チャングム×ハン尚宮 〜韓尚宮懐慕〜 パンスル(有)様
「鍼を打ちなさい。早く鍼を……」
チャンドクに促され、チャングムは鍼を手にしようとする。目の前には患者が寝ている。
しかし、チャングムの脳裏には、激痛に苦しむチャンドクの叫び声と姿がよみがえる。額からは脂汗がにじみ出る。手の震えが止まらない。
鍼を打たなければ……打たなければ……いや、できない……どうしてもできない……。駄目です、今の私にはできません……。
チャングムは、助けを求めるような顔でチャンドクを見た。
仕方なく、チャンドクが鍼を打った。
済州島に来てから二年が過ぎていた。
チャングムは、鍼の施術に失敗してから、恐怖心のために鍼を打てないでいた。そして、来る日も来る日も、一人で洞窟にこもって修練を続けていた。
チョンホは、やつれていく彼女のことが心配だった。たまらなくなってチャンドクに会いに行き、問い詰めた。
「どうして励ましてやらずに、あんなに厳しく当たるのですか?怖くなって鍼を持てなくなってしまいます」
チャンドクは、冷静に答えた。
「私も経験があるので分かります。チャングムがあの時以来、鍼を持てないのは、私に叱られたからではなく、鍼の打ち方を間違えて私を死なせかけた自分を許せないからです。自らに罰を与える時間が、もっと必要なのです」
「しかし……」
「いつ立ち直るか、それを決めるのは私ではなく、チャングム自身です。それに……」
チャンドクは、少し考えてから言った。
「私はチャングムの医術の師。でも、チャングムの心を導く師は……私ではなく、あの方ですから……」
「やはり、あの方ですか……」
あの方。それは……。
チャングムは一人、薄暗い洞窟の中で、座って考えていた。
先程、自分がチョンホに言った言葉を思い返していた。
―――志があれば、あきらめなければ、何でもできると思っていました。でも、できないこともあると、初めて知りました。それでもやります、必ずやります ―――
さっきはナウリにそう言ったけれど……。でも、本当は、自信をなくしています。いえ、怖いのです。このまま鍼を打てないままになるのではと。そうなると、せっかく見つけた希望が、医女への道が、消えてしまう……。
お母様とハン尚宮様の無念を晴らすという約束が、果たせない……それが何よりも辛い。
予期しなかった障害に阻まれるのならともかく、自分の落ち度で招いた苦難が乗り越えられないなんて!
歯がゆくて、やり切れなくて、たまらない。
この恐怖心、いったい、いつになったら乗り越えられるの?
尚宮様……。やっぱり、志があっても、あきらめなくても、できないことが、この世にはたくさんあるのでしょう?
私は、こんな自分が許せない。医術の道も、王宮に戻る道も、自分のせいで駄目になってしまうなんて……。
だから、尚宮様。私を叱って下さい、もっと私を罰して下さい……。
洞窟の中は静かで、身を切るような寒さが、いっそうそれを際立たせる。
チャングムの頬に、一筋の涙が流れた。
その時、どこからともなく風が吹いてきて……優しくチャングムの髪をなで、涙を拭い去るかのように頬をなでた。その風は、温かい空気となってチャングムを包んだ。
なぜだか少し、自分の体が、束縛されているような気がする。何か、いや、誰かに押さえ込まれているような……。
「……尚宮様?」
姿は見えないけれど……そうなのですか?私は今、尚宮様に抱きしめられているのですか?宮中に戻られたのではなかったのですか?
懐かしくて優しい声が聞こえてきた。
―――チャングム……。苦労しているみたいね。気になって、ここへ来たけど……―――
「尚宮様!まさか……信じられない……。お姿は見えないけれど、また会えるなんて……。でも、私はいつまでも尚宮様に心配ばかりかけてしまう困った子です。お許し下さい」
―――鍼の失敗のことね。お前らしくもないわ。そんな弱音を言うなんて―――
「でも、私のせいなんです。私のせいで、約束が果たせなくなるかもしれないんです……」
―――お前自身が招いてしまった困難なんて、今までに何度もあったわね。お前は、好奇心が強くて、思い込んだら後先考えずにすぐ行動するし、すぐ調子に乗るし……。私は、そんなお前に、何度気を揉んだことか―――
「……そうでしたね。でも、今度は、努力だけではどうにもならないのです。いつ恐怖心を乗り越えられるのか……先が全く見えないのです。不安なのです」 ―――先が見えない不安……味覚を失った時のことを忘れたの?―――
「……!」
そうでした、尚宮様。あの時私は、後先のことを考えずに、朝鮮人参とニクズクの食べ合わせを自分の体で実験して、味覚を失ってしまったんでしたね。
本当に、あの時は、自分で苦難を招いてしまったとしか……。
料理人としての道が断たれる、母の望みが叶えられなくなる……私はやり切れなくなって、やけを起こしました。
でも、尚宮様は、私をお見捨てになりませんでした。私の、味を描く能力を、目覚めさせて下さいましたね。私に、絶対にあきらめない、ということを教えてくださいましたね。
それともう一つ、あの夜のことも思い出しましたよ……。
チャングムは、水刺間時代へ思いを馳せた―――――――――――――――
チャングムが味覚を失ってからしばらくして、宮中の味噌の味が落ちている、という騒ぎが持ち上がった。その原因追究が、ハン尚宮とチェ尚宮の最初の対決課題となった。いわゆる「みそ騒動」である。
ハン尚宮とチャングムは、外出許可を得て、王宮の外で調査を始めた。
しかし、なかなか原因を突き止めることはできず、そうこうしているうちに、日が暮れてしまった。
仕方なく二人は、ある村で宿に泊まることにした。
次の日の出発時間が早いので、二人は早めに床についた。
チャングムはハン尚宮と、枕を並べて寝ていたが、いろいろ考えてしまって、なかなか寝付けないでいた。
(尚宮様は、私の才能を信じて下さっているけど……。でも、もしこのままずっと味覚が戻らなかったら……)
チャングムは顔を上に向けたまま言った。
「ねぇ、尚宮様。もし、私の味覚が戻らなかったら、どうされるつもりですか……?味を描けるといっても、味覚を失った人間が水刺間にいるということが、もし他の人たちに知られれば、尚宮様の立場が危なくなるのではありませんか?」
「お前はそんなことを気にしなくていい」
「でも尚宮様……私のために……」
「……お前のためだけではないわ。私自身のためでもあるの」
「え……?」
チャングムは、大きく目を見開いてハン尚宮の方を見た。
「確かにお前は、天賦の料理の才能を持っている。だけど、それだけではない。私はお前の師で、お前を導く立場であるけれども……。
最近思うの。私がお前に導かれているのでは?と」
「尚宮様、何をおっしゃるのですか?私が導くだなんてとんでもない!」
「いいえ……。お前の前向きでひたむきな生き方が、どれほど私を勇気づけてくれたことか。過去にこだわり、今を生きようとしない、臆病な私を、お前が一歩前に踏み出させてくれた」
「………」
「競合に勝つため、志を果たすためだけに、お前が必要なのではないわ。
私自身に、お前が必要なの。お前に側にいて欲しいの……」
チャングムを見つめるハン尚宮の目は、真剣そのものだった。
チャングムは、胸が熱くなった。尚宮様は、そこまで私のことを思って下さっているのかと。
寝返りをうって、体ごとハン尚宮の方を向いて話しかける。
「尚宮様。『お前が必要なの』って言って下さったこと、とてもうれしいです。私も尚宮様が必要です。私、これからも尚宮様を振り回してばかりかもしれないけど、ずっと側にいさせて下さいね。ね?」
「フフ……この子は……」
沈黙が流れる。
再びチャングムは、寝床の中であれこれ思い巡らしていた。
尚宮様と同じ部屋で寝るのは久しぶりだ。なんだか嬉しい。女官になってから、同じ部屋で寝ることは、今日みたいに外出でもしない限り、まず、ない。
尚宮様のこと、部屋子の時は、ちょっと近寄り難く思えた時もあったけれど、でも、今日はとても親しみを感じる。
「呪いの札事件」の時は、尚宮様はおんぶをして下さった。私はあの時、体が弱り切っていたけど、尚宮様の温もりが背中から伝わってきて……。また、あの温もりを感じたい。
今日を逃したら、今度はいつになるか分からない。でも怒られやしないだろうか……?
意を決して、遠慮がちにハン尚宮に話しかけてみる。
「あの、尚宮様」
「何?」
「あの、その……もっとそちらへ寄ってもよろしいですか?」
「……お前はいったい、いくつになったの?」
あきれたように言われてしまった。でも、あきらめない。
「部屋子の時は、そんなことしたことがありませんでした。でも、なんだか今日は、そうしたいのです。いえ、そうさせて下さい。ね?」
チャングムの、甘えるような声とキラキラ輝く瞳に、ハン尚宮は負けた。
「……好きにしなさい」 「えっ!よろしいのですか?エヘヘヘ」
チャングムは、喜び勇んでハン尚宮の方へ寄った。寄り添うように、体をくっつけるようにした。
「ちょ、ちょっと!何でそんなにくっついてくるの!」
尚宮様は何を焦っているのですか?
「……いけませんか?」
すがるような上目使いでハン尚宮を見る。
「……いけないとは言っていないけど……」
すごく曖昧な言い方ですね。
本当は、尚宮様に抱きつきたいのだけれども、まさか、そこまでするわけにはいかない……。とか思いつつも尚宮様の温もりを楽しむ。
何だか尚宮様は、母と同じ香りがする。とても落ち着く。
「ねぇ。尚宮様。こうしていると、母と一緒に寝ていた頃を思い出します」
「そう……」
幼い頃は、父と母の三人で寝ていたけど、私はよく母の布団にもぐり込んでいたっけ。そうして私はよく、母の胸を触っていた。小さい頃は触りたくなるものだから……母は怒らなかったけど。
ふと、隣のハン尚宮の姿がチャングムの視界に入る。私は尚宮様のことを母のようにお慕いしているけど……でも、尚宮様は、私のことを娘とまで思って下さっているのだろうか?
ま、まさか、尚宮様にも、母と同じことをするわけにはいくまい。
だって、私はあの頃とは違って、もう子供ではないんだし。それに、そんなことをしたら、怒られるに決まっている。
でも……。ハン尚宮の寝顔を見てみる。
尚宮様は、もう寝ているみたい……。でも、どうしよう。気がつくかもしれないし。どうする?
今日は、私は尚宮様を独り占めできる。この次はいつになるか分からないんだし……。
ええい!気付かれても構わない。今日は特別な日なんだから!
手を延ばし、寝間着の上から、そっと尚宮様の胸に触れてみる。
……尚宮様は気がつかない。それじゃ……。
そっと手の平で、膨らみ全体を包み込むようにしてみる。柔らかい。でも、思ったより小さかった。やっぱり、子供を産んでいなければ、このようなものなのか。それに、尚宮様は細身だし……などと考えていたら、思わず、手に力が入って、胸を強く押してしまった。
うわ……!!ど、どうしよう!と、思った瞬間、チャングムの手は、ハン尚宮に、ぎゅっと掴まれていた。
尚宮様の目が怖い!チャングムは慌てて顔を背けた。
「いったい何なの?」
「いえ……あの、その、これも子供の頃の思い出でして……」
「お前はすぐ調子に乗って!明日は早いんだから、早く寝なさい!」
「はい……」
チャングムの手は、ハン尚宮に払いのけられてしまった。
分かってはいたけれど……。悲鳴を上げて下されば、「尚宮様かわいいです」とか言えたのに。冷静に不機嫌に言われたのでは、どうしようもない……。
再び沈黙が流れる。
尚宮様、怒ってる?顔をこっそり見るが、ただ寝ているのか怒っているのか分からない。
あぁ……尚宮様に抱きしめてもらいたいのに……。
この状況では「ね?」って、おねだりしても駄目だろう。ていうか言えない。ただでさえ叶わぬ想いが、ますます叶わなくなってしまった。
それならせめて……。
チャングムは、ハン尚宮の片方の手を探り当て、そっと握った。
……良かった。今度は何もおっしゃらない。
尚宮様の手は、長年、調味料や水にさらされて、少し潤いはなかったが、温かい。
尚宮様の手から伝わってくる温かさ。わずかに接している尚宮様の体から伝わってくる温かさ。尚宮様の、ぬくもりに包まれて――― 安らぎと心地良さを感じながら、チャングムは眠りに落ちていった。
チャングムは、夢と現実の境を、うつらうつらとさまよっていたので、気がつかなかったのだが……。
実はハン尚宮は、もう片方の手でチャングムの手を、優しく撫でていたのであった。
ハン尚宮は、今日までのことを思い返していた。
―――ミョンイを失ってから、私は……誰かと心を分かち合いたいとか、誰かを守りたいなどと思ったことはなかった。失うものがない方が強くなれると思っていたし、もう誰かを失う痛みを味わいたくないと思っていた。
ところがどうだ。チャングムと出会ってからの自分は。自分でも驚くくらい、この子のために、心を傾けているではないか。
最近の出来事だけでも、「錦鶏事件」、「呪いの札事件」、そして、今回の味覚消失。どれも、自分は不利益を被るばかりだ。
でも、それでもいい、と思える自分がここにいる。 苦難を乗り越えるたびに、この子との絆が強くなっていくような気がする。そして、私も変わっていく。
この子を守りたいという気持ちが、私を強い人間に変えていく。
いや……守られているのは、私の方かもしれないわね。この子と出会わなかったら、支え合ったり心を分かち合う喜びなんて二度と味わえなかったかもしれない。
私は、お前に救われているのかもしれないわね……。―――
チャングムの寝顔は、幼子のようだ。可愛いというか、愛しいというか……。それを見ていたら、目が熱くなってきた。
ハン尚宮は、チャングムの手を優しく撫でながら、目を潤ませて、しばらく見ていた。
その後。
チャングムの味覚消失は、ウンベクの、蜂の針という画期的な、しかし危険な治療により、ほどなくして完治した。
それまでは、全く見通しが立たなかったのに、思いもよらぬ方法で、道が開けたのであった。
――――ひと通り、味覚消失の時のことを思い出したチャングムは、懐かしい思い出に微笑んだ。
再びハン尚宮に話しかける。
「あの頃は苦しいことも多かったけれど……今から思えば、尚宮様が側にいて下さって、幸せな時だったのかもしれませんね……。
ねぇ尚宮様。味噌の調査の時、宿に泊まったでしょう?あの時私は、尚宮様と久しぶりに一緒に寝られるのが嬉しくて……。本当は、抱きしめてもらいたかったんですよ。でも、尚宮様は、迷惑そうでしたから……」
―――そんなことはないわ。ただ、あの時は、私の心にまだ余裕がなかったから……。でも、私が最高尚宮になった頃からは、何度も抱きしめてあげたでしょう?―――
「………足りません。もっともっと、抱きしめてもらいたかったです」
―――「…………」―――
「今はもう、私は尚宮様に、触れることさえできないのです」
チャングムは、側にいるはずのハン尚宮に触れようとして手を延ばした。しかし、それは虚しく空を切るだけだった。嘆くように溜め息をついた。
チャングムは静かに話を続けた。
「私は……八つの時、父と母を失いました。私は幼すぎて、父と母に何かをしてあげたという記憶が、あまりありません。
私は、宮中に上がり、尚宮様と出会いました。
私は、尚宮様を振り回してばかりだったけど……でも、母にしてあげられなかったことを、たくさんして差し上げたいと思っていました。
女官は王の女。普通の女としての幸せを手に入れることはできません。
でも、それでもいいと思いました。尚宮様の側にいられたから、幸せでした。
私にとって尚宮様は、師匠であり、母であり、いいえ、それ以上の存在でした。この世で一番好きな人でした。
尚宮様は、私の全てでした。
でも、今はもう、尚宮様は、この世にはおられず……。抱きしめてもらうことも、髪を撫でてもらうことも、手を握ることも……叶いません。
済州島にきてから、ただひたすら、王宮に戻ること、医術を修得することだけを考えてきましたが……。壁に当たったこの頃は、尚宮様がおられない寂しさに襲われるばかりです……」
ハン尚宮は黙っていた。
しばらく沈黙が続いた後、チャングムは、自分を押さえつけている力が強まったのを感じた。自分の体の周りを、温かい空気が、包み込むように、撫でるように、流れるのを感じた。
尚宮様は、私を強く抱きしめて私を撫でて下さっているんですか……?
チャングムは、ハン尚宮に身を委ねた。そして目を閉じた。
脳裏には、ハン尚宮に抱きしめられている時の記憶が、鮮烈によみがえってくる。
母に似た尚宮様の香り。豊かではないが、柔らかな胸。ぬくもり。自分をしっかり抱き寄せる力強い手。
私は、また、尚宮様のぬくもりに包まれている……。私の乾いた心に、尚宮様の優しさが染みてくる。
例え他の誰かに抱かれても、こんなに安らぎを感じることはできないだろう。
できれば、ずっとこうしていたい……。
チャングムは、安らかな眠りに落ちていくかのような錯覚にとらわれていた。
しばらくして、ハン尚宮は、チャングムを抱きしめたまま、話し始めた。
―――チャングム。よくお聞き。私は、今までもそうだったけれど、これからも、お前の側にいるから―――
チャングムは、ゆっくりと目を開けた。
―――私は、お前の師であったけれど、同時に、お前に導かれ、助けられ、守られてもいた。
けれども、この世を去った今、お前に守られる必要はなくなった。
だから……私はただひたすら、お前を導き、守るわ。お前が私のことを忘れない限り、ずっと……―――
優しく穏やかな尚宮様の声。
こらえきれず、チャングムの目から、涙が溢れ出し、とどまることなく流れた。
―――お前はどうしてすぐ泣くの?泣くのはおよし―――
泣きながらチャングムは言った。
「……ね、尚宮様。これからも、ずっと私の側にいて下さるんですよね?」
―――ええ。ずっと側にいるわ―――
「ずっと、ずーっと側にいて下さいね。ね?」
―――ええ。ずっと、ずーっと側にいるわ―――
「………尚宮様。私、ずーっと尚宮様のこと、絶対に忘れませんから!」
―――フフ……でもどうかしら?お前は皆に好かれるからね。別に、私がいなくてもやっていけるんじゃないかしら?―――
「そんなことをおっしゃらないで下さい!」
―――ちょっとからかってみただけよ―――
「もう!尚宮様の意地悪!」
チャングムは少し笑顔になる。
―――チャングム……。今もそうだけど、きっとこれからも、行き詰まって不安に押し潰されそうになる時が、何度もあるでしょう。
だけど、お前は一人ではないから。自分にできることを一生懸命やりなさい。
そうすれば、必ず道は開かれるでしょう―――
「はい。尚宮様。私、もう迷いません。絶対に、医術も復讐も成し遂げてませます」
―――それを聞いて安心したわ―――
風が再び吹いてきた。
辺りは眩しいくらい明るくなり、光の洪水のようだった。
チャングムは、自分の体を押さえ付けていた、温かい力が次第に弱まっていくのを感じた。
「尚宮様!もう行ってしまわれるのですか?」
―――ええ……。でも忘れないで。私はずっとお前の側にいるから……―――
「尚宮様!」
チャングムは急いで立ち上がって、風を追いかけた。しかし追い付かなかった。
風は、穏やかに洞窟を抜け、空の彼方へと吹き抜けていった。
しばらくチャングムは、呆然と空を見つめていたが、やがて、洞窟に戻った。再び静けさと寒さが襲う。
チャングムはふと、薄暗かったはずの洞窟に、光が幾筋も差し込んでいるのに気がついた。
座り込んで、その光に触れ、光を浴びて、チャングムはむせび泣いた。
数日後。
チョンホは、牛島に向かう船を護衛するために、済州島を一時的に離れることになった。
そして、チャンドクも、兵士の治療のために同行することになった。
チャンドクが留守をしても、チャングムは大丈夫だろうか……。チョンホは、そのことが気掛かりだった。
「本当によろしいのですか?ソ内人のことは、心配ではないのですか?」
「何度聞いたら気が済むのですか?時には突き放すくらいがちょうどいいのです。それともナウリは、そんなにチャングムを頼りない子だと思っておられるのですか?」
「いえ!そうではありません。ただ……心配で……」
「それに、あの子は一人ではありません」
「ソ内人は、ハン尚宮様と……本当に強い絆で結ばれているのですね……。私の入り込む余地はなさそうです。私は、苦しむ彼女に何もしてあげられない……」
寂しそうに話すチョンホの顔をしばらく見ていたチャンドクだったが、励ますように言った。
「でもナウリ。ナウリは、ナウリにできることを彼女にしてあげたらよろしいのでは?人はそれぞれに、占める場所というものがあります。ナウリには、ナウリの占めるべき場所があるのではないでしょうか?」
「そうですね……。ソ内人にとって、私の占める場所はどのくらいの大きさなのでしょうか……」
チョンホの言葉を聞きながら、チャンドクは思った。(……まあ、これは、私自身にも言い聞かせているんだけどね!)
そうして、二人は牛島に向かった。
チョンホとチャンドクがいない間、済州島は倭寇の襲撃を受けた。
チャングムは、倭寇の大将を治療した際に、ついに恐怖心を乗り越え、鍼を打つことに成功した。
それはもちろん、トックおじさんや、住民の命がかかっていたからであったが、それだけではない。
チャングムは、ハン尚宮と共にいた。チャングムの心は、ハン尚宮に守られていた。
―――志があれば、あきらめなければ、何でもできる――― チャングムは、そう思った。
倭寇は、戻ってきたチョンホの軍隊により征圧された。
再び、済州島に平穏な日々が戻った。
空は青く晴れ渡り、海は太陽の光で反射して、キラキラと輝いている。そんな景色の中で、チャングムは一人たたずんで海を見ていた。
チャングムは、ささやくようにハン尚宮に語りかける。
「尚宮様……。私、また一歩前へ進むことができました。王宮へ戻る日が、また一日近づきました。
尚宮様が側にいて下されば、私、何でもできる気がします」
海風が、チャングムの髪を優しく撫でるようにして、吹き抜けていった。
[完]
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