南京大虐殺に関する論争の解説と検証

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「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾

板倉の主張

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p126
(2) 第百十四師団は、「十二月十三日午後八時於回家営」として
「一、師団ハ南京城内ノ敵ヲ掃蕩シタル後、十四日城内東南部及ソノ附近に宿営セントス」に始まる作命(作戦命令の略、以下同)六三号を発令している。
a この作命を受けた歩六六−兇任蓮同十三日「午後九時三十分於回花営」(筆者註「回家営」の間違い?)とする矯醋晋淨鷙を発令している。
b 同じく師団作命六三を受けた歩六十六本部は、同十三日「午後十一時於南京南門北方千五百聯隊本部」とする歩六六作命第八七号(註11)を発令している。
c この聯隊作命を歩六六−気論鐺詳報中の七(註12)として、作命番号を記さず、十三日午後零時受領の「聯隊命令の要旨」として記録している。文中の「午後零時」が夜半の零時ではなく正午であることは、その詳報の記述が午前七時、午前十時、本記録、午後二時の順に記されていることで明らかである。ここでbとcを総合すれば、気藁隊作命を十一時間遡って受領したことになる。
板倉の主張によれば、12月13日20時に発令された第114師団の作戦命令「作命第六三号」は、師団から旅団へ、旅団から連隊へ、連隊から大隊へと伝達され、その結果、「聯隊命令の要旨」として歩兵第66連隊第1大隊(歩66−機棒鐺詳報に記されたという経過をたどっているはずである。にも関わらず、歩66−祇鐺詳報では、「聯隊命令の要旨」は、師団命令の発令されるより11時間も前に発令されたと記されている。よって、時系列に矛盾が出ているという。

そして、
  1. この時系列の矛盾が、問題となっている「捕虜殺害命令」の直前にあること
  2. 12月13日の連隊命令「甲第八五号」「甲第八六号」とは、約18時間も間を開けていること
の2点を考え合わせ、板倉は次のように推測をする。
板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p126-127
こうなると機蔽陝第1大隊)が聯隊命令空白の時間帯を作り、旅団あるいは聯隊命令と称して捕虜殺害を行った可能性が必ずしも否定できなくなる
板倉が主張するように、第1大隊は戦闘詳報の内容を操作して、連隊命令の空白の時間帯を作り、その空白の時間帯に捏造した「連隊命令の要旨」を組み込むことで、捕虜殺害が部隊命令によって行ったように見せかけたと言えるのだろうか?


板倉が取り上げている命令を、時系列にならべると以下のようになる。
予め説明しておくが、歩兵第66連隊第2大隊(歩66−供砲蓮当時、第66連隊本部(歩66本部)の指揮から外れ、予備隊として、第114師団(114D)の直接の指揮下にあった。だから、114Dの作戦命令(作命)である「一一四師作命第六三号」を、直接受ける立場にあった。よって、歩66本部より先に、歩66−兇虜鄒鑢仁瓩発令されているが、この点には矛盾はない。

上記4つの命令の中で、114Dが最も上部組織であるので、20:00に発令された 「一一四師作命第六三号」が大元の命令ということになる。先に説明した通り、この師団命令を歩66-兇歪樟楴け 「 矯醋晋淨鷙」を発令し、歩66本部は歩兵第127旅団を経由して命令を受け 「歩六六作命第八七号」を発令したと考えられる。そして、歩66-気亙66本部が発令した 「聯隊命令の要旨」を受領したと考えられる。時系列にならべて見ると、やはり、歩66−気受領した「聯隊命令の要旨」の発令順序の矛盾が明確になると思う。

ところで、この「聯隊命令の要旨」とは、歩66−気受領した「聯隊命令」なのだから、命令を発令したのは、歩66本部ということになる。歩66本部は、「一一四師作命第六三号」を受けて、「聯隊命令の要旨」(12月13日12:00)と「歩六六作命第八七号」(12月13日23:00)の2つ命令を発令したことになる。

この歩66本部が発令した2つの命令の内容を比較してみると、以下のようになる。
聯隊命令の要旨歩六六作命甲第八十七号
師団は南京城内の敵を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其附近に宿営す、師団は南京城内の敵を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内に於ての方法院南側を東西に通する頼楼以北の地区に宿営す旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内に於て方法院南側を東西に通する道路(頼楼以北の地区に宿営す
聯隊は希望街(二万五千分の一市政府北側を東西に通する道路以北の地に宿営せんとす、聯隊は希望街(二万五千分の一地形図市政府北側を東西に通する道路以北の地に宿営せんとす
歩兵第百弐聯隊は該市街以南地区に宿営す(旅司、旅団予備隊は同地に宿営す)歩兵第百弐聯隊は該市街以南地区に宿営す(旅団司令部及旅団予備隊も同地に宿営す)
聯隊砲及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を発城内に至り別に宿営する地域に移宿す、聯隊砲中隊及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を発城内に至り別に指示する区域に移宿すへし
は比較対象に存在しない文字、は比較対象と異なる文字|
※防衛研究所資料閲覧室に保管されている原本のコピーを基としているので、『南京戦史資料集1』p566-568の記述と一部異なる部分がある|

両命令の違いは、第一に「聯隊命令の要旨」では「イ……、ロ……、ハ……」という段落分けがされていない点が挙げられる。命令形式としては、段落分けされている「歩六六作命甲第八十七号」の方が、一般的な命令の形であるといえるだろう。 第二に、「聯隊命令の要旨」の記述には、省略が多いことに気付く。「旅団司令部及旅団予備隊」を「旅司、旅団予備隊」としている点などは顕著な事例といえるだろう。ただし、以上のような違いがあるもののそれは些細な違いでしかなく、「聯隊命令の要旨」と「歩六六作命甲第八七号」は同じ内容の命令だと判断すべきである。

また、「歩六六作命甲第八十七号」に記されている「下達法」も注目できる。「下達法」には「先つ要旨を各別に下達し次て命令受領者を集め口達筆記せしむ」と書かれている。 つまり、「歩六六作命甲第八十七号」が口達筆記される前に、この命令の「要旨」が伝えられていた。この「要旨」こそ、歩66-気12:00に受領した「聯隊命令の要旨」だったのであろう。

聯隊命令の要旨」と「歩六六作命甲第八七号」が同じ内容の命令であることを考えれば、この二つの命令は、事前に伝えられた要旨命令(聯隊命令の要旨)と、その後に伝えられた正式作命(「歩六六作命第八七号」)という関係にあるか考えられる。


聯隊命令の要旨」の受領時期

聯隊命令の要旨」が、「歩六六作命第八七号」の事前に伝達された要旨命令であるという考え方の最も大きな問題点は、時系列の矛盾にある。戦闘詳報の記述では、「聯隊命令の要旨」は、「歩六六作命第八七号」の11時間以上も前に発令していることになっているからだ。 そこで、歩66-祇鐺詳報に書かれている「聯隊命令の要旨」の受領時間「(13日)午後零時」が、本当に正しいものなのか、命令文の記述から検討したい。

まずは、「聯隊命令の要旨」に記されている日付に関する記述を抜き出してみた。
命令本文
明十四日城内東南部及其附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる…

聯隊長注意事項
砲及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を進発…
昨十三日午前十一時三十五分南門楼上に於て…

参謀注意事項
十五日頃入城式十六日頃慰霊祭を実施せらるゝ予定…
…大隊長代理の引率を以て十四日午後徒歩を以て…
大行李案内の為十四日午前九時迄に案内者を…
十四日午后五時迄に宿営地に…

兵器部注意事項
十四日の弾薬補給時間は…

副官部注意事項
大行李は明十四日諸隊の位置に…
各隊は弾薬を明十五日夕迄に南門外広場に…

抜き出した記述には、12月13日を「昨十三日」、12月14日を「明十四日」、12月15日を「明十五日」という表現がある。このことから、「聯隊命令の要旨」が13日の夜更けに発令されたと推測できるのではないだろうか?

なぜならば、13日の出来事については夜が更けたことで当日でありながら「昨日(昨十三日)」という表現に、14日については現時点を13日とする認識に基き「明日(明十四日)」という表現に、15日については現時点を13日から日付が変わって14日となった認識として「明日(明十五日)」と表現したにした可能性があるからだ。いずれの表現も、13日の夜更けという時点であれば、現実的に許容できる間違い(勘違い)の範囲だといえるだろう。

したがって、この「聯隊命令の要旨」が13日の夜更け、おそらくは日付の変わる時間に近い時点に発令されたのだと推測できるのである。

そうなると、歩66-祇鐺詳報に書かれた「(13日)午後零時」という受領時間は不正確なものであると言えるだろう。上述の「聯隊命令の要旨」と「歩六六作命第八七号」の関係性や、「歩六六作命第八七号」が13日23:00という日付の変わる時間に近くに発令されたものであることを考慮するならば、「聯隊命令の要旨」が発令されたのは、戦闘詳報に記された「(13日)午後零時」ではなく、「一一四師作命第六三号」が発令された20:00から、「歩六六作命第八七号」の発令された23:00の間と推測することが出来る。


時系列矛盾の原因

では、なぜこのような誤った記述がなされたのだろうか?板倉氏は、この「誤った記述」という事実をもって、戦闘詳報は作為的な操作がなされた可能性があると主張するのだから、この点の説明も重要なポイントといえるだろう。そこで、この歩66-祇鐺詳報が作成された状況を確認したいと思う。

南京後略戦における戦闘詳報の作成に関して、次のような資料が残されている。
西沢弁吉『われらの大陸戦記』(1972年)p92
(12月)三十一日晴れ、今日は年取大晦日。郷里なれば年越し金の心配は家長の任務、戦地は金はいらない、官給品で衣食、住は民家を勝手に使う、衣食住の心配がない代り命がけだ。
軍は戦斗詳報作成の為め昨日より暮れも正月も返上して戦いの結果を総まとめにかかる。通達次々と発せられる。
この記述によれば、戦闘が終わってから二週間以上も後に、この戦闘詳報の作成されたようである。114Dは、南京が陥落して2〜3日後には杭州方面に転進する命令を受け、その隷下の部隊は順次南京を発っていたという事情があって、戦闘詳報の作成が遅れたものと考えられる。

また、第1大隊の戦闘詳報の作成に関しては、次のような証言が存在している。
小宅伊三郎曹長(第4中隊第1小隊長代理)の証言
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。
「城塁・兵士たちの南京事件」第19回(『丸』1980年7月号、P213)

小宅曹長は、当時、歩兵第66連隊第4中隊第1小隊の小隊長代理を務め、手塚清第4中隊長が負傷した後、替わって第4中隊を指揮したと証言している人物である。「城塁・兵士たちの南京事件」では、当時の第1大隊の様子を非常に詳しく証言している。
 小宅曹長が証言しているように、大根田陵少尉の戦闘詳報に対する知識が少なかったかどうかは即断できないが、一方、第1大隊の戦闘詳報を書くにあたって、担当将校の不在により混乱があったことは十分に考えられる。

これらの資料からすれば、戦闘詳報を作成したのは戦闘が終了した2週間以上も後のことであり、かつ、大隊の幹部の多くが存在せず、戦闘詳報を作成する担当者も居らず、戦闘詳報の作成に混乱があったといえるだろう。


結論

板倉は、命令の時系列の矛盾を根拠に、戦闘詳報の改竄の可能性を強調した。 しかし、一般的に考えて、公文書である戦闘詳報を改竄するとは考え難い。

しかも、その理由として、捕虜殺害という戦争法規違反行為を隠蔽するためだと推測するのである。しかし、捕虜殺害という行為が問題視されるのであれば、それが第1大隊が勝手に行ったものだろうと、歩66本部からの命令だろうと(もしくは旅団命令だろうと)、問題性に差はない。捕虜殺害が問題視されるならば、当然、命令系統を調べることになるだろうし、そうなれば第1大隊戦闘詳報の記述の改竄などすぐに露見してしまうだろう。捕虜殺害という行為が問題であるならば、命令を捏造するなどという無意味で遠回りな方法をとらず、その行為自体が存在しないことにすれば良いのである。 このように板倉の推測には、根本的な矛盾があると考えられる。

板倉が時系列の矛盾を指摘した「聯隊命令の要旨」は、指摘の通り矛盾したものであるが、一方で、12月13日23:00に発令された 「歩六六作命第八七号」の事前に伝達された要旨命令であることが確認できた。また、当時の戦闘詳報作成の状況が、実際の戦闘からだいぶ経った時期に作成されたこと、本来の戦闘詳報担当者の不在などから作成に混乱が生じていたと推測できる。

聯隊命令の要旨」は、戦闘詳報に記述された「午後零時」ではなく、「一一四師作命第六三号」が発令された20:00から、「歩六六作命第八七号」が発令された23:00の間に発令されたのである。これが戦闘詳報に「午後零時」に受領したと記述されたのは、戦闘詳報を作成する段階において、混乱が生じていたことによる単純な誤解が原因だったと考えるのが妥当であろう。



命令の時系列の矛盾を指摘した点はよく気付いたものだと感心するが、それをもって捕虜殺害命令を捏造されたという結論に導こうとすることろは、「結論ありき」の研究だと言われても仕方ないだろう。


このページへのコメント

>これらの資料からすれば、戦闘詳報を作成したのは戦闘が終了した2週間以上も後のことであり、かつ、大隊の幹部の多くが存在せず、戦闘詳報を作成する担当者も居らず、戦闘詳報の作成に混乱があったといえるだろう。

東中野説批判では、戦闘詳報が適切に作成されていたとして反論しているのに、ダブスタになりませんか?

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Posted by へげもん 2007年01月23日(火) 10:32:36 返信

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