣)第127巻第799号, 2012年所収予定原稿>

「無についての問い方・語り方―「無ではなくて存在」ではなく―」(The Way of Speaking of Nothingness ― It is NOT that there is something rather than nothing.)Heidegger-Forum Vol.6, 2012.pp.22-37.所収)

田島正樹著 『神学・政治論 政治哲学としての倫理学』(勁草書房)へのコメント(2010年3月28日(日)cogito研究会,学士会館)
なお、ララビアータ(田島正樹の哲学的断想)の2011年06月22日に、上記コメントへの田島さんの応答・再批判があります。

「私の死」と「時間の二原理」」(『時間学研究』第3巻,山口大学時間学研究所,pp.15-28,2009年3月31日発行・10月に公刊)=|AA|

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「「論理」をはみ出していく「現実」」(『心理臨床研究』第9巻巻頭言, 青山学院大学大学院文学研究科付置心理相談室発行, 2009年3月発行) 註:この原稿は、『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』(朝日出版社)所収のエッセイ「あるパズル」の続編として書かれている。「あるパズル」の後に読んでいただく方が、いっそう分かりやすいと思われる。

「プロタゴラス説のあるべき姿」(『ギリシャ哲学セミナー論集』Vol. III /2006, pp.15-30.)


身辺雑記(メモ)
◎  2021年9月22日(水)  「初孫誕生」

9月22日に長男夫妻に男の子が生まれて、私も爺さんになった。コロナ禍のため、夫でさえも対面できないので、(25日の夜に)Facetimeを使った三者ビデオ通話で赤ちゃんと対面させてもらった。
満腹後の寝ている姿は、まるで仏像のように神々しく、生まれて三日目にして悟りの境地に至っているかのようであった。

【2021年9月26日記】

◎ 2021年9月22日(水)  「「離別と死別」の伏線は 『現実性の問題』においてどう回収されたのか」

哲学会第六十回研究発表大会 日時: 2021年10月30日(土)・10月31日(日) オンライン開催

・第1日(10月30日)午後3時50分〜5時50分
ワークショップ「現実性の問題をめぐって」
入不二基義・伊佐敷隆弘・乘立雄輝

http://l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/tetsugakukai/ind...


私の提題:「離別と死別」の伏線は 『現実性の問題』においてどう回収されたのか
の要旨は以下で読めます。

https://irifujimotoyoshi.notion.site

【2021年9月22日記】


◎ 2021年9月11日(土)  「この夏休みの二論文」
まだ公刊は先ですが、この夏休みに書いた二論文です。

・「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」(『現代思想』12月号(11月末刊行)に掲載予定)

・「現実と実在と潜在と」(中央大学人文科学研究所研究叢書『リアリティの哲学(仮)』掲載予定、2022年夏刊行予定)

『2021年9月11日記】



2021年9月10日(金)「日本経済新聞・リーダーの本棚」
9月4日(土)の日本経済新聞・リーダーの本棚で、西村あさひ法律事務所 経営会議議長の保坂雅樹氏が、拙著『相対主義の極北』に言及してくれている。「相対主義思考による俯瞰(ふかん)の無限反復。とても面白く、多くの人に薦めている」とある。こういう分野の方にも読まれていることに驚いた。

【2021年9月10日記】


◎ 2021年9月9日(木) 「イノチュウを明晰にしたような論考」
10月30日哲学会のワークショップ「現実性をめぐって」で、久しぶりに伊佐敷隆弘氏と議論する。
彼の現実性に関わる論考「物個体の同一性と名辞以前の世界について」(『ひとおもい』2所収)を読んだ。イノチュウ(井上忠)を明晰にしたような論考で、コメント欲がそそられる。

以下、私の提題要旨。

2021年10月30日・31日 哲学会 第60回研究発表大会

ワークショップ「現実性の問題をめぐって(仮)」

入不二基義(青山学院大学)

提題要旨:
「離別と死別」の話は、拙著『現実性の問題』(筑摩書房、2020年)の冒頭部分に位置する、私が小学生だった頃のエピソードである。その話は、こどもと大人のやり取りで構成されていて、現実性と可能性についてのこどもと大人の両視点の交代を提示している。拙著は、この「はじめに」を導入部として、現実性の問題をめぐる考察をスタートさせる。続く第一章では、「円環モデル」の上に現実性と可能性を位置づけ、第二章では現実性の4つの水準の絡み合いを考察する。しかし、その第一章でも第二章でも、またその後に続く章でも、冒頭のエピソードが再び取り上げられることはない。それでは、「離別と死別」のエピソードを「伏線」とした場合に、その「回収」は、拙著の考察を通じてどのように行われたことになるのだろうか。その「回収」は本の中で明示的には語られていない。そこで、本発表では第一章と第二章を経た視点から「離別と死別」を振り返り、「こどもの現実」を「超-こどもの現実」へと回収することを試みる。(430字)

【2021年9月9日記】

2021年9月2日(木) 「「実は」と「現に」の対照を論じた二論文」

前にも書いた「実は」と「現に」の対照を主題的に論じたのが原稿「現実と実在と潜在と」です。
一つ前の原稿「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」でも、「実は」と「現に」の対照が活躍します。「実は」性が創り出すのが「実在」で、それと「現実性」の重なりとずれが両論文ではっきり書けた。

今回の二論文では、「実は」がどのように「高低差」として働いているかがうまく書けたと思います。



【2021年9月2日記】

2021年8月31日(火) 「高校2年生」

高校2年生が、拙著『現実性の問題』で夏休みの課題文を書こうとしている!

夏休みの宿題、まだ書き終えられていない批評文の課題をやってる。入不二基義さんの『現実性の問題』。
これを2000以内で批評するのは自分には至難の業だけど、あまりにも衝撃だったからこれで書くことにした。がんばるぞ。


【2021年8月31日記】



書けたようです!
ここまで言える高校2年生がいることは、それこそ希望です。


 2021年8月31日(火)  「最早記録」

締め切りは来年3月末で、刊行は一年後くらいの研究叢書(中央大学人文科学研究所研究叢書)に掲載予定の論文を、書き終わって提出した。
自分史上、締切前提出の最早記録かもしれない。
タイトル「現実と実在と潜在と」で、原稿用紙50枚の論文になった。

【2021年8月31日記】


◎ 2021年8月24日(火)   「次の原稿執筆」

「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」の原稿を仕上げたので、次の原稿「現実と実在と潜在と」を書き始めている。

いやみに聞こえるかもしれないが、私は原稿が書けないという苦しみや、締め切りを目前にした切迫や焦りを、一度も経験したことがない。
書くに至るまでの準備・過程そして書く作法も、(その方面の本を読んでみると分かるのだが)自分と似ているケースを見つけられなくて、困惑することさえある。

 おそらく、書きたいものしか書いていないから、書きたいようにしか書いていないから、そうなるのだろう。苦労を知らない半人前だとも言える。

【2021年8月24日記】

◎ 2021年8月18日(水)  「mmhmmを一言で説明すると・・・」

mmhmmを一言で説明すると・・・


【2021年8月18日記】

◎ 2021年8月16日(月)「終了」/ 2021年8月17日(火)「リード文」

とりあえず、一週間で依頼原稿「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」の第一草稿を50枚ほど書き上げた。
この間に、2回目のワクチン接種も終了。

この論文のリード文は、以下のようになります。
トマス・ネーゲルは、「外的世界についての懐疑論」(以下、懐疑論と略す)がどこまで批判に耐えうるかを考察する過程で、最重要の懐疑論批判として検証主義を採り上げている。またネーゲルは、懐疑論からも検証主義からも忌避される見解として、独我論にも言及する。懐疑論は、独我論のような「勇み足」はしないし、また検証主義の批判に対しても反論ができると、ネーゲルは診断する。本稿は、この三者(懐疑論・検証主義・独我論)に対するネーゲルの議論(懐疑論批判と懐疑論擁護)を出発点に据える。
そこから本稿は、「認識論・存在論・意味論」という三つの水準と「現実性と可能性」のペアを前景化することによって、ネーゲルの議論を俯瞰する。さらに、その三水準とペアに沿った考察をもう一歩先まで進めることによって、ネーゲルの議論の可能性をネーゲル以上に大きく開く。その結果、三水準からは逸脱する現実性、可能性とのペアからは外れる現実性が、浮かび上がる。
そのような現実性は、すでに懐疑論・検証主義・独我論の三者の内に、また三者どうしの批判と反論の応酬の内に、萌芽的にかいま見ることはできる。しかし、それらの議論によって捉えることができる現実性は、あくまで認識論・存在論・意味論が作る三角形の内に閉じ込められた現実性であり、可能性とのペアの内につなぎ止められた現実性であって、その先の現実性へと突き抜けることはない。三水準を超える現実性、可能性とペアにならない現実性は、三者(懐疑論・検証主義・独我論)が作る議論空間を突破する。
まずは懐疑論・検証主義・独我論の三者の内から、現実性の「萌芽」を抽出し、それを更に「解放」していくという仕方で本稿の議論を進めよう。解放される現実性は、拙著『現実性の問題』で論じた「純粋現実性」へと接近することになるだろう。ネーゲルの議論では、独我論は懐疑論や検証主義よりも「冷遇」されているように見えるが、本稿の議論では、独我論はネーゲルの場合よりは相対的に「好遇」される。しかしそれでもなお、独「我」論はまだ不十分なので、独「現」論へと書き換えられることになる。

そして末尾の付記。

*本稿は、青山学院大学二〇二一年度前期の哲学の授業(註(1)のネーゲルの著書をテキストにしている)で話した内容を基に、より精度を高めることによって書き下ろしたものである。


本日は、モニターになってくれた第一読者(複数)のコメントを受けて、使用した図に関しての説明文を本文に加えた。まだ書き残しているのは、註での大森荘蔵への言及部分。

【2021年8月16日記、8月17日追記】

◎ 2021年8月10日(火) 「これは「凄い」感想だ」
これは「凄い」感想だ。
この感想を読んで、こっちの元気がでた。

【2021年8月10日記】

◎ 2021年8月9日(月)  「新たな原稿執筆依頼」
原稿執筆を依頼されて、「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ 」(仮題)を書くことになったので、また本の執筆の方は棚上げにする。

この論文とは別に、(講演で喋った)「現実と実在と潜在と」も原稿化します。

『2021年8月9日記』

◎ 2021年8月5日(木) 「提出」

8月末締め切りの提題タイトルと、9月末締め切りの提題要旨を、両方いっしょに本日提出。乗立雄輝氏・伊佐敷隆弘氏とメールでWSの打ち合わせをする中で、私の発表はこれでいいということになったので。


https://www.notion.so/irifujimotoyoshi/c394b43a9f9...

【2021年8月5日記】

◎ 2021年8月5日(木)  「技術解説をしながら観戦/インタビュー集」
昨日の川井友香子選手の試合では、妻にいっちょまえに技術解説をしながらテレビ観戦。
片足を取ったあとの、他方の足への「無双」気味の技がすばらしかったこと、相手のcradle(エビ)技が後ろ方向に返されていたら危なかったこと等々。

私がインタビューされた記事も掲載されています。『人生100年時代を楽しむ生き方』(労務行政)
https://www.amazon.co.jp/dp/4845214423/



【2021年8月5日記】

◎ 2021年8月4日(水)  「観戦・感染・記録更新」
並行世界的なことば対応としての「観戦」と「感染」、そして「記録更新」も。

もう一年が経過。

【2021年8月4日記】

◎ 2021年8月2日(月)  「提題要旨(案)」
提題要旨(案)を作成してみた。
https://irifujimotoyoshi.notion.site/c394b43a9f914...

【2021年8月2日記】

2021年7月31日(土) 「こんなの見つけた」

こんな文章を見つけました。
私関連のあちこちにリンクも張られています。PDFで公開されている「概念を動かしてみる」にまでリンクが張られていた。

https://note.com/waterwaves/n/nfa6dc93cfa46

【2021年7月31日記】

2021年7月30日(金)

まだ三ヶ月先の発表だが、本日ひととおり最後まで作成してみた。8月からは、レスリング本の執筆に戻らねば。

【2021年7月30日記】

2021年7月26日(月) 「提題タイトル(案)」

10月の哲学会ワークショップ「現実性の問題をめぐって」の提題タイトルとして、「「離別と死別」の伏線は 『現実性の問題』においてどう回収されたのか?」を、とりあえず第一案として考えてみた。

全体の構成・流れを思案中。


【2021年7月26日記・29日追記】

2021年7月24日(土) 「ワークショップ「現実性の問題」」

こちらの「現実性の問題」についてのワークショップですが、乗立雄輝氏(コーディネータ)・伊佐敷隆弘氏(報告者)と入不二という組み合わせで行われる方向で話が進んでいます。10月30日(土)15:50〜17:50



10月末に開催される哲学会で、拙著『現実性の問題』(筑摩書房)を扱うワークショップが行われる予定です。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/tetsugakukai...
【2021年7月24日記】


◎ 2021年7月22日(木) 「並行世界への招待」

「現実性の問題」を猜験忰瓩量簑蠏へと引き込んだ論考で、拙著もこの最終回で言及されています。

https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2021/07/15/pu-...
https://t.co/JI1pq3HxiV

◎ 2021年7月19日(月) 「Prezi + mmhmm」
意味ある使い方かどうかは別にして、Prezi Videoのカメラでmmhmmを選択することで、Prezi Presennt 特有のズームイン・ズームアウトの資料提示を、半透明化した資料の向こうに自分がいる仕方で、しかもmmhmm上でやるということもできるのか。

「重ね着」のような使い方である。M1 MacBook Air が"初めて"かなり熱を帯びたので、マシンに負荷がかかった模様。

上記の使い方ではないが、mmhmmを使用して、iPad Pro内のPrezi Viewerを使ってPrezi Presentを提示した場面。
前期最後だったので、第1回にした「離別と死別」の話を回収して、第2章の現実性の話と繋げるための復習をした箇所に当たる。


「上記の使い方」というのはたとえばこんな感じ。前の動画と比べてみれば分かるように、半透明のスライドの背後からプレゼンできる。
https://prezi.com/v/jk2tx_k-bjql/test/?preview=1


【2021年7月19日記,20日, 23日追記】

2021年7月17日(土) 「哲学会のワークショップ」

10月末に開催される哲学会(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/tetsugakukai...)で、拙著『現実性の問題』(筑摩書房)を扱うワークショップが行われる予定です。

【2021年7月17日記】

◎ 2021年7月14日(水) 「三位一体説」

昨日の講義では、高校世界史レベルの「三位一体」の話(公会議や異端の説など)から始めて、三位一体説の内に潜む多重的な「二重性」や「二と一と三」の関係ついて話しをした。
ここから、私の円環モデルとの比較へと進む(次回)。

【2021年7月14日記】

◎ 2021年7月11日(日)  「mmhmmアップデート」
mmhmmのアップデート(Version 2.0.1 - July 11, 2021)。
プリセットのリネイムができて、色による区別もついた。

【2021年7月11日記】

2021年7月9日(金) 「授業にて」

懐疑論・検証主義・独我論の「三角関係」と存在・認識・意味の「三水準」の絡み合いを利用しつつ、その「3」を抜け出して「4」へと超えていく。このような議論のやり方を、「テキストを踏まえながらテキストを超えていく」というやり方のサンプルとして提示してみた。




こういう授業は楽しい。
もちろん、私がです。

この授業は、文章化(書籍化)する話もあります。

【2021年7月9日記】

◎ 2021年7月1日(木) 「英文解説」
今日は、学生が、アンスコム「一人称」論文の次の箇所の英文構造が分からないというので、まるで駿台英語講師に戻ったかのように(!)解説した。



ちなみに、英文として構造が正確に読み取れたとしても、アンスコムの主張を理解するのは、かなり難しいです。特にイタリック体のthis (these) は通常の指示詞ではなく、その点について私はかつて(30年近く前に)論文を書いていますし、『現実性の問題』の「このもの」主義解釈にも繋がっています。

さらに付け加えると、アンスコムの「一人称」論文は、「私」という一人称は指示を行わないという前半部の主張が注目されることが多いのですが、この論文の真骨頂は、引用した英文を含む後半にこそあると、私は考えています。

【2021年7月1日記】

◎ 2021年6月28日(月) 「学生との質疑応答」
一つ前の投稿の授業内容について、学生との質疑応答を行いました。(学生も了承済み)。

このような質疑応答ができる学生に授業を聴いてもらえて、教師冥利に尽きます。

哲学科の学生ではないというところが、さらにすばらしい。

【学生】
独我論について意見が二点あります。
‘伐耋世砲弔い銅,療世指摘されている。
・可能性の文脈から脱した立場にあること
・認識=意味からはみ出した立場にあること(ちなみに,はみ出しの程度としては独我論>懐疑論>検証主義)
こうした独我論の「突破性」(←可能性の文脈から「脱する」,認識=意味から「はみ出す」ことを「突破性」と呼んでおく)が,僅かなりとも現実性にまで届いているのか疑問だ。独我論の「踏み出し」は現実性の水準への踏み出しではなく,あくまで(認識=意味からの)存在の領域へのはみ出しに過ぎないのではないか。
入不二先生の独我論の捉え方は,一面的ではないか。独我論にはA「自分の認識の確実性」という「内」に焦点をあてる側面 B「外界の非実在」という「外」に焦点をあてる側面 の二側面があるが,先生の独我論の捉え方はBのみに注視してAをなおざりにしていないか。

【入不二】
 もちろん、独我論もまた「十分には」突破などしていない。しかし、懐疑論は「有意味性」に拘ってしまうために、「意味を超える存在」「無意味に存在する」ところまで突破できていないのに対して、独我論のほうは(意味的には言えない「知」を語ってしまうことによって)「意味の水準を超え出る存在」「無意味な次元の存在」へ達しようとしている。その点が、独我論の「である」という断言(事実性)に読み取れるということです。突破力は、やはり懐疑論よりは強いということです。
 逆に、△能劼戮蕕譴討い襪茲Δ福崙發罰亜廚箸いζ鸞μ未残っていることこそが、独我論の十分ではないところだというのが、私の見解です。検証主義が独我論を批判するときの背理法からの結論を逆手にとって言えば、「(私の図示の)一つの丸になってしまう=内と外の対比が消える」(という検証主義が批判する点)は、独我論の瑕疵なのではなくて、むしろ独我論の徹底(完成)なのだと考えるわけです。

【学生】
・懐疑論が認識と重なる意味に拘っているのに対し,独我論は,意味から無意味へ踏み出すのではなく,認識と重なる意味から認識からあぶれる意味(存在と重なる意味)へと意味の範囲を拡大しているように私には思えます。独我論の「勇み足」は,意味から無意味への踏み出しではなく,「認識と重なる意味」から「認識からあぶれる意味」への(意味の範囲の)拡大に思えます。独我論の断定から読み取れる独我論の突破力が懐疑論より強いことには同意ですが,行き着くのはせいぜい認識からあぶれた意味(存在と重なる意味)の範囲までであって,独我論の突破力は不十分にさえも現実性のレベルに向かっていないと感じた(る)のです。
・先生の“独我論の捉え方が”一面的であるというより,こう言う方がいいかもしれません。現実性の水準において内と外が一致する独我(現)論であるが,“一致に至るまでの道筋の記述が”一面的なのではないか,と。「我」(独「我」論)が「現」(「現」実性)になるところに於いて内と外が一致をみるわけですが,そこ(=現実性の水準に於ける内と外の一致)へと至るまでの筋道の記述が「独我論の外への突破」に偏っていて,「独我論の内の全域化」が注視されていないように見えた,ということでした。

【入不二】
 まず、「認識と重なる意味から認識からあふれる意味(存在と重なる意味)へと意味の範囲を拡大している」のは、すでにもう「懐疑論」がそうなのだと考えています。つまり、検証主義の「存在<認識」に対して、懐疑論が「存在>認識」という優位関係によって再反論する点が、その「あふれ」「はみ出し」に相当します。「存在と認識」という観点からは起こっているその「あふれ」「はみ出し」もまた、意味的・概念的な水準の内で行われているところが、懐疑論VS検証主義が「意味論的な水準」を共有しているということです。
 そして、テキスト(ネーゲル)の扱い方では、(可能性か事実性かの一点を除き)懐疑論≒独我論のような書き方になっていますから、その点を重視するならば、そちらが・強調しているような「心の内(の全域化)」もまた、両者の共通点として重要です。その点では、懐疑論と独我論は、どこまでも「内」という認識論的領野の住人だとも言えます。
 意味論的なタッグを組んでいるのが「懐疑論と検証主義」、「内」という認識論的領野でタッグを組んでいるのが「懐疑論と独我論」、「外と内の一致(=無化)」においてタッグを組んでいるのが「検証主義と独我論」(この図式を検証主義は独我論批判として使っているけど、実は検証主義も同じ図式の下にある)という図式も考えることができます。
 このような「閉じた三角形」を揺さぶりうるのが「可能性の文脈と現実性の力」という二軸であり、その中間で働く「独我論の事実性の力」ということになります。
意味論的な水準にあることは、可能性の文脈にあることと同一視できます。しかも、その水準=文脈内に走る僅かな「裂け目」を、「懐疑論VS検証主義」の内に見いだすこともできます。その「裂け目」とは、意味論的水準=可能性の文脈の内に「どっぷり」浸かっている検証主義と、「実は・・・」「本当は・・・」という実在性の疑い(これすら意味論的な水準の内にありますが)を、その水準自体への疑いとする可能性!を、本当は!残してるはずの懐疑論とのあいだの狭い「裂け目」です。その「裂け目」をすり抜けて、その水準=文脈を脱しようとしているのが、独我論の「であるという断言」(事実性)なのだと、独我論の「勇み足」を改釈するわけです。その点では、懐疑論と独我論は、「内」の全面化を介して、実は!「裂け目」の全面化へと踏み出そうとしている(そして、独我論は実際に踏み出している)ということになります。「裂け目」は「無意味の入り口」と言ってもいいでしょう。
 この「可能性としての踏み出し」と「事実としての踏み出し」の差が、懐疑論と独我論の差であり、結局意味論的な水準内に留まってしまうか、僅かにでもはみ出すかの差だと考えているわけです。
 独我論によるこの「事実としての踏み出し」は、検証主義から見れば「無意味」ですし、懐疑論から見れば「認識論的な誤謬(知らないのに知っていると言う)」であり、安定した三角形からの逸脱行為ということになります。そして、逸脱を試みる独我論が「内と外の一致」に至るプロセスは、皮肉にも(?)批判者=検証主義の「実在の知覚」論によって、与えられていることになります。三者(懐疑論・検証主義・独我論)の協働こそが、三角形からの脱出(可能性の文脈から現実性の力へ)を支援しているわけです。
 もう一点付け加えると、懐疑論の特異点であるcogitoが持つ「再帰的な事実性」こそが、独我論の「断言的な事実性」へと繋がっているとも言えます。その点を重視するならば、この思考という事実は、もう「内」と呼べるような認識論的領野ではなく、「点」として表象するほうがまだ相応しい(だからこそ、瞬間にまで煮詰められることになる)。ここでもまた「内/外」という枠は無化することになります。

【学生】
・一つ前の私の「懐疑論が認識と重なる意味に拘っている」というのは,ここ(=入不二先生が展開しているこの話の中)では誤った捉え方だったと分かりました。認識と重なる意味に拘っているのは検証主義であって,懐疑論はそこ(=認識と重なる意味)から脱して存在の領域へとはみ出す(しかしはみ出した場所も意味の領域内部であって,検証主義と懐疑論は意味の土俵を共有していることになる)。ということなのですね。つまり,懐疑論と検証主義の異同が分かりました。
・懐疑論と検証主義の違いをクローズアップすると,「意味にどっぷり」の検証主義と「意味からちょこっと剥離」した懐疑論の間の「裂け目」が見える,と。(ここから私の意見です→)先生は懐疑論の懐疑を「(失敗必至の)意味そのものへの懐疑」と見なしていますが,懐疑論の懐疑をそのように(=失敗必至の意味そのものへの懐疑の試みとして)見なし得るのでしょうか?(反語の意で疑問符を付けたのですが,ぜんぜん見なし得るな,と思い直した。思い直したなら反語の問い自体を削除すればいいのですが,せっかく書いたので残しておく。)
・独我論の「勇み足」について。「知」から「無知」への「勇み足」でなく,(テキストの批判が的外れとなる)「可能性」から「事実性」への「勇み足」と「改釈」する,ということですね。(ここから私の意見です→)この「改釈」に共感できない,というのが私が一つ前と二つ前に書き込んでいたこと,ということになりそうです。テキストの独我論の「であるという断言」から,「可能性から(入不二の現実性へと接続する)事実性への踏み出し」を読み取ることついて,私は依然として無理があるように感じています。
・話の全体像について。「閉じた三角形」と「「可能性の文脈と現実性の力」という二軸」というデカい図像が先ずあり,「閉じた三角形」(←「可能性の文脈」と重なる)を「現実性の力」が「ゆさぶる」,という全体像がイメージされました。さらにイメージを進めれば,「閉じた三角形」の 三つの角の内側 を外側へと(まるで袋を裏返すように)ひっくり返せることが,「独現論」(現実性の遍在)を支えている,と。(独我論の「勇み足」の「改釈」に反対していることに伴って,このような全体像を描くことにも抵抗するべきなのだろうけど,ダイナミズムが美しいので「改釈」への反対は脇に置く。)

【入不二】
 納得できるところとできないところの「境界」がかなり明確になったようですから、この件での対話はひとまず終了としましょう。

こんな画像も作成


【2021年6月28日記・30日追記】


◎ 2021年6月25日(金)  「青スタ・哲学A」

テキスト(by ネーゲル)に登場する懐疑論 VS 検証主義について、
 岾鞠亜β減漾ηЪ院廚了或綵爐ら俯瞰して、両者の力動的な関係を捉え直す。
△気蕕法独我論を加えた三者を、二軸(可能性と現実性)で捉え直して、「独我論」を「独現論」(@入不二)へと繋げる。
青スタ・哲学Aの授業の話。

オープニング黒板


テキスト自体は、懐疑論から検証主義への再反論で終わっている。しかし、どうしてももう一歩議論を深めたくなる箇所なので、「哲学入門」のレベルを超えてしまうのを承知の上で、私自身が考える「その先」を提示することにしている。

この話の概略を書くと、こんな感じの話になります。

懐疑論と検証主義相互の議論は、意味(概念)・存在・認識の「三角形」の内部で行われている。両者とも有意味性という共通の土俵に乗って、存在と認識のあいだの優位性をめぐって争っている。しかも、その優位性争いはシーソー関係にある。

また、懐疑論と検証主義の両者は、(独我論とは違って)可能性の文脈の「住人」である。懐疑論による疑いは存在・非存在の〈可能性〉に、検証主義による有意味性の条件は検証・訂正の〈可能性〉に依拠している。「三角形」の内部とは、まさに可能性の文脈に他ならない。

それでもなお、懐疑論と検証主義のどちらにも、その「三角形=可能性の文脈」から逸脱しそうな要因が、(僅かにではあっても)含まれている。その要因が「現実性」の端緒となる。「現実性」こそが、意味(概念)・存在・認識のどれでもない「第4の水準」である。

懐疑論ならば、その端緒は、cogitoという特異点に示されている。また、懐疑論は「〈本当は〉〈実は〉外部は無いのかもしれない」と疑うことによって、(概念的な可能性から)もう一歩だけ踏み出そうとする。その「本当は」「実は」にも、「現実性」の端緒が示されている。たとえ、もう一度「かもしれない」という可能性内に回収されるのだとしても。

検証主義ならば、もっとも外側の可能性として働く「真なる認識(の可能性)」によって、現実世界を保証しようとする。最大の真実性(の可能性)が、現実世界とイコールになる。そこに、「現実性」の端緒を見ることができる。

とはいえ、懐疑論も検証主義も「可能性の文脈の住人」であることに変わりはない。その点では、独我論だけが異なっている。独我論は、「かもしれない(という疑い)」ではなく「である(という断言)」によって、すでに事実性・現実性の水準へと踏み出しているからである。独我論のその「踏み出し」は、懐疑論側からは「勇み足」と見えており、批判される。

その「勇み足」は、「知」の水準(認識論的水準)では、「知らないのに知っていると言っている」という誤りに見えるだろう。しかし、その水準自体(三角形の内部)からの逸脱として見るならば、その「踏み出し」は、むしろ善き「勇み足」である。

その点(可能性の文脈からの逸脱)においては、独我論には懐疑論や検証主義にはない「美点」がある。それでもなお、独我論の「踏み出し」は不十分である。懐疑論や検証主義とともに、「心の外/内」「実在と現れ」という枠組みを共有したままだからである。その不十分さが、独「我」論という命名に痕跡として残る。可能性の文脈から事実性・現実性への逸脱の力は、「心の外/内」「実在と現れ」という枠組みも突破してしまうはずである。「現に」という現実性は、「心の外/内」「実在と現れ」を貫通して働き、「私の心の外は無い」のではなく「現実の外は無い」に至ることになる。

こうして、独「我」論は、独「現」論へと変わる。

【2021年6月25日記】

 2021年6月16日(水)「mmhmm使用中」

昨日の授業のオープニング。mmhmmを使っています。#mmhmm


もう一枚は、今日の会議中。


この第10回の授業の録画を、こちらから視聴できます。この授業は、『現実性の問題』(筑摩書房)をテキストにした講義です。

【2021年6月16日記】

◎ 2021年6月10日(木)  「一人称問題と独我論」

本日のゼミ(オンライン)では、学生が卒論執筆の一環として、私のデビュー論文「一人称問題と独我論」(1988)を採り上げて、その読解・考察を行ってくれた。30年以上前のことが思い出されて、私のほうは(味わい深い?)背景説明などもした。

こちら(画像)は一昨日の講義。mmhmmを使っているので、共有画面の中に登場している。


【2021年6月10日記】

◎  2021年6月5日(土)・6月6日(日)  「LG UltraFine 5K Display」

M1 MacBook Air の外部ディスプレイ用に、LG 5K Displayが明日届く。これもオンライン授業の環境整備の一環。 

書斎では、M1 MacBook Airをクラムシェル・モードで使用できるようになって、LG 5K DisplayがMacBook Air用のドックとなった。



【2021年6月5日記・6月6日追記】

2021年6月1日(火)   「mmhmm」
mmhmmのブロードキャスト・ウィンドウを、Webexの共有画面で提示しようとしても、ウィンドウ単体では共有選択できないため、mmhmmをアプリとして選択することになって、(提示したくない)操作画面まで共有されてしまいます。何かよい解決方法はありますでしょうか。zoomではこの問題は生じない?

(画面共有ではなく)カメラでは確かにできますが、文字情報が多い画像の解像度を上げるためには、画面共有のほうが望ましいのです。画面共有でやれば、学生たちの側で画面の拡大等もフレクシブルになりますし。

たぶんwebexの共有画面の選択の仕方が「目が粗い」のだと思います。今後対応してバージョンアップしてくれるといいのですが。

色々問題点は残るけれども、mmhmmを組み込んだ授業のほうが良さそうだった。本日の2コマをmmhmmでやってみた感想。

【2021年6月1日記】

2021年5月31日(月) 「本日の有意義なツイート」


【2021年5月31日記】

◎ 2021年5月25日(火)   「オンライン講義にて」

本日のオンライン講義でのこと。現実性の第3水準と第2水準の区別とその動的カップリングという私の話に応答して、次のようにコメントしてくれた受講生がいた。
<「現実性」の力を強める方向に進むと第3水準から第2水準へ向かうことになるわけですが,弱める方向に進むならば,第3水準から「文脈」を抜いて「意味」だけにすれば,第3水準よりさらに力の弱い「現実性」を考えることになりますね(第4水準の現実性)>。
すばらしいコメントだ。
【2021年5月25日記】

 2021年5月23日(日)  「小中高の比較」

「小学校より中学高校は過ごしにくい」と感じる方々が多くいるようだ。私の場合は逆だった。
小学校から中学校になって、解放感のほうが強かった。
全面的にこちらに立ち入ってこようとするのが小学校の教師で、部分的に(私の得意な局面で)つき合えばいいのが中学以降の教師という感じがあった。

ちなみに、私は小中高とすべて公立出身です。小中は地元(川崎市)で、高校は学区外(藤沢市・湘南高校)。

中高のほうの過ごしにくさは(教師との関わりではなく)生徒同士の関わりから来るのでしょう。しかし、生徒同士の関わりに関しても、上記の点(教師との関わり)は影響を及ぼしていたように思う。小学校のクラスの秩序は、担任教師の好みを陰に陽に反映した(勉強もスポーツも得意で人気者の)生徒が中心になって形成されていた。しかし中学以降は、クラスの中心は複数化していく(散けていく)し、それらの諸中心は担任教師のコントロールから(相対的に)独立していた。これは、一人の担任教師が複数の教科を担当している小学校と、教科専任制となって専門性が強まっていく(=散けを可能にする)中学・高校との差もまた、反映していたように思う。

【2021年5月23日記】

◎   2021年5月22日(日) 「『フィルカル』Vol.6 No.1」
「フィルカル・リーディングズ」で、飯盛元章さんが拙著『現実性の問題』(筑摩書房)を挙げてくれています。
「バグってしまったかのように真っ黒になってしまう」という紹介の仕方がよかった!

『2021年5月22日記】

2021年5月10日(月) 「15年以上前の音声ファイル」
こんなのあります。
大阪大学での集中講義の録音を「ラジオメタフィジカ」が流したもの。
入不二基義先生の集中講義での一コマ
(約35分)(収録:2005/12/28)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/syut...
15年以上前の喋りですが。
音声ファイルはこちら。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/0512...




学生からは「声の高さと速さが今と違う!とパッと聴いて感じました」と言われた。
これで「違う」ということになれば、1993年3月10日に駿台予備学校でやった講演の音声は、はやさも違うし、もう「別人」ということになる。声もこんなに歳をとる。

音声ファイルへのリンク

1993年のほうを聴いた学生からは、「「別人」みたいでちょっと不気味な気分」とまで言われてしまった。

【2021年5月10日記】

◎  2021年5月2日(日)  「老いては子に従え」
昨日5月1日は「老いては子に従え」を実感した日として記憶されるだろう。付け加えれば、その実感こそが老いの哀しみ・寂しさであると同時に、従うべき子の頼もしさを確認した喜び・嬉しさでもある。

いくつかの面倒な案件(広い意味でのネット関係)を、息子たちが私たち・親に代わって処理し解決していく姿を横で見ていて、なんと頼もしいことかと思うと同時に、その知識の進歩の速さや行動力の成長には、もうついて行けないなぁと我が身を振り返った次第です。


ついでにご報告。10月に初孫が生まれる予定です。

【2021年5月2日記、3日追記】

◎ 2021年4月29日(木)  「レスリング本第局改訂中」
『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』(ぷねうま舎)の第局瑤鮴犬瞭記群から以下のように改訂中。

第局堯ー汰(レスリング雑考・雑記)

第1章 きっかけ・状況・背景
第2章 準備運動からスパーリングへ
第3章 試合出場
第4章 ケガ体験
第5章 「技」への想い
第6章 場と人

【2021年4月29日記】

 2021年4月13日(火)  「縮約版」

植村さんによる拙著『現実性の問題』の書評(https://drive.google.com/file/d/1VFpERd1Kq7gw1jDEL... )
の「縮約版」とも言えるレビューが、amazonに投稿されています。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LNY...

【2021年4月13日記】

 2021年4月9日(金)  「卒論指導ツールとしてのNotion」

#notion は卒論指導ツールとしても優れている。
執筆日程の管理、アイデアの蓄積、骨格の検討、部分の執筆と全体構築とのリンク、引用文献のDBを、WORKSPACEで共有しながら伴走できる。
calloutで割り込み意見を伝えたり、ページ・ブロック・単語、どの水準でもコメントのやり取りがしやすい。
【2021年4月9日記】


◎ 2021年4月8日(木) 「書評の決定版」
・ 植村恒一郎さんの書評(入不二基義著『現実性の問題』)のPDFファイルを、こちらでも公開しました。
https://drive.google.com/file/d/1VFpERd1Kq7gw1jDEL...
【2021年4月9日追記】

・ 植村さんのブログ(https://charis.hatenadiary.com/entry/20210408/1617... )で、この書評が公開されています。ご一読を!

・  最新刊の『時間学研究』No.11が届きました。植村恒一郎氏による拙著『現実性の問題』の書評が掲載されています(pp.109-115)。『現実性の問題』への書評の「決定版」と言っていいでしょう。
・ 大きな構図のもとで拙著を読んでもらっていて、著者冥利に尽きます。


【2021年4月8日記】

◎ 2021年3月31日(水)   「脱稿」

新学期が始まる前に、『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと ─考察・実践・語り─』の原稿(72万文字/原稿用紙1800枚相当)を、ぷねうま舎の中川さんに提出できた。

【2021年3月31日記】

 2021年3月30日(火) 「QRコード」

今回の本では、動画(私のスパーリング・試合動画を含む)を参照してもらえるように、註でQRコードを付けます。Notionで、このQRコード・動画・ジャンルをデータベース化してみてます。このデータベースをそのまま「索引」にすると面白いのだけれど。
たとえば、こんな感じ。


【2021年3月30日記】

◎ 2021年3月30日(火)  「自伝」

『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』の原稿始めのほうを、読み直している。第局瑤僚章は、(レスリングの威を借りた)一種の自伝になっている。
もう今年63歳になるわけだし、そういうものを書いてもいいことにしよう。

『2021年3月30日記』


 2021年3月30日(火) 「最後の一文」

『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』の第局堯崋汰(2010年〜2020年の記録)」の終節「終わりの始まりか?」は、2020年度の総括をしているような文章になって、最後は「しかし、新年度が始まろうとしている」となった。

【2021年3月30日記】

◎  2021年4月29日(月)  「日付の入ったデータ」

もうすぐ書き終わる『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』(ぷねうま舎)の第局瑤蓮◆卞付の入った〉日記体の集積からなる。
最近はまっているNotionでは、〈日付の入った〉データを諸々の観点から抽出したりviewを変えたりしながら、角度を変えた振り返りができる。
〈日付の入った〉データというのは、独特の楽しさがあることに改めて気づいている。

【2021年4月29日記】

◎ 2021年3月28日(日) 「レスリング本」
もうすぐ原稿完成


【2021年3月28日記】


◎ 2021年3月11日(木)  「書評誌『綴葉』」

京都大学生協の書評誌『綴葉』2021年3月号(No.395)に、拙著『現実性の問題』(筑摩書房)の書評が掲載されています。
的確にまとめられたいい文章です。

https://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relatio...



【2021年3月11日記】

◎ 2021年3月3日(水)「Slack→Notion」
ここ何年かのゼミはSlackを利用してきたけど、Notionのよさに気づいたので、Notion主体でやってみようかと考えている。
使い始めたばかりですが、今のところ、Slack+wiki+データベース+ノート+メモ・・・といったイメージで使っています。ノートという側面から見たときには、ノート内ノート内ノート・・・のようなノートの(無限)埋め込みができます。
あと、(最小単位?としての)ブロックを縦に並べるだけでなく、横に並べて(いわゆる「カンバン」方式的に)使えるのも面白いです。(単位としては単純な)レゴブロックで複雑なものを作り上げるような使い方ができるという印象を持っています。
【2021年3月3日】

◎ 2021年2月27日(土)「一年前」

ちょうど一年前なんですね……

【2021年2月27日記】

◎ 2021年2月23日(火)「来年度(2021年度)の授業」
来年度は、「潜在性」を焦点にして全体を見直す講義を予定しています。

筑摩書房 現実性の問題 The Problem of Actu-Re-ality 入不二基義 著

https://www.chikumashobo.co.jp/special/actu_realit...


【2021年2月23日記】

◎ 2021年2月19日(金) 「高校生と」
今日は高校生とこんなやり取りがあった。

【2021年2月19日記】

◎ 2021年2月18日(木) 「学生の受賞」
私のゼミの学生が、俳句で賞を受賞しました。
青山学院大学のHP(ホーム NEWS(青学の「今」)(ホーム/在学生の皆様へ)で写真入りで告知されています。

https://www.aoyama.ac.jp/post02/2020/news_20210218...



【2021年2月18日記】

◎ 2021年2月17日(水) 「花束みたいな恋をした」
土井裕泰監督・坂元裕二脚本『花束みたいな恋をした』を観てきた。
若い頃(一緒に住み始めた19歳の頃)の自分と妻のことを重ねてしまって、静かに涙しながら観ていました。

【2021年2月7日記】

◎ 2021年2月6日(土)「構成考案中」
執筆中の『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』(ぷねうま舎)の構成は3部構成で、

・はじめに
・第I部 考察
・第II部 体験(2010年〜2020年の記録)
・第III部 語り

その下の階層(仮)は、画像のようになっています。


少し進む(白い四角囲いの部分)。


第局瑤任肋楮戮10年間を書くので、全体としてものすごい分厚い本になるか、上下2巻本になるか・・・・・・というくらい大部になります。とにかく最後まで書き切ってみないと、どのくらい大部になるか分からない、というのが正直なところです。画像がかなり入るのも、大部になる原因の一つです。

第局瑤蓮崙記文学」的な様相を呈してきた。

【2021年2月6日記】

〇 2021年2月4日(木) 「10年前のスパーリング動画」
『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』(ぷねうま舎)を書いていて、レスリングを始めた頃のスパーリング動画を見直している(URLとQRコードで引用することになる動画)。
あれから10年で、こんな状況(コロナ禍)になるとは・・・・・・

練習・試合画像もたくさん入る本になります。

【2021年2月4日記】

◎ 2021年1月31日(日) 「宇波彰氏」
先日訃報に接した宇波彰氏には、2015年10月26日公明新聞に、拙著『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社)の書評を書いて頂いて、(あの宇波さんが評者だ!と)びっくりしたことがあった。

【2021年1月31日記】


◎ 2021年1月30日(土) 「共通テストのウィトゲンシュタイン」
ウィトゲンシュタイン哲学の前期と後期の違いは、今や共通テスト(センター試験)水準でも知っておくべき事柄になっているのか。


とはいえ、部分的な正誤の「組み合わせ」でできているので、対応関係や整合性を頼りに、「国語的に」解答を導ける気がします。
しかし、いちおう「倫理」の試験だから、ウィトゲンシュタインの前期と後期の違いを正確に知っておきなさいというメッセージを発していることになりますね。
さらに、正解の選択肢1にしても、「最も適当なもの」という比較基準だからいいわけですが、「沈黙」の根拠を「真偽を問うことができない」ことにしているのは、論理実証主義的な解釈が強すぎるいくぶん不正確な解釈とも言えます。

以下は妄想です。
問題作成者は、この問題を考えついたときに「ドヤ顔」だったのでは?「前期と後期と写像理論と言語ゲームを2×2=4で4択にしてやれば、いい問題になるぞ!」という感じと言いましょうか。しかも「その要素組み合わせ的な作りは、まさに『論考』的ではないか!オレって問題作りうまいよね」と。
【2021年1月31日記】

◎ 2021年1月30日(土) 「薬袋善郎さん」

ツイッターで薬袋善郎さんと再会できたのは、最近の収穫の一つ。本日、「FoR サポートクラブ 」へ招待して頂いた。今のところ「会員番号 No.1」状態だ!いずれコロナ禍が落ち着いたら、会って「駿台昔話」をする機会もあるかもしれない。

https://twitter.com/FoR53514322


【2021年1月30日記】

2021年1月29日(金) 「思考と身体」

清水将吾さんが良い点を指摘してくれています。
青山拓央さんは、私の文章に「体力」「持久力」を読み取ってくれていましたし、『相対主義の極北』の文庫本版の解説で、野矢茂樹さんは、思考の「身体能力」という表現をしていました。皆さん、似た点に着目してくれているのでしょう。



『相対主義の極北』・野矢さんの解説のこの部分です。


【2021年1月29日記】

◎ 2021年1月29日(金)「執筆再開」
『51歳でレスリングを始めた哲学者が10年間で考えたこと』(ぷねうま舎)の執筆を再開している。
『現実性の問題』(筑摩書房)とは対極的な本にしたいので、この画像をカバーに使ってもらいたいと考えている。


【2021年1月29日記】

2021年1月27日(水) 「『哲学の誤読』の書評」

読ませていただきました。よい書評だと思ったので共有させてもらいます。

哲学書読解ゲームと入試問題解答ゲーム 〜入不二基義『哲学の誤読』(筑摩書房,2007年)を読みました〜 - researchmap https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/854...


【2021年1月27日記】

2021年1月19日(火) 「授業の板書」
今年度最後の授業。拙著『現実性の問題』をテキストにした講義では、「円環モデルと様相」のまとめと補足をやって、後半は本には書いていなかった「潜在性固有の様相(力)」という話。以下は前半で使った「板書」の図の一部。拙著を読むのにも役立つと思います。



板書ミス: 二枚目画像真ん中黒板「偶数に」→「偶然に」

【2021年1月19日記】

◎ 2021年1月18日(月) 「伊藤和夫と哲学/佐山サトルのアナロジー」


佐山サトルのアナロジー






【2021年1月18日記】

2021年1月17日(日) 「薬袋善郎さん・古賀秀男先生・若手三人」

懐かしい薬袋善郎さんのツイートを見つけたので、引用リツイートした。


さらにこういう反応も。



伊藤和夫先生のような組織運営ができる有能なボスにバックアップしてもらえるという幸運は、山口大学に就職してからもあった。たとえば、山口大学教養部の最後の教養部長・古賀秀男先生がそうだった。
古賀秀男先生の年譜・著作目録。 http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/...
就職して間もないにもかかわらず、私がスタンフォード大学へ留学することを(周囲の不満の声を抑えて)支持してくれたのは、教養部長の古賀先生だった。それ以外にも色々「守って」もらった。
お二人の間の中途半端なのがわたくしか・・・。(KAITAN)

先ほどのパターンでは「逆」の薬袋さんと私には共通点もあって、共に「我が儘な」若手だった。それと比べると、KAITANは「柔軟で柔和な」若手だったと思う。
三人とも群を抜いた「結果(成績)」を出していた若手だったので、周囲(特に上の世代)からは嫉妬を含め色々な「攻撃」があった。しかし三人とも(スタイルは違えど)全くものともしなかった。

【2021年1月17日記】


◎ 2021年1月10日(日)「「実は」と「現に」」

山形県・善寶寺の篠崎英治さんとツイートでやり取りをしたときに、以下のようなことを伝えました。ご参考までに。

「実は」と「現に」の対照を強調した私の話は、年末にやったオンライン講演(https://youtu.be/vJHxkC4YT4I)でも聴けます。二者関係と一者遍在の対照になります。また、拙著の方での「実際性」は、「実は」と「現に」の合成だと言うことができます。

「現実」という名詞表現だと、その(現実の)中身(内包)を引き連れてきて「閉じた」世界のように誤解させがちです(現実世界という表現も同様)。だからこそ、「現に」という副詞表現にadvantageがあるわけです。その副詞的な働きを名詞化したのが「現実性」という言い方だと考えることもできます。

さらに、「現に」と「実は」という副詞的〈対〉を使って、現実性と実在性の「一者遍在性」と「二者関係性」を対照できる点もまた、副詞表現で考えてみることのadvantageです。

【2021年1月10日記】

2021年1月10日(日) 「定年後」

或るファンの方々とやっているSNSで、「青学大の定年後(6年後)は、「私塾」「オンラインサロン」のような有料の形式で、講義や演習(読書会)を週に一つ二つ続ける予定があります」と話したら、「入不二先生、そんな楽しい計画があるのなら、6年も待たずに、早めて頂いてもいいのでは!と思うのですが、大学との兼ね合いで難しいのでしょうか」と言われた (*^_^*)

頭の体操を続けるくらいの気持ちで、趣味的に講義や演習を継続しようと思っている程度です。とはいえ、今年度のオンライン授業を成功させたことによって、これまでやってきた授業の水準を落とすことなく、比較的簡単に講義や演習が続けられることが分かりました。

大学をやっている間は、授業がたくさんあるので、それ以上やる気にはならないですね (-_-)

【2020年1月10日記】


◎ 2021年1月2日(土) 「余韻」
・ 明けましておめでとうございます。
・ 昨年8月に上梓した『現実性の問題』(筑摩書房)の余韻は、年をまたいでまだまだ続いています。
・ この本を書いたことが私に及ぼした波紋から、まだしばらくは離れることができそうにありません。
・ その余韻の一端は、年末にやったオンライン講演や『現代思想』誌上での鼎談を視聴・一読していただくと、感じられるだろうと思います。

参照1.
オンライン講演:

2020年12月23日(水)18:00〜20:30 中央大学人文科学研究所・「リアリティの哲学」グループ主催、入不二基義「現実と実在と潜在と」

講 師: 入不二 基義 氏 (青山学院大学教授)
テーマ: 「現実と実在と潜在と」
要 旨:
拙著『現実性の問題』のタイトル英訳は、"The Problem of Actu-Re-ality"である。現実性と実在性のずれと重なりを考えるために、造語”Actu-Re-ality"を利用した。また拙著は、現実性と潜在性を、アリストテレスのエネルゲイアとデュナミスのような関係では考えない。現実性と潜在性は、動的に捩れた裏表関係にあると同時に、形而上と自然の間のギャップとしての無関係性を保つ。これら三つの鍵概念「現実」「実在」「潜在」について、総合的・俯瞰的な観点から振り返ってみたい。

参照2.
『現代思想』2021年1月号・特集:現代思想の総展望2021
討議II「哲学徒は何か、そして現実性とは」入不二基義+上野修+近藤和敬





【2021年1月2日記】


2020年の身辺雑記(メモ)

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著書


(別丁扉)
2020『現実性の問題』(筑摩書房)


表紙(正面+背)
2020『現実性の問題』(筑摩書房)


(カバー 平面)
2020『現実性の問題』(筑摩書房)



(カバー 立体)
2020『現実性の問題』(筑摩書房)


2019『運命論を哲学する』(森岡正博との共著、明石書店)


2017『香山リカと哲学者たち 明るい哲学の練習 最後に支えてくれるものへ』(ぷねうま舎)


2017 『現代哲学ラボ 第4号: 永井均の無内包の現実性とは?[Kindle版](哲楽編集部・編)


2016 『現代哲学ラボ 第1号: 入不二基義のあるようにありなるようになるとは? 』[Kindle版](哲楽編集部・編)


(カバー+オビ 立体)
2015『あるようにあり、なるようになる ─運命論の運命』(講談社)

(カバー 立体)
2015『あるようにあり、なるようになる ─運命論の運命』(講談社)


(カバー+オビ 平面)
2015『あるようにあり、なるようになる ─運命論の運命』(講談社)

(カバー 平面)
2015『あるようにあり、なるようになる ─運命論の運命』(講談社)

(表紙 平面)
2015『あるようにあり、なるようになる ─運命論の運命』(講談社)


2013『子どもの難問』(野矢茂樹編著、中央公論新社)<私の執筆は二編>


2013『英語で読む哲学』(編著、研究社)


2012『哲学の挑戦』西日本哲学会・編、春風社)


2011『Q〜わたしの思考探究〜 (共著、NHK出版)


2010『<私>の哲学を哲学する』(共著、講談社)


(カバー 帯なし)
2009 『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想 』(朝日出版社)

↑(帯をとると上のようになります)


(カバー+帯)
2009 『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想 』(朝日出版社)



2009 ちくま学芸文庫版『相対主義の極北』(筑摩書房)



2007 『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(ちくま新書)



2007 『時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか』(勁草書房)



2006 『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版, シリーズ・哲学のエッセンス )






2002 『時間は実在するか』(講談社現代新書)




2001  『相対主義の極北』(春秋社)



1993  『<思考する>英文読解』(駿台文庫・絶版)

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