入不二基義 - 雑文

「2012年12月1日(土)青山学院大学レスリング部納会でのスピーチ」(後日思い出して文書化)


 私は青学に赴任して9年目で、その前に10年間山口大学にいました。もともと神奈川・東京の人間なので、山口にいた最後の頃は東京に戻りたくなって、その時にちょうど見つけた青学の教員募集に応募して、戻ってきたわけです。
なるべく都会にある大学ならば、別に青山学院でなくてもよかったわけです。とにかく東京に戻りたかった、というだけなのですから。研究者という仕事は、会社員よりは少し職人的なところ或いは個人商店的なところがあって、
自分の腕さえあれば、「包丁一本さらしに巻いて」的なところがあります。私ならば、(レスリングとは違って(^^))哲学に関してはそこそこ腕に自信があるので、青学でなくとも、哲学さえできればどこでもやっていけるという部分があります。
しかし、この2年ほど、レスリング部の練習に参加させてもらうようになってから、気持ちに変化が出てきました。青学への「愛」のようなものが芽生えてきたのです。
冷静に考えてみれば、私のような年をとった「ど素人」を練習に定期的に参加させてくれる大学レスリング部なんて、そうはないでしょう。太田監督が、寛大であり大きな視野でレスリング活動を考えている方だから、可能だったのであり、
みなさん学生たちだって、変なおっさんが参加してきて練習の邪魔だと思って当然だし、最初は異物感もあったはずなのに、私を受け入れてくれています。私が青学ではなくて別の大学で働いていたら、たとえレスリングを始めていたとしても、レスリング部の練習に参加するという状況はなかったでしょう。もう私の50代以降の人生の中で、青学レスリング部は欠くことのできないものになってしまいました。
そして、ある納得が訪れます。「ああ、このためにこそ青学だったのだ」と。偶然だったことに対して、後から必然性が与えられて、その意味が腑に落ちるという経験は、「運命」ということの一つのあり方でしょう。芽生えているのは、この運命に対する愛のようなものだと思います。

「心理学科同窓会会報の原稿」

・2012年度:お題「先生の宝物って何ですか?」。規定字数は150字以内。

「先生の宝物って何ですか?」
幼稚園の頃の「あの秘密」は記憶の宝物。もちろん「秘密」だから、ここで明らかにするわけにはいかない。しかし、少しだけ。それは、好奇心に駆られての秘部の相互呈示、あることとないことの差が生む生理的湧出の差異の相互観察、凝視と接触の後ろめたさと快感。その秘密の時間は、人生最初期の禁忌侵犯の快だった。(147字)

・2011年度:お題「思い出の一冊」。規定字数は150字以内。

「思い出の一冊」
水木しげる作『千年王国』を読んだ小学校高学年の頃、自分こそ悪魔くんだと思いこんで、私は友達の中から「十二使徒」を選び、魔法陣を研究し、悪魔を呼び出そうとした。それを伝えるために、水木しげるさん宅に電話をしたところ、ご本人が出た。変な小学生だと思っただろうが、「頑張ってください」と言ってくれた。 (147字)

・2010年度:お題「人生について」。規定字数は150字以内。

「人生について」
人生には、それを「下」へ超えるものと「上」へ超えるものが、必要である。「下」とは「動物的な生」たとえば「内なる哺乳類性」であり、「上」とは「天使的な生」たとえば「内なる超・人間性」である。私の場合は、レスリングの実践が前者を、哲学的な思考が後者を提供してくれる。両者の間に挟まれて「人の生」がある。(149字)

「2012年5月3日(木) 中国語でのスピーチ」

【中国・瀋陽での、長男・経勝と晶晶さんとの結婚式において、新郎の父として挨拶】

相  互  凝  视  的 是 恋 人,
而 一 起 凝 视 远 方 的 是 夫 妻。 
恋 爱 是 尽 力 营 造 封 闭 的、浓 厚 的 二 人 空 间,
结 婚 是 以 两 个 人 为 起 点 去 创 造 新 的 时 间。
经 胜 和 晶 晶 的 婚 姻 让 中 国 的 家 庭 和 日 本 的 家 庭 超 越 国 界 相 遇, 使 我 们 能 成 为 一 个 大 家 庭 而 提 供 了 契 机。 
没 有 交 点, 各 自 流 淌 的 时 间, 在 这 里 融 合 而, 产 生 了 新 的 流 向。
这 新 时 间 的 流 向 将 创 造 出 怎 样 的 未 来, 我 对 此 很 是 期 待。  
最 后 让 我 们 一 起 凝 视 远 方 的 未 来, 来 祝 福 这 对 新 人 吧! 
经 胜, 晶 晶 恭 喜 你 们! 

(「お互いを見つめ合う」のは、恋人どうしです。
それに対して、「遠くの方をいっしょに見つめる」のが、夫婦です。
 恋愛は、二人だけの閉じた濃密な空間を作りますが、
結婚は、二人から始まる、開かれた新しい時間を作ります。
経勝と晶晶さんの結婚は、みなさんの家族と私たちの家族が、国を越えて出会い、一つの家族になることを可能にしました。
 別々に流れていた時間が、ここで合流して新しい流れが生まれたのです。
この新しい時間の流れが、これからどんな未来を創っていくのか、私はとても楽しみです。
みんなでいっしょに、その遠くの未来を見つめながら、二人を応援しようではありませんか!
経勝、晶晶さん、結婚おめでとう!)

「新しいものは古いもの」

【2012年2月4日(土) 心理学科の同窓会でスピーチをさせられたので、小・中学校でいっしょだったK君の話をした(地元の公立の小・中なので、ほとんどみんな9年間いっしょに過ごす)。その内容をあとでメモしたもの。】

・ K君は、小学校では目立たないおとなしい子だったのだが、中学校に進んでから「開眼」してリーダー的な存在になっていく。そのきっかけは「英語」。
・ 中一の英語の授業で、みんなが順番に立って教科書を音読させられていく場面で、K君の音読だけが際立って流ちょうで美しく、みんながうっとりするほどだった。
・ 他の科目と違って、英語だけは中学で初めて学ぶ科目であるし、みんなの注目度も高い。そこでうまくスタートできると、その後の中学校生活は一変する。
・ K君は英語ができる人として認知され高評価を獲得し、生徒会などでは名議長として活躍することになる。
・ もしかしたら、彼の小学校から中学校への「変身」は意図的・計画的だったのでは?と思われるほどに、それはみごとな「成長」だった。
・ 「英語」が、彼のアイデンティティ形成の中核にあることは間違いない。その後、大学ではESSでも活躍し、メガバンクの国際部門において(まさに「英語」を使って)世界を股にかけて活躍する。
・ しかし銀行の実質定年は早い。国際的に活躍したK君ももう一線からは退いていて、今年の年賀状では、「NHKのど自慢」に新たに挑戦ということが記してあった。
・ おそらく、大人になってからのK君しかしらない人は、「えっ?」「なぜNHKのど自慢?」と思うかもしれないが、私はそうではなかった。なるほど!と思った。
・ 彼のアイデンティティ形成の中核に「英語」があることは間違いないが、それを支える更なるアイデンティティの古層は「声(のよさ)」なのだと、思い至った。
・ K君の音読の素晴らしさを可能にしていたのは、(英語そのもの以上に)その「声」であり、彼が生徒会の議長として活躍していた頃のことを思い出すと、その透きとおって遠くまで伝わっていく「声」の記憶が蘇る。
・ もう一線で「英語」を使わなくなったK君が、「声」に関わるところで新たな挑戦をすることは、私にはものすごく納得がいった。
・ 50代になって新しいことを始める奴が私の回りには多いのだが(私も例外ではない)、その「新しいこと」は、実は「古いこと」の蘇り・復活のような気がしてならない(私のレスリングも同様)。

「大人になって振り返ってみた中学三年生」


 【付記: 2000年1月、山口市立白石中学校で(当時長男が中三に在籍)、「大人になって振り返ってみた中学三年生」という文章の作成が、父母に対して求められた。卒業を目前に控えた中学三年生に対して、配布された。以下は、その時に書いた文章である。】

3年 1 組 氏名 某父

 中学二年から三年にかけて、私は生徒会の役員をやっていた。白石中で言えば、「執行部」にあたるだろう。その生徒会役員と、各クラスの学級委員が集まって、謝恩会の準備を進めていた。卒業式の後に、先生方や親たちを招待して、色々な催し物を披露するのが、私の通った中学の慣例だった。
 私は、謝恩会の司会を、自分がやると申し出た。下心があった。もう一人の司会者(アシスタント)を、好きだった「彼女」にやってもらって、いっしょに準備の仕事をすることで、二人になれる時間を作ろうと思ったのだ。「彼女」は、別のクラスの学級委員だった。私は、強引なまでに「彼女」を推薦して、二人は司会者をやることになった。
 私は、中学卒業と同時に、離れた別の学区へと引っ越すことに決まっていたので、最後のチャンスだと思った。ずっと好きだったこと、離れてしまうけれど、高校へ行っても手紙の交換をしたいということを伝えた。そして、引越し先の住所を紙に書いて手渡した。「彼女」は戸惑っているようだった。
 謝恩会が無事に終わった後、「彼女」は、住所を書いた紙を返しに来た。「やっぱり、これは受け取れない。」と彼女は言った。「とてもあっけない終わりだな。」と思ったのを覚えている。

 彼女が手紙をくれたのは、それから一年近くたった高校一年の正月のことだった。一枚の、しかし、びっしりと書かれた年賀状だった。もちろんそれから、二人には色々なことがあった。
 「彼女」は、いまは私の奥さんで、そして中学を卒業しようとしている「君」がいる。ちょっと不思議な気分だ。私の中学卒業時の、あの「下心」がなかったら、いま「君」はこの世に存在していないかもしれない。
あれは、あっけない「終わり」なんかでなくて、「始まり」だったのだなと、いまでは思える。「君」の人生も、これから始まる。


【mixi日記・コメントのやり取りの中で書いた「裏話」みたいなものを追記】

 住所を書いた紙を返しに来て、「やっぱり、これは受け取れない。」と彼女(妻)が言いに来たとき、実は、もう一人の女の子といっしょでした。

 そのもう一人の女の子というのは、私がその何ヶ月か前までつきあっていた(中二から中三にかけて一年以上つきあっていた)女性でした。その子は、断りに来た彼女(妻)の横にいっしょにいて、私を睨みつけていたのを、よく覚えています。

 そのつきあっていた女の子は、受験が近くなってきた時に、私に向かって、「結局、私とあなたは、これから住む世界が違っていく人間なんだから」と言いました。当時東大に70名くらい合格していた学区外の高校(湘南高校)へ行く予定だった私と、普通高校には(もちろん大学にも)行かない自分を、そんな風に比べていたことに気づかされて、虚をつかれたのをよく覚えています。その子の方が、「諦め」を知っている「大人」だったということですね。


「保護者代表挨拶」


【付記:2000年3月 山口市立白石中学校の卒業式で、保護者代表挨拶のための元原稿(当日は原稿なしで)】

 今日、子供たちは、新しい旅立ちの日を迎えることができました。これまでの三年間のことを思い浮かべながら、保護者を代表しまして、お世話になりました先生方にお礼のことばを述べさせていただきます。

  
 三年前の入学式は、前の旧い体育館で行なわれました。まだ、制服が大きめで、初々しいけれど頼りなさそうな子供たちの姿は、後ろに座っている体の大きな三年生たちの陰に隠れていて、直接見ることができず、私はモニターを通して入学式を見ていたのを思い出します。

 中学一年生の家庭訪問のときに、私は、担任の先生に「小さな政府」ならぬ「小さな学校」という要望を述べたことを覚えています。
 
 私たち親は、多くのことを学校に押し付け、そのために先生方は多くの仕事を抱え込み、その結果、子供の生活の全般が学校化された空間になっていく・・・。そのような学校への過度の囲い込みを避けるために、学校の機能を最小限にすべきである・・・そのような考えでした。
 
 いま振り返ってみますと、子供を初めて中学に入れる親として、私は少々気負いすぎていたかもしれません。
 
 実際の白石中学校は、「大き」すぎることも、また「小さ」すぎることもなく、ちょうどいい「中くらいの」学校であったと、いまでは思っています。
 
 新聞やテレビなどのメディアを通して伝わってくる、昨今の中学校の姿は、このような「ちょうどよい」「ほどよい」という、あたりまえの中学校生活を送れることが、いかに難しいものであるかを教えてくれます。

 ですから、この「ちょうどよい」「ほどよい」「中くらい」という状態が、この白石中学で実現できていたことは、ほとんど「幸運」といってもいいくらいです。
 白石中学は、数ある中学の中でも、貴重な「オアシス」なのかもしれないと思います。
 
 このような「幸運」は、先生方お一人お一人のご尽力と、また先生方のチームワークがもたらしてくれたものです。先生方に敬意を表し、深く感謝したいと思います。
 
 
 
 中学校までは、たまたま自分が住んでいる地区の学校に通うのであって、得意なことも将来の希望も異なる、さまざまな友達と一緒に過ごします。いわば「偶然に」ここにいっしょに居合わせたのです。

 しかしこれからは、彼らは、次第に自分で選んで引き受けていく、つまり自分で「必然性を作っていく」人生へと入っていくことになります。

 ここに住んでいたから「たまたま」「偶然に」一緒にいたということが、実はとても貴重なものであったことを、もっともっと後になってから、彼らも思い出すことになるだろうと思います。

 私も、昔の中学校の友達と今でも会う機会があります。そのようなときには、中学時代の、まだ「何者でもなかった」自分にもどって、「たまたまいっしょにあのときを過ごした」ことのかけがえのなさを味わいます。

 きっといつか、子供たちも、そんな再会を味わうために、先生方のところを訪れることもあるだろうと思います。その日まで、遠くから見守ってあげてください。
 
 
 最後になりましたが、先生方のご健康とこれからのご活躍をお祈りしまして、挨拶のことばに代えさせていただきます。